参考→普通の人 朝日 108

06/21

■宵闇の訪問者

「出るんだって」
 他愛もない世間話にそんな言葉が加わるようになったのはいつのことだっただろうか。
 一年前? それとも半年前?
 いやいや、そんなに過去の話ではない。段々と穏やかな風が吹き始めた頃だっただろう。
 今や学校でも職場でもご近所でも、この話題で持ち切りだ。
「出るんだって」
 もちろん、竹井勇が通う青陵高校でも、日々囁かれるのはこの言葉だった。
 毎日毎日よくぞ同じ話題で皆飽きないものだ。教室の窓枠に寄りかかり、うんざりした顔で昨日と同じ話を聞く。異口同音に繰り返される内容に、勇自身は辟易していた。
 たしかに一番ホットな話なんだろうけど、たまには変わった中身話してみろよ。
 誰でも開口一番は、
「出るんだって」
「何が」
 世事に疎い高志には通用しなかった。卵焼きを咀嚼しながらそっけない言葉を返す。傍らに置いた弁当箱の中身はカラフルで、到底独身男の昼飯には見えなかった。もちろん、しっかり栄養バランスも考えられた手作り弁当だ。
 昼飯を食いながらも目を向けているのは、昨日買った実用書だった。『あなたの身体は大丈夫? 即効ツボ50選』と表紙にある。蛍光カラーの毒々しい帯が巻き付いていた。仕事とも趣味とも無縁としか思えない一冊だった。
 昼の化学準備室はカーテンを閉めずとも薄暗い。こんなところで飯食って何が面白いのかと勇は思う。
「殺人鬼」
「ほー、それは珍しい」
 非現実的な言葉にもかじりつかず、化学教師は興味なさげに茶を飲む。出がらしのような薄い茶を一気に飲み干して、
「いれろ」
 勇に湯呑を差し出してくる。
「みんなこの話してるよ」
 ひったくるように湯呑を奪い、ポットから直接湯を入れた。寿司屋の名前が入ったごつい湯呑の七分目まで入ったところで止める。
「だから何なの」
 そんなに『ツボ50選』が面白いのか、勇に目もくれない。
「怖くない?」
 勇は湯呑を渡す。手を伸ばして受け取り、高志は口をつけた。
「ああ、怖いね。すっげー怖い。……って、これ白湯じゃないか!」
「入れろって言ったの高志じゃん。『茶』っては言わなかったよ」
「屁理屈言うなよ。頼むから茶ぁいれて」
 と、明らかに頼んでいない態度でまたもや、ずい、と湯呑を差し出す。勇は茶筒の蓋を取る。
「茶っ葉がない」
 湯呑を受け取りもせずに言うと高志は諦め、また『ツボ50選』の世界に入っていった。
「聞いてんの? 殺人鬼が出るんだよ?」
「別にんなもん怖くねーべ。出会わなきゃいいんだもん」
「そんな簡単に言うけどさぁ、相手は神出鬼没のシリアルキラーだって噂だよ。夜遊びしてた奴等も日没までには帰っちゃうくらい怖いんだってば」
「ふーん」
 本当に聞く気がない。高志は本を左手で押さえ、箸を持ったまま、右手で左肩のあたりを押し始めた。
「ここのツボは……っと」
「俺や伊佐美が襲われてもいいの」
 本が落ちた。
「良くない」
 高志の黒ぶち眼鏡が光った。真剣な顔が勇を見つめる。
「そいつ、どんな奴だ」

***

 噂の殺人鬼は毎週水曜の夜にやってくる。
 日も落ちて人通りが寂しくなってくる頃に、影の中からこっそりと現れる。
 最初の獲物は犬の散歩中の浪人生だった。
 次の週は塾帰りの小学生。
 次の次の週は部活帰りの高校生。その次は通いの店へ行く途中の商店主。その次は旦那を迎えに出た主婦。一番最近が残業帰りのOLだった。
 これまでに六人がやられている。皆一様に首を斬られ、即死していた。一件目から警察が必死に捜査しているものの、犯人の手がかりはなし。かんばしい結果が得られず、当局も焦りを隠せていない。昼も夜もパトロールを行い、あやしい人間は片っ端から職務質問していった。それでも起こる殺人を止めることはできなかった。
 マスコミは彼に「殺人鬼」という単純明解な名を与え、持てはやした。近年稀に見る猟奇殺人、と事件を大げさに報道する。連日同じような話をテレビで繰り返し、飽きもせずに関係者へのインタビューを繰り返した。
 一方で、人々は夜を避けて生活するようになった。
 小学校は父兄の送り迎えがつき、中学校は集団での登下校を義務付けられた。高校は長時間の部活動は制限され、大学では深夜にまで及ぶ演習実験は無期限に延期になった。企業も残業を控えるようになり、商店も早く閉まるようになった。深夜でも明るいのはコンビニと自動販売機ぐらいだった。
 夜の街はとても暗く、とても静かだった。
 ただし、毎週水曜には悲鳴が響く。

