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11/03

■業務提携

 さて、みなさん。うちの会社と業界第三位の某大手化粧品会社が手を組んだというニュースは記憶に新しいと思います。
 何しろ電気メーカーと化粧品メーカーという、今までにまったく例のない組み合わせ。「家電と化粧品のコラボレート」という見出しでドドーンと全国紙にまで掲載されました。日本の経済界のみならず、一般のご家庭にまで話題を呼び、今、最もホットで注目されている話題です。おかげさまで株価も上がっています。
 肝心の内容ですが、お互いの持つ技術や業務を共有し、市場シェアを広げようというものです。モットーは女性に優しい未来生活。ターゲットを特定層に絞り、ちょいと小洒落た家電を作ろうというわけです。正式にプレス発表されてからというものの、ただでさえ忙しい企画課はより一層てんてこ舞いになっています。
 その業務提携の波紋はこの勇者課にまで及んできているわけで。
「壱係。ちょっと行ってきてくれないか」
 装備を脱いでいた俺たちに、課長が気持ち悪いくらい微笑みかけていた。便宜上、チームには壱係と付けられているものの、今のところ他にチームはない。
「どこにですか」
 愛用のブロードソードを杖代わりに立ち、疲れた声で課長に応える小林先輩。上司相手でも嫌そうな顔ができる正直さはすごいと思う。
「もちろん、異世界なわけだが」
 課長がもごもごとその世界の通称を言った。日本語じゃない言葉に、日本語じゃない発音。俺には聞いたことのない名前だったけど、
「そこって東雲堂が行ってるところじゃないですか?」
 と、仕切りの向こう側から杉野さんが言った。ついたてを立てただけの女性更衣室は、実質男性更衣室と一緒なので話も筒抜けだ。
 別の会社の勇者課に友達ができたという杉野さん。そもそもが女性の少ない職場だけになかなか女性同士の結束は強く、情報網は侮れない。俺には同業の友人など一人もいない。
「そうだ。そこからヘルプを送るよう、要請があったんだ」
「要請? そんなこと今まで一度もなかったじゃないですか」
 冷静に返すのは石岡先輩。一昨日支給されたばかりのチェーンメイルを脱ぐのに四苦八苦している俺を手伝ってくれている。着るのも脱ぐのも手伝ってもらってすみません。文句ならこんな面倒な物を支給した用度係に言ってください。
「石岡君、社内報は見なかったのかね? 業務提携だよ。すでに契約も交わし、我が社と東雲堂とは協力関係にあるのだよ。ヘルプに行っておかしいこともあるまい」
 それはつまり、昼休みも取らずに働いていて、あとは報告書を書けば帰れると思っていた俺たちに対する嫌がらせであると。
「課長。お言葉ですが、我々は疲れています。こんな体調でまたゲートをくぐって戦ってきたら明日の出勤は保証されません」
 石岡先輩は反論するが、肩の止め具を外してそのまま放って置かれるはちょっとつらい。だらりと腰の辺りで垂れた鎖が重い。やっぱり鎧替えてもらおう。チェーンメイルじゃ着ているだけで疲労する。
「課長命令だ。報告書の期限を延ばしてやるから言って来い」
 ええーという不満の声を四人で合唱する。しかし、課長命令と言われてしまっては逆らうこともできない。何しろ俺たちはしがないサラリーマンなのだ。上司の命令は絶対だし、それでお給料をもらっている。
 やむなく、解いていた装備をもう一度つけなおし始めた。下っ端ということで一番早く取りかかったのは俺。そして一番時間がかかったのも俺。
 チャリチャリと鎧の鎖を鳴らしつつ、俺たち四人は奥の扉の前に並んだ。扉の向こうには黒い空間が口を開けている。
「じゃ、行ってきます」
 不機嫌な顔をした小林先輩を先頭に、暗闇の中に入っていった。

「どうも、わざわざ申し訳ありません」
