参考→普通の人 朝日 108 nameless 宵闇の訪問者 allergen [設定]
03/11
■pigeon blood
午後一番の現代国語は退屈でたまらない。古い小説を読まされて、定年一歩手前の爺さんがそれらしい解説をつける。最後には必ず「ここ試験に出るからな」と付く。それがまた小説への興味を削いだ。森鴎外も夏目漱石も、古臭い言いまわしばかりで読みにくい。
勇は欠伸を噛み殺しながら窓の外を見た。
こんな古典、何が面白いのかと親代わりの男に聞いたことがある。彼は眉間に皺を寄せ、目を細め、こめかみを揉んで一言こう言ったのだ。
「俺、化学教師だから」
その化学教師は今の時間、暇を持てあましているはずだった。金曜の五限目には授業がない。彼の城――化学準備室で惰眠を貪っている姿が容易く想像できる。
サボってしまえば良かった、と勇は机に突っ伏した。
脊椎を冷たいものが駆け上がった。
考えるより先に身体が動いた。椅子を蹴り、教室の戸を乱暴に開けた。クラスメイトがそんな勇に驚いている。
「逃げろ!」
反射的にそう叫び、柱の影に身を隠した。疑問を投げかける声は悲鳴に変わったが、勇の耳には届かなかった。
耳をつんざく爆音が教室に飛び込んできた。
机をなぎ倒し、黒板を吹き飛ばし、クラスメイトと教師が絶望の声を上げながら地に伏す。実際には見えない、そんな光景がまざまざと目の前に展開される。平和に退屈な授業が行われていた教室は瓦礫の山と化した。友人たちはまだ生きているだろうが、無傷はありえない。
火薬の匂いが周囲を包む。ひしゃげた扉が廊下に転がっているのが見えた。耳を塞ぎ、歯を食いしばるが、目を伏すことはしなかった。彼はそういう風に訓練されていた。
爆発。それはつまり何らかの兵器が使われたということだ。まったくどうしようもないほど平和な教室に、非日常的な暴力が持ち込まれ、破壊していったのだ。これは天災ではない。誰かが故意に引き起こした人災だ。
何が起きたのか、現状だけは把握できた。しかし、誰が何のためにこんなことをしたのか、理由がさっぱりわからない。
そしてそれ以上に、咄嗟にそんな行動を取った自分がわからなかった。何となく、そう、何となくだ。こうなることを本能が察知し、身体を動かした。
轟音がまだ耳の奥に残っている。驚きと悲しみと疑問がマーブル状に脳を染め、混乱を招く。
それはダメだ。現実をしっかりと見ろ。
勇はもう一人の自分の声を聞いたような気がした。ぴしゃりと頬を叩き、混乱という逃避すら許してくれない。
行動。
行動するんだ。
勇は立ち上がった。とりあえず逃げよう。ここにいたら危険だ。
無人だった廊下に人の姿が現れ始めた。爆発音に異常を感じたのだろう。一目散に逃げて行く者もいれば、興味を持ったのか1−Bに近付いてくる者もいる。勇の姿を見止めて何があったのかと問う教師もいた。
好奇心は猫を殺す。
呟いて勇は舌打ちした。
廊下の火災報知機のスイッチを拳で叩き割った。わずらわしい大音量のベルが校内を満たす。それで誰もが異常を危険と認識した。勇に背を向け、出口を求めて廊下を走る。
そこにまた爆発音。
強烈な光と衝撃が教室の内部で膨らみ、弾ける。勇の眼前で、1−Aの扉が吹き飛んだ。天井近くに並ぶ明かり取りの窓ガラスも残らず砕け散る。
そんな教室から黒い塊が転がり出てきた。煙をまといつつ床で一回転し、膝をついて止まる。長い黒髪の先がちりちりに焦げていた。紺色のプリーツスカートが摩擦で溶けていた。
「伊佐美!」
双子の姉の姿に、勇は思わず喜びの声を上げた。
「ああ、勇。無事だった?」
そう言う伊佐美の目には涙が溜まっていた。むせたように咳を繰り返す。
「催涙弾みたい。まったく、喉が痛くてしょうがないわ」
目をこすり、伊佐美も立ち上がった。
「あんたよく逃げられたわね」
「伊佐美もね」