***

 静寂の暗がりに佇む男がいた。黒いコートジャケットを羽織り、火のついた煙草をくわえている。時折紫煙を吐き出すと、黒い空にわずかに靄がかかり、やがて掻き消えた。
 足元に黒い染みが広がる。やっと届く街灯の頼りない明かりの下では、それは赤黒く見えた。水のように地面に広がっている。しかし、今は乾いて流動性をなくし、凝固していた。
 男が軽く足を振った。足元のビニールパックを蹴り上げる。空のビニールパックは空虚な音を立てて転がった。内部に残っていたわずかな液体が跳ね出て、地面に点々を描いた。
 煙草を道に落とし、踏みつける。
「来たな」
 男の向こうに黒い影が現れた。足に長い影をつけ、ゆっくりと歩いてくる。街灯の下までくると影は小さくなり、過ぎると今度は影が先じた。
 男よりも二周りも大きく見える。巨体と称しても良いかもしれない。手に下げた棒がとても短く見える。春なのに冬物の黒コートを来た姿はまさしく、影だった。
「血だ……」
 影が呟いた。自分に言い聞かせるように、何度も同じ言葉を呟く。引きつったような笑顔を張りつかせ、濁った目は視線が定まらない。
「あんたが噂の殺人鬼だな」
 影は男を見ていない。男の足元に気を取られ、言葉が耳に入らない。
「こうやって血を撒けば来ると思っていた。ダメだったら俺のでって思ってたが、輸血用血液でも効果はあったみたいだな。ま、生身の人間じゃなくてお前さんは残念だろうけど」
「血だ……」
「こう見えても警察にコネがあるんでね、手口は聞いたよ。首を斬り、かつ切り口をかじる。かじるだけない。被害者の遺体にはすすった痕もついていた。ピンときたんだよ。こいつは血に飢えてるってな」
 右手を懐に入れ、左手は広げてみせる。
「血だ……」
 男は黒ぶちの眼鏡を外して懐に入れた。化学教師の顔がなくなり、鋭くなる。
 影が嗤う。
 男が嗤う。
「いわゆる吸血鬼ってやつだ」
「血だ! この不死の王に、血をよこせ!」
 唐突に殺人鬼が動いた。巨体に似合わない素早い動きで高志との距離を詰める。ぐん、と眼前に迫り、手に持った棒を振りかぶった。街灯を反射してきらりと光る。
 理性を失った目と、理性に支配された目が合った。互いを敵として認識する。
 高志はわずかに腰を落とした。両足に力を入れる。横に飛び、懐に入れた手を出す。それはまさに刹那の出来事。
 空気の抜けるような音がした。
「やれやれ。見境無しっていやだね。吸血鬼なら処女を襲えよ」
 構えたまま、高志は相手にも聞こえるように呟いた。
 殺人鬼の動きが止まった。一呼吸おいて、からん、とナイフが地面に落ちた。長い刃の真ん中に穴が空いている。その刃の上に赤い雫が落ちた。所有者の手にも、穴が空いていた。
 空いた時間は、生物として痛みを認識するには長すぎた。現状の認識と自身の状態の把握。感覚器官から脳への伝達は早かったが、予想外の事態に受け入れる脳の処理が遅れた。
 獣じみた悲鳴があがる。殺人鬼は膝をつき、己の右手を左手で握り締める。空いた穴はどす黒く、幾筋もの赤い流れを生み、やがて右手をすべて赤に染めた。
 殺人鬼の剥かれた目が高志を睨んだ。長い叫びが雄叫びとなる。左袖からナイフが滑り出て、手中に収まった。その姿勢のまま、左側方を薙ぐ。つまり、高志のいるほうへ。
 だが、能力が違いすぎた。最近人殺しを始めた新人殺人鬼と、戦闘機械として作り上げられた青年ではキャリアも場数も比較にならなかった。
 次の行動など読めていた。相手が大柄であればあるほど動きが読みやすい。また、巷を騒がす殺人鬼さんが得物一本で満足しているとは思っていなかった。徹底的に殲滅するまでは用心を怠るな。常に最悪の状態を想定に入れた上で行動せよ。かつての教官の教えだ。
 とにかく、殺人鬼は不意を打ったつもりだったが、高志にとっては予想内のことだった。また一発、空気の抜けるような音とともに弾丸が身体を撃ち抜く。今度は左肩を貫通させた。念のため、左肘にも一発撃ち込んだ。だらんと垂れ下がり、力が入らない左腕を所有者は右手で押さえた。心臓が脈を打つ。流れ出す血を補おうと盛んに動くが、それは逆に余計に血を失ってしまうだけだ。焼けるような痛みに、初めての痛みに殺人鬼は吠えていた。
 獣の咆哮。否。負け犬の遠吠え。
「うるせーんだよ、たこ」
 高志が殺人鬼の腹を蹴りつける。巨体は膝をついた姿勢のまま、まるで姿勢が固定されたマネキンのように地面に転がった。転がって、痛みにのたうちまわっている。高志は蹴りつけた右足を、叫び続ける殺人鬼の口に押し込んだ。底にプレートを仕込んだ靴は容易に口内を砕いた。歯が何本か折れ、よだれと血が高志の靴を染めた。
 口腔を制覇されてもなお、くぐもった叫びが発せられる。
「黙れ」
 弾丸が殺人鬼の喉のど真ん中を正確に撃ち抜いた。セミオートで二発。銃口から白煙が立ち昇る。とろとろと地面に赤い血が流れ出す。声が消え、ひゅーひゅーと空気の抜ける音だけになった。高志は満足そうに微笑み、足を抜いた。
「痛みってのが少しはわかったか、バカ」
 汗と涙と鼻水と血とよだれと、とにかく顔から分泌される液体という液体が殺人鬼の顔を汚す。じたばたと手足が暴れるが、空をつかむばかりで本来の機能を忘れていた。目は焦点が合わず、開いた瞳孔に高志の姿が映っているものの、虚空を見続けている。
「お前は吸血鬼でもなんでもないんだよ、バカ。ブラム・ストーカー読んだことあるか? 吸血鬼は簡単に回復する。どてっ腹に穴空いたって気にもしない。それでもやつらは動くんだ。動いて人の血を吸い、殺し、仲間にする。お前が殺したやつらは動き出したか?」
 殺人鬼は返事をしない。苦しみにうめき、痙攣を繰り返している。巨体が跳ねている様はおもちゃじみて見えた。傍目にも長くないことがわかる。巨体は喉をかきむしっている。伸びた爪が裂けた喉を引っかき、皮と肉を剥がした。傷が広がり、ピンク色の中身が剥き出しになる。肉がゆるく流れる風に触れるだけで、さらなる苦痛が殺人鬼を苛んでいる。
 惨めで、哀れで、おかしかった。唇を釣り上げて笑ってやる。黒ジャケットの死神が殺人鬼を見下ろして嘲笑していた。
「あいにくと、銀の弾丸ではないがな」
 高志は撃鉄を起こした。
「さようなら、ノーライフ・キングさん」

