参考→普通の人 朝日 108 nameless 宵闇の訪問者 [設定]
02/29
■allergen
す、と息を吸い、止めた。
身体のスイッチを切り換える。化学教師の顔は消え、兵士の顔が現われる。
手の中の得物の感触を確認する。ここのところ出番のなかった長年の相棒に、目覚めろと声を掛ける。ぱちんと刃が飛び出る。出番がなくとも手入れだけは怠っていなかった。芸術的なまでに美しい刀身が、氷のような白い光を放つ。切り口が凍ってしまうのではないかと思ってしまう。
高志はナイフを逆手に持つ。心拍数を押さえる。平常時よりも静かに、眠っているときのように長いスパンで。耳の内側で鼓動がガンガン鳴っていることなどあってはならない。自分の身体もコントロールできなければプロ失格だ。
狭い化学準備室に見えない網を張る。縦横無尽に走る糸の中央には高志がいる。身体のそこかしこから糸が出ている感覚。蜘蛛の巣のように張り巡らし、揺らぐのを待つ。もしも見えるのならば、糸が高志を絡め取っているように見えるだろう。だがそれは錯覚だ。主は決して網に捕らえられることはない。中央で顎を開けて、哀れで愚かな蝶を待ち受けている。
巣が揺れた。
振り向きざまにナイフで綺麗な曲線を描いた。
そこに餌があったから食らいつくだけだ。迷いなく、正確に頚動脈を切り裂く。返す手で喉笛に突き立てる。血液は映画のように勢いよく噴き出ない。ワイン樽の栓を抜いた時のように、控えめに溢れ出る。喉を裂かれた餌はひゅーひゅーと空気だけを漏らして倒れる。痙攣、そして絶命。穏やかに床に広がる血液。
高志にはそこまで見えていた。見えていたがナイフは血に濡れることはなかった。
「こんなもん持ち歩いてんのかよ。生徒より物騒なんじゃないの?」
喉ではなく、教科書を貫いていた。表紙の原子模型が二つに裂かれていた。
「殺気は抑えておくものだ。貴様の通っていた幼稚園ではそんなことも教えなかったのか?」
二人は間近で睨み合ったまま止まった。無論、互いに空いている拳を繰り出すなり足を払うなりといったこともできた。そうしなかったのは、やっても無駄だということがわかっていたからだ。攻撃は全て交わされ、カウンターがくる。そこまで読めていた。
「どっちの人間だ」
教科書は依然ナイフをくわえこんでいる。高志は相棒を引かず、そのままの姿勢で少年に問う。
「どっち?」学生服の少年は口元を歪めた。「守護局オア結社?」
「ノーマルか、能力者か。組織なんてどうでもいい」
「どっちに見える?」
見たところ少年は丸腰だった。ズボンや上着は布地以上の重みで垂れ下がっている様子はなく、短く刈られた頭はヘアワックスでさらに軽さを演出していた。靴は薄っぺらいゴム底の学校指定の上履きだった。少年の服装には不自然な膨らみもなかった。隠し持つならば、薄いものを身体にくくりつけるしかない。
武器の類がないということは能力者か。しかし、ただの能力者が高志の一閃に反応できるだろうか。初撃は早く正確に渾身の力を込めて、と身体に叩き込まれてきた。ノーマルの人間に毛が生えただけの能力者が殺戮機械に太刀打ちできるものか。
丸腰の人間がノーマルだとは思えない。これだけの使い手が能力者だとは思えない。
迷うところだ。相手の正体が欠片でもわかれば対処のしようがある。守護局での傭兵生活が長かった高志は常に相手を探ることが習慣になっていた。
「貴様はどっちだ?」
「どっちでもいいだろ」
少年の皮肉げな笑みには不快という言葉しか思い浮かばない。
「はは、高校教師が授業の空き時間に殺されるってのもいいよな。明日の社会面くらいには――載れるぜ?」
「――!」
高志はナイフを手放した。少年の身体を蹴りつけ、その反動で後ろに退く。上履き代わりのゴムサンダルがリノリウムの床と擦れて嫌な音を立てた。
天井に届かんばかりの巨大な氷塊が出現した。教科書がナイフを食い込ませたままの形で氷の中に閉じ込められる。一瞬遅ければ、あの中にいたのは高志だった。ちくちくと肌に突き立っていた冷気は消えた。顔に張りついた氷薄は水となり頬を伝った。
「あーあ、もう少しだったのに」
床に尻をついた少年の瞳が青に転じていた。サファイヤのような澄んだ青だった。能力者――それも外見に変化が現われるほどの異常染色体を持っている。外見が普通の人間と異なってしまうのは強い力を持つ代償だ。
結社だ。疑う余地はない。