同じ顔を向かい合わせ、二人は半身の無事をたたえる。伊佐美は煤けた顔をしているものの、特に傷らしい傷もない。
「直感的にわかったんだ。どうしてだかわかんないけど」
「あたしもよ」
わけがわからない、と言いたげに伊佐美は肩をすくめた。ぐい、と手の甲で頬を拭う。
「とにかく、ここにいたらヤバいのは確かね」
勇は双子の姉にうなずく。クラスメイトや教師が気にならないと言ったら嘘になる。だが、今は逃げることが最上の策だ。どうせ戻ったところで、たかが男子高校生一人にできることなどない。一刻も早く助けを求めることが先決だ。
壁を隔てた向こうからローター音が聞こえてきた。非常ベルに混じっても、その暴力的な音ははっきりとわかる。
勇の耳は、それがただのヘリでないことを聞き分けていた。一人二人を乗せる小型ヘリではない。大型の、それも軍事用ヘリだ。それが三機、校舎の外の宙に留まっている。ごく近い。
するり、と廊下側の窓の外にロープが垂れていた。風もなく青い空の下、それは奇妙なまでにまっすぐな線に見えた。
「伊佐美」
勇は伊佐美の手を引く。
「逃げるぞ」
ロープ沿いにするりと黒い男が降りてきた。握られている物が何か確認する前に、双子は走り出した。
二人がいた空間を弾丸がずたずたに裂いていった。昨年塗り直した校舎の壁があっさりと崩れていく。念のいったことに、双子が階段に入った頃には、廊下に丸い小さな塊が転がり落ち、光と煙を噴き出していた。無知ながらも、それが手榴弾と呼ばれる物の類であることは簡単に想像できた。
「こんなところで戦争でもやる気かよ!」
階段を駆け下りる。一瞬遅れて煙と閃光が二階の廊下を走り抜けていく。そして悲鳴も。クラスメイトと教師の無事を祈りながら、勇は他の生徒とともに一階へ向かう。
「勇、ダメ!」
急に伊佐美が止まった。
「下からも来る!」
勇も足を止めた。耳を澄ませると、聞き慣れない足音が聞こえた。ゴム底の指定の上履きでは出せない、もっと重くもっと武骨な音。
避難しようと急ぐ生徒たちに押されながらも、下っていた足を昇りに変えた。波に逆らっているため思うように上がっていけない。
そうこうしているうちに、下に黒い影が現われたのが見えた。いつかテレビで見た警察の強襲部隊みたいな格好をした男たちだ。黒いヘルメットに黒いゴーグル。分厚い防弾のジャケットを着こみ、その手にはもれなく、銃器。人混みの中が幸いしたのか、使う様子はない。
素顔を隠すゴーグルと目が合った。
狙いは自分たちだ。
その瞬間、奴等を敵と認識した。勇は伊佐美の手を強く握り、人をかき分けて上へと走る。逃げろ、と頭の奥でがんがんと叫ぶ自分がいる。
逃げろ、態勢を整えろ、反撃しろ。
頭を振った。さっきからおかしい。知らない自分が身体の中で頭をもたげている。心臓の中にある小さな箱の中で、声を上げながら壁を叩き続けている。警鐘のようなその音は頭蓋の内部でがんがん反響していた。
あたしたちは平凡な高校生なのに、と伊佐美が呟くのが聞こえた。そう、二人にはこうやって追われる理由がわからない。金持ちの令嬢令息であるわけもなく、世界中から狙われる犯罪者であるわけもない。朝起きて、学校に行って、時々バイトもして家に帰る。そんな日々を繰り返すごくごく普通の高校生として生きてきた。
四階まで上がってきた。
さすがにこの階にはもう誰もいない。みんな下へと逃げ、教室はどこも空っぽだった。そのはずだった。
屋上へと続く階段と、四階の奥のほうから複数の重い足音が聞こえてきた。
「ここも駄目だ」
勇と伊佐美は三階に引き返す。さらに下へ行くことも考えたが、すでに男たちが上がってきているはずだ。これ以上、下へは行けない。ネズミがネズミ取りに鼻先を突っ込むようなものだ。良くて蜂の巣。嫌な想像が脳裡をかすめた。
