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■普通の人
朝日が崩れた廃ビルを照らしている。取引を始めた時はまだ暗かったのに、気が付けば夜明けは過ぎていたようだ。
「はぁ……」
右腕を押さえて高志は大きく息をついた。一息ついて落ち着いて、左足首が痛いことに気付く。必死になっていて気付かなかったが、どうやら捻っているらしい。
「ああ〜、痛ぇ〜」
身体中に細かい怪我がある。右の目蓋は腫れ上がっているし、両掌はボロボロだし、致命傷ではないものの脇腹はえぐれている。痛みに耐えられず、辛うじて持っていたグロックが手から落ちた。
「やられましたねぇ、高志さん」
のんびりとした声が降ってきた。ぐい、と頭をつかまれ上を向かされる。
「髪、焦げてますよ」
白い衣服の男が高志を見下ろしていた。救護班の旭だった。開いているのかどうかわからない目だが、丹念に高志の全身を見回している。じっくりと検分した後、高志の前に腰を下ろして持っていた救急箱を開けた。
「うわぁ、ひどいや」
旭はただの布切れとなったジャケットを剥ぎ、腹部を湿したタオルで拭いていく。
「ここも焦げてますね。爆風にでもやられました?」
「違うよ。相手は発火能力者だったらしい。俺と同じだと思って油断してた」
旭は慣れた手つきで薬を塗り、腹部に包帯を巻いていく。消毒薬が染みて高志が唸る。
「高志さんは普通の人なんだから無茶しないでくださいよ。俺らの治癒能力にだって限界があるんだから」
普通の人で悪かったな。
そう言いかけるが、強烈な痛みに言葉を飲みこむ。旭が折れた右腕を持ち上げ、袖口を破っていた。剥き出しになると、腕が変な方向に曲がっているのがよくわかった。
「このビル壊したのって、その発火能力者がやったんでしょ? 結社も無茶しますよね」
「そんなの、ここを指定された時から予想していたさ」
予想はしていたが、規模はそれを超えていた。いくら深夜の取引であるとはいえ、発破をかけるとは思っていなかった。おかげで逃げ遅れ、この様である。
ビルが崩壊して、現場に駆けつけたのは旭だけじゃなかった。守護局も結社も存在が公になることは避けねばならない。そのための工作班もやってきて後始末をしていた。見た目には警察と変わらない。もっとも、警察の上層部には守護局の息がかかっているため、何があっても揉み消すことはできる。
「で、取引はどうなりました?」
「逃げられた。結社も焦っているらしい」
「はあ、逃げられましたか」のんびりと旭が繰り返す。「早く追わなくていいんですか?」
「追うよ。鎮痛剤、たっぷり打っておいてくれ」
はいはい、と旭は応え、救急箱から注射器を取り出す。
「失敗は許されませんからね。僕たちはあなたを始末するのなんて簡単なんですから」
何やら恐ろしいことをさらりと言われた。失敗したら待ちうけているのは死である。それが守護局の恐ろしいところだと、高志は思う。
同時に、それなら俺がやらなくてもいいだろう、とも。
守護局も結社も特殊な人間の集まりである。そしてその二つがいがみ合い、日々見えないところで争っている。多少身体能力に長けていても、所詮普通の人間でしかない高志が出る幕ではない。
しかし、守護局も結社も自分たちの手の内をさらすことを恐れている。どのような能力者を保有しているのか、内部は厳重に隠蔽されている。
だから、取引などの『おつかい』には高志のような人間が使われる。一般の人々よりは優れた能力を持つ、だが、使い捨ての駒でしかない人間が。
「終わりましたよ」
ぱたん、と旭は救急箱の蓋を閉めた。そして新しいジャケットを高志に手渡す。手の痛みはすっかりひいていた。まだ痛みは残っているが、多分傷は全てふさがっているだろう。左足の捻挫は完治していた。
「追うのに必要でしょう?」
旭が穏やかに言った。足を優先して治してくれたのだ。
やたらと背の高い男がやってきて、旭に帰還を命じた。がんばってね、と言い残して旭はワンボックスカーに戻っていく。
「車を用意してある。武器も全てその中だ。すぐに出ろ」
男は顎で後方を示した。そこには白いセダンが控えていた。
「絶対取り返す!」
グロックを拾い、高志は立ちあがった。街が目覚める頃だった。