守護局は強力な能力者ほど外部に出さない。自分たちが庇護する殻の中で大事に大事に育て上げる。そして成長しても外の世界を見せることはほとんどない。保護という名目の監禁だ。ある意味コレクションと似ている。そして任務の時は力のない人間を使った。高志が所属していた傭兵部隊も非能力者しかいなかった。ノーマルを使うのは、能力者がもったいないからだ。ノーマルは使い捨てだった。
一方結社はノーマルを蔑んでいた。能力者こそが進化した新たな人類であるとはばかりなく主張し、組織内にノーマルがいることを厭う。だから彼らは任務にも能力者を使ってきた。
少年の目の光が一段と強くなった。目の前の氷塊が砕ける。教科書が粉々に割れ、ナイフが真ん中から綺麗に折れた。砕け、細かくなった氷塊は重力に従い落下するはずだった。
「守護局の狗はおとなしく死んでりゃいいんだよ!」
宙に浮いた氷塊が弾丸となり、高志めがけて撃ち込まれる。机を抉り、壁を穿ち、水道管を破砕した。水が勢いよく飛び出てカーテンを濡らす。氷とは思えぬほどの破壊力だった。それでも肝心の標的は捉えられなかった。
「公共物損壊は罪になるんだぞ! 覚えとけ!」
高志は屈み、床すれすれを走る。私物用ロッカーの中にある銃も頭をよぎったが、開けている暇はないと却下になった。そんなことをしている暇があれば、少年はロッカーごと高志を氷漬けにしてしまうだろう。ナイフは折られてしまった。また手に馴染むナイフを探さないと、嘆息する。武器は、と視線をめぐらせたところでガラスケースが目に入った。
頭の上を拳大の氷塊が飛んでいった。少年は氷を作っては撃ち出している。化学部が少ない予算を捻出して買ったクロマトグラフィーの装置も、高志が苦労して組んだ遺伝子の原子模型も、もう一人の化学教師の趣味の盆栽も、粉々に砕いていく。後先のことを考えない。結社らしいやり方だった。
そして、ガラスケースも被弾した。高志は崩れたガラスケースの山からピンセットを一掴み取り出した。小さな実験用のピンセットは八本あった。走りながら一本投擲する。
氷の銃撃が一瞬止んだ。少年が頬を拭う。手の甲に赤い血が広がった。先が鋭いピンセットは少年の頬を掠め、背後の戸棚を割っていた。
「たかがノーマルのくせに!」
少年が吠えると同時に天井いっぱいに氷が広がった。蛍光灯をも凍てつかせ、冷気を垂らしている。透明な氷にヒビが入った。ぱきんぱきんと網の目状にヒビが広がる。
高志は反射的に一番大きな台の下に潜り込んだ。実験用のテーブルはやや低く、高志にはいささか窮屈だった。どうしても足が入らない。それでも無理矢理身体を押し込んだ。
そして室内に雹が降ってきた。
周囲の音を一切消してしまう豪雨の音だった。目の前で一リットルメスシリンダーが跡形もなく砕かれていく様子がスロー再生のように見えた。頭の上ではマシンガンの掃射を受けているような音と衝撃。少しずつ少しずつテーブルの天板が抉られているのが実感できた。
絨毯爆撃。
嫌な四文字熟語が思い浮かんだ。
「ふざけんな!」
罵る声も乱れ落ちる雹の音に消えた。頭の中で次の行動が組み立てられる。この絨毯爆撃も長くは続くまい。必ず絶える時がある。一瞬でもいい。雹が止んだらここから飛び出し、少年にピンセットを投擲する。狙うのは顔だ。致命傷にはならないが、確実に相手を怯えさせることができる。少年は回避の瞬間は無防備になる。能力の行使を解き、身を守ることに専念する。それはさっきの一本で立証済みだ。
集中しなければ氷を作り出せない。そこが少年の弱点であり、欠点だ。どんな能力者であれ、万能で無敵ではない。観察すれば必ず勝機が見えてくる。
テーブルの下から私物用ロッカーが見えた。薄いスチールは降りしきる雹で穴だらけになっていた。形が歪み、蝶番が外れた扉が辛うじてぶら下がっている。中から覗くアタッシュケースは辛うじてまだ無事だ。もっとも、そう易々とケースに穴が空くことはあるまい。スチールロッカーと違い、こっちはジュラルミン製なのだ。
雹が止んだ。轟音が嘘のように消える。少年の荒い息が聞こえた。
天板は数ミリの厚さまで薄くなっていた。ベニヤ板といい勝負だ。だが天は非能力者に味方していた。まだ辛うじてテーブルは形を留めている。好機と高志は下から這い出した。頭だけを出し、ダーツの要領で少年にピンセットを投げつける。
「しぶといな」