勇はもう一度耳を澄ませた。校舎を囲むヘリの音、鳴り続ける非常ベル、そして重い足音。全てこの校舎を包んでいた。窓から北校舎へ目を向ける。特別教室が集まっているそっちにはあやしげな影はない。
三階には北校舎へ続く渡り廊下がある。ここから北へ抜け、一階に降りれば外に出られるかもしれない。迷わず三階を走った。伊佐美が後からついてくる。今はどんなに小さな可能性でも信じるしかない。
だが、敵はそれも予測していたのか。
背後で3−Dの扉が砕けた。走りながらも何事かと振り返ると、細長い銃を握った男たちが二人、双子に狙いを定めていた。
「――!」
咄嗟に勇は伊佐美を横に突き飛ばした。その反動を利用して、勇は反対側へと身体を投げ出す。
きゃ、と短い悲鳴が上がった。
伸ばされたままの右腕を銃弾が掠めていった。学生服を裂き、赤い血がうっすらとにじむ。だが、痛いと思っている暇もない。今は逃げなければ。
勇と伊佐美はほぼ同時に、前に飛んでいた。
二人がいた床を鉛弾が穿つ。おそろしいほど正確な弾だ。一瞬でも判断を誤れば命がない。
二人は打ち合わせることもなく、交差しながら前へ前へと進んで行く。狭い廊下で奇妙な軌道を描いて移動すれば狙いはつけにくい。双子は勝手に動く身体に驚きながらも、今はそれに任せるしかなかった。理性が身体を止めれば間違いなく命はない。
渡り廊下はもう目の前だ。そこに入れば一時的とは言え、攻撃を避けられる。
伊佐美は消火器を後ろに蹴った。消火器が弾を弾きながら勢い良く転がっていく。弾を弾くといっても所詮日用品。耐火に優れていても防弾には優れていない。一発が赤い筒を撃ち破った。しゅ、という空気の抜ける音がする。
黒い装備が一瞬で白へと転じた。
撒き散らされる消化剤に、銃撃が止んだ。二人の男の背後に見えた増援も、白い粉に姿が消える。
こうして消火器は本来の使用法ではないものの、人の命を救うという役目を全うした。
双子は振り返ることもなく、渡り廊下へ滑り込んで行った。背後を、無駄に発射された弾が遅れて通過していく。
だが、すぐに足が止まった。渡り廊下の奥からまた重々しい人影が走ってきた。軽機関銃を両手に構えている。二人は警戒し、いつでも飛び出せるよう姿勢を低く構えた。
「――って高志か」
勇は見慣れた顔に、緊張を解いた。傍らで伊佐美も安堵するように息をつく。
「何よ、その格好」
呆れたような声だった。
二人の保護者であり、化学教師である男もまた、戦争にでも行くような格好をしていた。両手の軽機関銃もさることながら、手榴弾に拳銃に弾倉と物騒な武器を身体にくくりつけている。いつもの白衣と眼鏡もない。百人が百人見ても、この男が教師だとは思わないだろう。
悪い冗談かと思った。
冗談と思うだけでそう驚かなかったあたり、二人とも感覚が麻痺してきているのかもしれない。今ここでミサイルを撃ちこまれても納得してしまうだろう。
「説明は後だ」
言って高志は軽機関銃を二挺、伊佐美に投げた。伊佐美は反射的に受け取ってしまい、
「な、何よこれ!?」
狼狽しながら二挺の武器を見つめた。小さな白い手にはあまる。高志の行動が理解できず、勇も目を丸くした。武骨なラインの銃は、プリーツスカートに不思議と似合った。
そして高志は伊佐美という名の引き金を引いた。
「ST-90a、仕事だ」
***
爆発音が続けて二発、耳の中を駆け抜けた。けたたましい非常ベルが校内に鳴り響く。
窓の外に目を転じると、軍用ヘリが三機、南校舎を取り囲んでいた。一機は屋上に梯子を降ろし、腹の中から黒い狗を吐き出している。一階は一階で、あらゆる入口から黒い蟻が入り込んでいる。
まさかと思うが現実は動かしがたい。高志は、結社は少数精鋭で来るものと決めつけていた。今までの経験から、多くても五人の能力者が投入されるものと見積もっていた。
それがどうだ。ヘリから降りてくるのは重装備の群れ。まるで守護局だ。守護局の得意とする人海戦術を真似ている。