***

 木曜日。七番目の被害者が発見された。
 一連の犯行と同様、致命傷は首だった。しかし凶器は刃物ではなく、銃だった。
 手と腕に三発、喉に二発、眉間に一発。
 検死では、喉に二発目を撃ち込んだ時点で被害者は事切れていた。
 今までとは異なる被害者の様相に、警察は今まで以上に息を巻き、マスコミは今まで以上に騒ぎ立てた。
 そんな騒ぎも二週間もすれば沈静化していった。
 なぜなら、それ以降、犯行はピタリとやんだからだった。

***

「フリーメイソンの陰謀なんだってば。悪魔を呼び出すのに七人の生贄が必要だったとか」
 ここのところ、昼の時間は素人の憶測が飛び交っていた。ヤクザの抗争に巻き込まれたという現実的な線から、宇宙人がアブダクションしようとして失敗したという荒唐無稽な話まで、噂は尽きることがなかった。以前よりは面白い話かな、と廊下側の窓枠に寄りかかって勇は思う。
「黒魔術には生贄がつきものだよ。七という数字も意味深だし、ありえない話じゃないだろう?」
 小太りのクラスメイトが鼻息も荒く熱弁していた。昼食を終えた友人たちは、はいはい、と適当に彼の話を聞き流す。
「なあ、きっとそうなんだよ! これからきっと新たな事件が、それも大事件が起こるんだよ!」
 顔を真っ赤にしている彼を、遠巻きに見物していた女子生徒が笑っている。
 とても平和な光景だった。
「事件よりも大切なのは授業だろ?」
 扉から顔を出した高志が、小太りの彼の頭を出席簿で叩いた。
「もうチャイムは鳴ったぞ。席につけ」
 見物客は散り、がたがたとそれぞれの席につく。
「だけど、」
 と言いかけるが、高志の一睨みに一介の生徒に過ぎない彼も渋々といった表情で自分の席へと帰る。
 教卓に向かう高志と勇の視線があった。勇が微笑むと、黒ぶち眼鏡の奥で片目だけつぶって見せ、高志はいつもの化学教師の顔に戻っていった。

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