毒づきながら、少年は最小限の動きだけでピンセットをかわした。大きな力を使ったせいで息が上がっている。クールダウンが必要だったし、身体も求めていた。そこへ続けてもう一投。
「うざいよ」
首だけを動かし、避ける。そしてまた一投。
「抵抗するならもっとマシなことしてこいよ」
少年が右腕を上げ、下ろす。すると縦一列に幾本もの氷のナイフが現われた。物理法則を無視して空中で制止し、鋭利な先端が獲物の方を指す。
「もういいよ、死んで」
氷の刃が射出される。まっすぐに標的だけを狙ってくる。
刃と四本のピンセットが交差した。すれ違い、それぞれ主の目的を果たすべく別れていく。
ピンセットが向かった先――力を行使したために立ち尽くしていた少年は、肩を激しく上下させながらも身体を捻る。二本が眉間、一本が首、一本が口を狙っていた。正確な投擲は正確すぎるあまり避けられる。
石を割る音に少年は顔を上げる。コンクリートの壁に氷の刃が突き立っていた。とらえたと確信したはずの標的を求めて視線をさまよわせた。
轟音が脚を貫いた。一瞬何が起きたかわからず目をやると、腿の肉がこそげとられていた。
「う……」
少年の喉からありったけの叫びが搾り出される。泣き喚く。うるさい、とその声をかき消すようにまた轟音が響いた。今度は左手がなくなった。
「うぁ、ああ、ぁぁぁ!」
ちぎれ飛んだ身体の一部を求めて右手が床をまさぐるが、瓦礫に血液をまぶすだけの結果となった。がくりと膝をつき、なおも悲鳴を上げる少年の後頭部にごり、と固いものが押しつけられた。
「所詮能力者だな。自分の力を過信している」
化学教師は眼鏡を外して白衣の胸ポケットに差した。その手には巨大なハンドガン。ジュラルミンケースをこじ開け、手探りで適当に引っ掴んだのがこれだった。大きさが大きさなだけに、一番取り出しやすかった。
デザートイーグル――ハンドキャノンとも呼ばれるそれを少年の頭に当てたまま、高志は息をついた。
「ちょっとばかり命の危機を感じたけどな。そこは褒めてやろう」
「はは、何勘違いしてんの?」
少年は振り向かずに言った。奥歯を強く噛み、額に脂汗を浮かせ、笑っていた。底辺を這う虫けらのような、陰気で嫌な笑い方だった。
「俺はあんたの足止めができりゃそれでいいんだよ。――殺せたら儲けもんだったけどな」
「なっ……」
さ、と高志の顔が赤く染まる。良く似た双子の顔が脳裡に浮かんだ。
「宝物は大事にしまっときな」
「貴様……!」
ぐ、と引金の上の人差し指に力が入る。あと数ミリ、指が動けば少年の頭が吹き飛ぶ。
「あんたのこと、嫌いだよ」
先がなくなった左手首を押さえてうずくまる少年の顔から血の気が引いていく。このまま放っておいても、どのみち出血多量で死んでしまう。強気な言葉の裏に、死への恐怖を垣間見た。
怒りにまかせて引金を引いてしまえばいい。そうすれば使い捨ての能力者は苦しまずに逝くことができる。ほんの少しだけ躊躇ったのは、その境遇にかつての自分を思ったのと、わずかとは言え自分を追い詰めた者への賛辞からだった。
「奇遇だな。俺もだ」
だが引金を絞ることはなかった。青く転じたままの少年の瞳孔が開いた。ぐらりと身体が倒れる。高志は咄嗟にその身体を支え、上を向かせた。開いたままの瞳は真っ白に変化していた。口内から赤い液体が零れる。
「毒か――?」
結社らしいやり方だ。
ぎり、と歯を噛み締め、少年を床に寝かせた。ガラス片が魂の抜けた骸を傷付けていたが、そんなことを気にしてやるほどお人好しでもなかった。
白衣を脱いだ。ジュラルミンケースを引き寄せ、残りの武器を掻き出した。本当は今すぐにでも駆け出して行きたかったが、相手は結社だ。少しでも装備を整えないことには勝ち目がない。ガンベルトに手榴弾とデザートイーグル、予備のマガジンをぶら下げ、両手にサブマシンガンを握った。
「よし」
あの双子はただの高校生ではない。普通の生活と平穏を望み、本人たちもそう思い込んで日々を送っている。だけど、生まれつき刷り込まれたものは消えなかった。高志が、研究員たちが刷り込みにさらに刷り込みを重ね、忌まわしい経験を記憶から消した。記憶は消えても、身体は忘れなかった。
今はそれに賭けるしかない。
祈るような気持ちで一年生の教室へと走った。途中で教頭とすれ違ったが無視した。何か言いかけて口をパクパクと開ける姿がやけに滑稽に見えた。