相手が能力者でなかった分、最悪の事態は避けられたのかもしれない。目に見える物が相手ならば、多少は希望があるだろう。いくら双子がまともではないとは言え、能力者を相手にするのは分が悪すぎる。今の二人は普通の人間と同じなのだ。
それでも緊急事態であることには変わらない。高志は三階に向かって走った。二段ずつ飛ばして階段を駆け上がる。二階奥の化学準備室から三階渡り廊下まではかなりの距離がある。くわえて能力者の少年による時間稼ぎ。奴等が準備するにも十分なだけの時間はあった。
一階と屋上はもはや敵に塞がれた。出口として機能しない。ならば逃走経路として三階の渡り廊下を選ぶのは必然だ。考えるまでもない。だが、それは訓練された人間であるからこそ思いつく考えだ。あの双子が瞬時にそこまで判断し、適切な経路を選択できるだろうか。素人同然なのだ。爆発に巻き込まれていたり、パニックに陥っていたら、と嫌な考えが浮かぶ。
高志は想像を頭から追い出した。今は二人を信じるしかない。
そしてあの狡猾な結社がそこまで睨んでいないわけがない。罠がかけられているなら三階だ。
一刻も早く双子の元に行かなければ。気持ちだけがはやる。
行ってからどうする、と自問した。
かつての傭兵経験があるとは言え、あの人数を一人で捌き切れる自信はない。今の双子では戦うことは無理だ。本能で命の危機を避けることはできても、反撃はできまい。
たかが二人の高校生相手にあれだけの人数を投入してくるほうも阿呆だと思う。高志と双子に対してそれだけの評価を下してくれているのなら光栄ではあるが。
強く唇を噛む。鋭い犬歯が柔らかい皮を裂き、血が流れた。
たった一つ、切り札はある。これを使えば確実に窮地を逃れられる。だが、それは最後の切り札であり、開けてはいけないパンドラの箱だ。開けたら最後、平穏な生活はこの手に戻ってこない。
悩む。たとえ今が仮初の幸せであっても捨てたくない。
幸せが惜しいならここで命が果てる。命が惜しいなら幸せは消える。
ふとかつての友人を思い出した。
守護局にいた頃の友だ。あっちはどう思っていたのかわからないが、高志は勝手に友人だと思っていた。旭という名前の治癒能力者だった。彼は救護班に属しており、任務でボロボロになった高志をよく治療してくれた。その間に他愛もない話をよくしたが、決まって二人とも幸せになりたいと語り合っていた。
その旭と別れる時、高志は何と言ったか。
祈るような気持ちで三階へ上がった。息もつかぬ勢いで渡り廊下まで一気に駆け抜ける。
遠い昔と同じ、戦場の匂いがした。
長い長い廊下の向こうで銃声が聞こえた。そして空気が抜けるような音も。顔が青冷めるなんてことはない。おおよそ予測していた。銃声が聞こえるということは、イコール二人がこの階にいるということだ。
一瞬銃声が止んだ。さすがにこの時ばかりは高志も混乱した。二人が生きているならば銃声が止むはずがないからだ。物言わぬ骸が二つ転がり、兵士たちがそれを確認する。まったく嫌な光景だ。
だからこそ再び銃声が鳴り、その中から二人の姿を認めた時は安堵した。
スライディングの要領で渡り廊下に滑り込んできた。二人はいたって元気だった。勇のほうが腕から血を流しているものの、他に大きな怪我はない。
「――って高志か」
「何よ、その格好」
一瞬警戒はしたが、見知った人間だと確認すると、双子は安心したように言った。
そうか、と高志は心の中で呟いた。二人の無事を確認した時の気持ちは嘘じゃない。真実だ。
迷わず両手の軽機関銃を伊佐美のほうに投げ渡した。少女は驚いてそれを受け取った。避けることも落とすこともしない。彼女の白い手の中にしっくりと収まる。やはり身体は忘れていない。
本能レベルのものを消すのは無理です。