 現場の洞窟前で俺たちを出迎えたのは、えらく美人なお姉様だった。自然な風合いの茶色の髪を肩に垂らし、意志の強そうな赤い口紅にぱっちりした目元というメイクには隙がない。絵に書いたようなキャリアウーマン。おまけに仕事もできそう。穏やかな対人スマイルに並の男ならば一網打尽だろう。素っ気のない黒いスーツでも、この人が着ればかなりかっこいいだろう。
 ただ、今の姿はファンタジー仕様なわけで。
 すごく派手な鎧だなぁと思った。顔よりもまずそっちに目がいったくらいだ。俺のような実用的な鎧の存在が逆に不思議に思ってしまうような、いや、素直に言おう。この人、露出が多い。
 外国ファンタジーにありがちなビキニ鎧ほど刺激は少ないが、それでも実用的かと言われると首をひねる。しっかりへそ出てるし、スカートのスリット深いし、上腕は剥き出しだし。申し訳ないが、いい歳年して、と思ったことも白状しておこう。ただ、外見からは年齢が推し量れず、本当にいい歳なのかどうかは不明。
「東雲堂総務部勇者課魔王討伐係係長の長谷川と申します。よろしくお願いします」
 お姉様はどこからともなく名刺を出し、小林先輩に差し出す。
「あ、ご丁寧にどうも。勇者課壱係係長の小林です」
 小林先輩もどこからともなく名刺を出し、受け取る腰の角度は三十度。いくら勇者をやっていてもビジネスマナーは忘れない。日本企業社会伝統の名刺交換の儀が行われる。そして、チームリーダーってことは係長なんだ、と妙に納得している俺。目の前でファンタジーな格好をした人々が名刺交換していても違和感を感じないのは、すっかり慣れてしまったということなのだろうか。
 長谷川さんはご丁寧に下っ端の俺にまで名刺を渡す。俺は慌てて道具袋から名刺ケースを取り出して返す。「我々は勇者である前に一介の企業戦士だ。名刺はサラリーマンの最強の武器だから常に持ち歩け」という課長の指導が初めて生きた。
 長谷川さんの名刺は薄く社印が入り、しっかりと東雲堂総務部勇者課魔王討伐係係長と書かれていた。勇者と魔王という文字がとても浮いて見える。
 もっとも、洞窟の入り口で美人と上司が名刺交換をしているというのもなかなかシュールな光景なのだが。
「こちらがうちのチームです。右から横山、星、河内です」
 長谷川さんの背後に控えていた三人が頭を下げる。右から槍を持った重戦士風の男性、小柄な魔法使い風の女性、軽装の盗賊風の若い男。女性のメイクがやっぱりはっきりくっきりなのは、会社が会社だからなのだろうか。もっとも、横山さんという人なんて、化粧品会社よりも工業機器メーカーのほうが似合いそうな感じだ。

 お互いの自己紹介が済むと、俺たち八人は洞窟の中に入った。現場はこの先で、道すがら仕事の内容を話すということだ。
「今回の仕事は工程上、どうしても外せないんです。この世界の魔王はどうやら精神だけの存在らしく、実体化していないんですよ。実体化させるには儀式が必要で、この洞窟には儀式に必要なものが隠されているんです」
「はあ、それはまた厄介ですね。俺たちには生来の魔法力なんてないから、こっちの人間の協力が必要になるんじゃないでしょうか」
「ええ、そうなりますね。星には簡単な魔法は覚えさせましたが、さすがに儀式レベルの複雑で難しいものは現地人にお願いするしかありません」
 小林先輩と長谷川さんが先頭に並び、世間話のような感覚で仕事の話をしている。二人とも右手に抜き身の剣を持っている。遠くから聞こえる獣じみた声。気楽に話しているようだけど、二人の張り詰めた雰囲気からもここが出る洞窟だとわかる。わざと殺気を放つことでモンスターを遠ざけている。用心を怠ったらそれが最後だ。
 横山さんも槍を構えた姿勢で押し黙っているし、石岡先輩はそっけない態度ながらも周囲に気を配っているのがわかる。
 気楽にたらたらと歩いているのは俺と星さんだけ。聞けば、彼女もまだ研修期間中の新人だと言う。歳も同じくらいだし、下っ端というポジションに親近感が湧く。
「長谷川さん、すっごい厳しいんですよ」
 こっそりと俺の耳に囁く彼女。
「うちも、先輩たちの人使い荒くて」
 俺も囁き返し、二人顔を見合わせて笑う。彼女の持つ杖の先がほんのりと光り、カンテラ代わりになっている。魔法かと思っていたら、先端に懐中電灯を仕込んでいるだけだった。