必死で記憶を消そうとしていた研究員の言葉を思い出す。くやしいが、今は双子を作った奴等に感謝した。
そして高志は呪文を唱える。パンドラの箱を開ける呪文を。
「ST-90a、仕事だ」
唱えながら、旭に言った言葉を思い出した。
――てめぇの幸せはてめぇで生きて切り開いてくもんなんだよ。
***
さざなみが引いていくように空気が引いた。勇にはそう感じた。全ての動きが止まる。人も、硝煙も、空を裂く弾丸ですら止まって見えた。
止まった空気はやがて渦を巻き、入ってきた方向へと流れを変えた。勇は廊下の真ん中に突っ立って、ただ呆然と、それを見ていた。渦の中央には伊佐美がいる。だらりと腕を垂らし、南校舎側――敵のほうに目を向けていた。
よく知る姉の気配が消えていた。柔らかく温かい羽毛のような安心感が消失している。鋼のような冷徹な気配だけが濃密に彼女を取り巻いていた。
知らない。
冷や汗が背を伝う。
こんな伊佐美は知らない。
息を飲む。肌は敏感にも彼女から発せられる殺気を感じていた。刺だらけの殺気がみなぎり、壁を窓を叩いていた。
だけど、本当は知っている。こんな彼女を知っている。
戻るしかないんだよ。
心の奥底で、黒い自分がにやりと笑った。ぽっかりと空いた穴の中にうずくまり、頭の中で警鐘の紐を握りつづけていた、もう一人の自分だった。
長い長い時間、伊佐美を見つめていたような気がした。二挺の軽機関銃を持つ彼女を恐れる一方、美しいと思った。銃を持つ女神がそこに舞い降りた、とまで錯覚した。
だけど実際は一呼吸に満たない時だった。
小気味良い音とともに、伊佐美が銃弾をばら撒いた。その音に勇は我に返る。双子の姉は黒髪をたなびかせて地を駆け、敵陣に突っ込んでいく。
「え!? あ、伊佐美!!」
弟の声も耳に届かない。少女のしなやかな肢体が舞った。彼女は床を蹴って飛び上がり、反転。その後を弾が追っていくが到底追いつかない。せいぜい髪を幾筋か散らせる程度に留まる。パリンと蛍光灯が割れた。彼女は天井を蹴って黒装備の群れの中に飛び降りた。
戸惑いながらも彼等が銃を撃たなかったのは懸命な判断だっただろう。伊佐美に向かって撃てば確実に相打ちになる。女神は両腕を交差し、手を出そうにも出せない彼等に鉛弾をくれてやった。豹のように俊敏に、そして確実に獲物の喉元に食らいつく。
「お前はここにいろ。頭は低くしとけ」
高志はベルトから二挺の拳銃を抜いた。片方はやたらとでかい銀色の拳銃だった。
「いざとなったらこれを使え」
勇の足元におもちゃのような拳銃を転がす。とりあえず拾い上げるが、
「使い方わかんないんだけど」
初めて触る鉄の感触に戸惑う。
「セーフティを外してトリガーを引く」
高志はそれだけ言って伊佐美の後を追った。伊佐美が豹なら高志は猟犬だ。目に宿る光はもはやいつもの男ではない。獲物の喉笛に食らいつく狩猟者の瞳だ。突撃銃を向けてきた男の手首を吹き飛ばし、右肩を撃ち抜く。命は取らずに無力化する。実に無駄がない。
ガシャン、と伊佐美の軽機関銃から弾倉が落ちた。弾切れだ。それを好機と見たのか、大小様々な銃口が彼女を狙う。伊佐美がそんな状況を一瞥した。
す、とその包囲網の中から突然伊佐美の姿が消えた。引き金の上の指が止まった。女の姿を探して、ゴーグルの奥の目と銃口がさまよう。
カチャン、と先ほどとは違う音が上から聞こえてきた。
いくつもの目がそちらを向く。しかし不幸なるかな、彼等が見たのは少女ではなく弾丸の先端だけだった。弾は黒いゴーグルの上に蜘蛛の巣を描く。
弾倉を抜いた伊佐美は、高志が天井近くに投げ上げた弾倉をキャッチして装填。再び攻撃に転じたのだ。それだけの離れ業をやってのけ、なおも伊佐美は手を休めようとしない。その上、この階を突破しようと前に進んでいた。踊るように弾丸をばら撒きながら、打ち倒していく。
南校舎の階段からは次から次へと武装した男たちが現われる。それでも立ち込める硝煙の中、二人は決して負けてはいなかった。たった二人に軍勢が押されているのは火を見るより明かだった。
いつの間に、と疑いたくなるほどに伊佐美と高志の連携は見事だった。彼女が宙を舞えば高志が足元を掬う。パートナーに危機がせまれば背後へ肘を繰り出し、脳天に手刀を落とす。
勇はそんな二人を見ているだけだった。高志から渡された銃を握り締める。逃げているときに全身を包んでいた緊張感は、いつの間にか消えていた。じくじくと痛む右腕が急に気になってきた。かつんかつんと空薬莢が落ちる音を聞きながら、どうしようかと惑うばかりだ。
高志は逃げろとは言わなかった。無理矢理南校舎を抜けるよりも、北校舎のほうが安全ではないかと考え、勇は思い直した。窓の外をそっと伺い、敵の配置を確認する。
南校舎を挟むようにヘリが二機、屋上に一機。いずれも兵士を吐きだし終えたのか、上昇を始めていた。
敵は南校舎を重点的に攻めてきている。狙いが自分たちであれば納得できる。授業中の教室を一網打尽にすればいいからだ。普通の人間だったらそれで済むかもしれない。だが、生憎と自分たちは普通じゃない。普通だと思っていけど、あんな伊佐美を見せつけられたら諦めるしかないだろう。
だから奴等は念を入れ、大量に兵士まで送り込んできた。二人を追い詰めるためだ。まったく、こんな状況を作り出すなんて非常識きわまりない。こっそりと勇は息をつく。
追い詰める、でふと考え付いた。
奴等は北校舎をガラ空きにしているわけではない。これはネズミを追い込むための罠だ。北校舎を安全なように見せておけば、こっちへと逃げ込むだろうことは簡単に予測がつく。今ごろ北校舎に入っていたらどうなっていたのだろう。
そこまで考えが至り、急に寒気がした。
高志が南校舎を突破することにしたのは、まったく正しい判断だったわけだ。
今更ながら、親代わりの男が何者なのかわからなくなってきた。普段はちゃらんぽらんなくせに、ちゃっかり銃器を持ち込んで、しかも使いこなしている。高志もまた普通の人間じゃない。
頭の中で一般人としての常識が、現状を非現実的なものと訴えている。思考のスイッチを下ろして気絶してしまえと呼びかける。それが普通の人間の行動だとも。
そう、そう言えば高志は伊佐美に何と呼びかけていた?
「どうした?」
びくり、と身体が強張った。
果てなく続く銃撃戦をBGMに、たしかな声が背後からした。無意識に指が拳銃の安全装置を外していた。
「実力行使とは本当に乱暴な連中だな。素直にこっちに来れば良かったものを」
かつん、と革靴が床を叩く。
「さすがの私も待ちきれなくなった」
女の声だ。ハスキーな声がある女優を思わせる。
「坊や、こちらを向きな」
ぐわんぐわんと耳の奥で鐘が鳴り始めた。筋肉が引き締まる。数分前の緊張が戻ってきた。銃把を握る掌が汗ばんでくる。
「こちらを向け」
恐る恐る振り返る。やはり女だ。目にも鮮やかな真紅のスーツを身に纏い、膝上のタイトスカートからは濃色のストッキングを履く足がすらりと伸びる。反対に顔は白い。全体的に色素が薄く、欧米系の顔立ちだった。美人と言えば美人だが、漂う冷たさが彼女から人間味を損なっていた。
「顔だけじゃない。身体ごと向け」
女に向き直った。手にした銃を構える。引き金に指をかけ、女の胸を狙った。
しかし、女は動じなかった。勇が持つ物はおもちゃだと言わんばかりに鼻先で笑う。
「お前が守護局の最終兵器か」
守護局、の言葉に身体が震えた。聞いた覚えはないのに、胸の奥の忘れていた何かをくすぐられる。欠けたピースを求めて心がうずく。
「今はただの小僧になったという噂は本当だったか。せっかく身につけたものを捨ててしまうとは愚かな。まあいい、振れば何かしら出てくるだろう」
近付いてくる。強烈な百合の香がゆらりと空気を揺らし、勇の鼻につく。
膝が笑っていた。緊張は極限にまで達し、身体はいつでも準備できていると言っているのに行動に出ない。身体を解放し、本能レベルにまで落ちれば伊佐美のように自在に動くことができる。眼前の敵を討つことだって容易いだろう。だが、頼りにすべき本能はここにきて理性に打ち負かされていた。
それが恐怖という感情であることは勇自身がよくわかっていた。
女が薄く笑う。それだけの行為ですら空気を凍りつかせるには十分だった。
歯の根が合わない。助けを呼ぼうにも声が出ない。駄目だ。この女にはどうしたって勝てない。今の勇は女郎蜘蛛に絡めとられた哀れな蝶だ。
「さあ、来るんだ」
白い手が差し伸べられる。指先に目を奪われる。真っ赤な爪が張りついていた。
魔女だ。この女は人を惑わす魔女だ。そう思いつつも、抗えない何かが勇を巻き取り、引き寄せる。廊下も天井も壁も勇の目に入っていなかった。もう、この女しか見えない。
腕が下がる。身体の重心が移動し、足が前へと出る。
その足先を弾が穿った。同時に高志の声が廊下を駆け抜ける。
「ST-90b、行け!」
かちり、とスイッチが入った。
勇は下げていた銃身を再び持ち上げ、迷い無く女に向かって発砲した。感情により狭まっていた視界が広がる。後ろは高志たちがいるから気にすることはない。前には女が一人と、おそらく護衛なのであろう男が二人。男たちの姿は目に入っていない。入っていないが、いると直感した。
欠けていたピースがはまった。
銃弾は女に当たることはなかった。腹を狙ったはずの弾は見えない力で逸らされ、後方に流れて行った。黒板を引っかくような耳障りな音を立てながら、軌道を歪まされたのだ。
音を聞きつけ、黒スーツの男が二人、陰から飛び出してきた。
勇は横にステップを踏み、一人二発、計四発を彼等へと撃ち出した。
驚くほどあっさりと弾が当たった。男たちはもんどりうって倒れる。撃ったはずの腹は無傷。どうやら防弾チョッキを着込んでいるらしい。だが、勇はしくじったとは思っていない。
やや遅れて首の付け根から血が噴き出した。頚動脈。致命傷だ。それでも立ち上がろうとした根性は立派だが、彼等の道には絶命しか残っていなかった。もたげた首が再び床に落ちる。
完全に回路が切り替わった。理性はぶっ飛び、本能だけが身体を動かす。今や勇は何も考えていない。伊佐美と同じだ。全身から感情が消え、精密なコンピュータが四肢を動かしていた。
「面白い」
女の赤い唇が吊り上がった。一振りした右手の中に銀のナイフが三本、握られている。
「最終兵器と呼ばれたその力、存分に見せてもらおうか」
勇の足に黒い塊が当たった。勇はそれ――持っているものと同じタイプの銃を拾い上げた。見れば弾倉がついていない。それでも左手に握り込み、駆けた。
女の手から銀光が射出される。
それを紙一重で避けると、今度は避けたところを狙ってさらに三本飛んできた。身体を沈め、それもまた避ける。
「この、ちょこまかと! お前は虫けらか!」
女が手を振るたびにナイフが現われ、飛んでいく。文字通り、凶器はどこからか無限に現われていた。腕は素人ではない。それでもバーでダーツで遊んでいる連中よりかは遥かにマシ、という程度。
右手の銃を続けて三回、引き金を引くが、やはり嫌な音とともに逸らされる。強力な対物理障壁。つまりこの女も能力者というわけだ。
「標本にしてやるわ!」
床を転がる勇の後を追うように、ナイフが突き立っていく。ロングレンジからの銃撃は無効、と脳という名のコンピュータがはじき出す。ならばと勇は背中で女の足元まで滑り込み、下から顔へ向けて射撃した。
見下ろす女の顔から笑みが消えた。ナイフを握る右手が顔を覆う。顔が苦渋に歪むのが見えた。三発は逸らされたが、一発が髪の先を散らした。
そのまま転がり、再び距離を取る。クロスレンジの射撃は有効、と脳がはじく。
絶えることなく投擲されるナイフを避けながら、勇は再び駆けた。低い姿勢で女の足元を掬うように走る。それも見透かしていたかのように、ナイフが追ってくる。
勇は何をすることもなく、そのまま通り過ぎた。
「何!?」
女が狼狽した。
一直線に向かった先には、小さな黒い箱が転がっていた。勇はそれを取り、左手の銃把に押し込んだ。上履きが甲高い音を立てて床を擦る。遊底を引く。
勇はそれだけの動作を一瞬で行った後、ターンしてきた。床を蹴り、女との距離を詰める。
高志が投げてよこしたのは空っぽの銃だけではない。あいつがそんな抜けたことをするようなタマか。もちろん、満タンの弾倉も投げていたのだ。
あまりにも早く、あまりにも予想外の行動に女は反応が遅れた。
二つの銃口が女の胴にあてがわれていた。ぴっちりとしたスーツに覆われた腹が、緊張にびくりと動いた。良く鍛えられ、引き締まった腹筋だった。それでも生身では鉛の暴力には勝てない。
感慨も何もない。あとはそれをするだけだ。
「さすが」
女が口にしたのはそれだけだった。
引き金を引いた。
***
学校はボロボロで、勇たちもボロボロだった。
怪我がひどいというわけではない。それどころかほぼ無傷と言ってもいいくらいだ。勇の右腕だってとっくに血が止まっていた。ただ、精神的に疲れ果てていた。
散らばる空薬莢と倒れ伏した黒装備の群れの中で、三人はぐったりと座り込んでいた。
「――もう歳なんじゃねぇの?」
荒い息をつく高志に、勇はそう言い放った。
「バカ言うな。俺はまだ現役だ」
「じゃあ、なんでそんなに苦しそうなのかな」
にやにやと伊佐美が笑う。
「うっせ。お前らだって同じだろうが」
毒づくものの、高志はまだ起き上がらない。伊佐美の膝に頭を載せたまま、天井を見上げている。弾痕が残る天井を。
三階は惨憺たるものだった。場所を問わず穴が開き、天井の蛍光灯は残らず割れていた。まともに開く扉は残っているのだろうか。周囲に転がる人間たちも、死んではいないが生きてもいないだろう。三途の川で脱衣婆とご面会中かもしれない。
殲滅完了、と高志は心の中で呟いた。現役の傭兵だった頃、何度も口にした言葉だ。
胸ポケットから潰れたソフトパックを引っ張り出し、くしゃくしゃになった煙草を一本抜く。オイルライターで火を点けようとしたところに、
「校内禁煙だよ」
たしなめ、くわえたそれを伊佐美が奪う。
「こんだけ硝煙(モク)がプンプンしてるんだ。わかんねぇよ」
奪い返して火を点けた。紫煙が伊佐美の鼻先をかすめて昇る。
勇がふらりと立ち上がった。両手の中にあった銃が抜け落ち、床を叩いた。
「あ」
ふらりとまた座り込んだ。伊佐美の肩に額を当てる。
「どうしたの?」
「貧血っぽい」
「そりゃ、あんだけ動けばな」
高志が笑った。汚れたワイシャツからはまだ硝煙の香りが立ち昇っている。今更のようにぐい、とネクタイを緩める。眼鏡もない今、歳の割に幼い顔がますます少年のように見えた。
嵐の後の静けさとでも言うのか。校内はいたって静かなものだった。とんでもないことに巻き込まれたというのに、なぜか気分だけは清々しかった。高志が、教頭が、とぼやく。今更体裁を気にするかのような高志の口ぶりがおかしくて、双子も笑った。
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。一つや二つじゃない。何台分もの音がする。パトカーと消防車と救急車が総出動だ。まったく、遅いご到着だ。
「さあ、身体に活入れろ。逃げるぞ」
「ああ、面倒なのだけはごめんだ」
高志と勇が立ち上がり、二人で伊佐美の手を引いて立たせる。軽い少女の身体は男二人に簡単に持ち上げられる。
「行くあては?」
問う伊佐美に、
「さあね。とりあえず家に帰るだけだ」
答えて高志は彼女の煤けた額にキスをした。