 小林先輩と話していた長谷川さんが振り向いた。
「道具もこっちで用意していますので」
 カンテラの火に浮き上がる笑顔。道具? と杉野さんと俺は顔を見合わせる。
「簡単な仕事ですよ。フロアーの床に刻まれた文字を見つけるだけですから」
 簡単なら応援なんていらないじゃないか。ひしひしと不安としか言いようのない予感がつのる。
 ゆらゆらと光るカンテラの火が八人の影を壁に天井に映す。緩やかに下る洞窟はどう考えても自然にできた物ではない。床にはしっかりと石が敷き詰められ、道幅と天井の高さは一定。ところどころ壁が崩れて覗く横穴は誰かが勝手に空けたものなのだろう。奥に人の物ではない目が光る。俺たちは横穴を無視し、一本道を下っていく。
「ここです」
 たどり着いたのは大きな石扉の前だった。無数に文字が刻まれた一枚岩の両開きの扉は、ゆうに俺の身長を超えている。わかりやすい大きさに換算すれば、一枚につき畳四枚分。つまり、この扉だけで畳八畳分。六畳一間の俺の部屋を軽く凌いでいる。
 扉は完全に閉じてはいなかった。誰かによって細く開かれている。おそらく長谷川さんたちが開けたのだろう。
 長谷川さんは扉の隙間から身体を入れた。俺たちもそれにならって部屋の中に入っていく。
 他とは明らかに違う、ひんやりとした空気が頬を撫でた。恐ろしいほど静かだ。何者の気配もなく、ただ闇が佇んでいる。神聖とも邪悪ともとれる静謐な気がひしひしと侵入する者の精神を犯していく。俺は眩暈のようなものを感じ、次いで激しい耳鳴りを聞いた。ぐわんぐわんと耳の奥で鳴る何者かのつぶやきが身体に染み込んでいく。膝が震える。立っていることはおろか、息をすることも嫌悪感を覚える。
「みなさん、しっかりしてくださいね」
 長谷川さんの声に、何かが弾けた。身体の中を犯していた物が霧散していく。
「ここには魔王の罠が仕掛けてあります。精神破壊の罠です。これにかかったら最後、廃人になってここで朽ちていくだけです。星」
 長谷川さんに呼びかけられた星さんが道具袋から小さな袋を取り出し、俺たち四人に手渡して行く。ビニール袋に小分けされたのは、酔い止めの薬と梅スッキリというお菓子。
「結局は乗り物酔いと似たような物ですよ。それ飲んでそれ食べれば大丈夫ですから」
「そんなもんなんですか」
「そんなもんですよ」
 酔い止めの袋を開け、一息に飲む小林先輩。俺もそれにならって薬を飲み下す。と、不思議なことにさっきの不快感は跡形もなく消え去った。それでいいのか、ファンタジー世界。
「横山、河内」
 長谷川さんの声に二人が室内に散って行く。濃い闇に包まれた部屋は全く広さの見当がつかず、二人の姿はあっという間に消えてしまった。
「星」
 今度は星さんが、酔い止めを飲み終えた俺たち四人に長い棒を配って行く。これは何だろうと見ようとしたところで、まばゆい光が俺の網膜を襲った。目の裏に焼きついた光にフラクタルな絵を見ながら、頭がにわかに混乱したことに気付く。大抵なことには驚かないと思っていたのに。いまだに不意打ちには弱いんだよな。
 一度大きく息を吐き、おそるおそる目を開いた。そこには強烈な光に照らし出された室内があった。グラウンドほどもありそうな、広い広い石造りのフロアー。照らし出すのは業務用のどでかい照明だ。部屋の四隅に自家発電装置とともに設置され、真っ暗だった地下を昼間に変える。明るく照らし出された地面には黒い物がへばりついている。コールタールのようなものが厚く塗りつけられてすっかり乾いている。
 そして、俺の手には緑色のスクレーパー付きモップ。
「ここの床掃除をお願いします!」
「ええー!!」
 石壁に反響する小林先輩の声。石岡先輩の声。杉野さんの声。俺の声。
「さあ、張り切ってどうぞ!」
 相変わらずにこやかな長谷川さんの手にもモップ。横山さんもいつのまにか槍をモップに持ち替え、河内さんも星さんもさっそく床磨きを始めている。
「これ、全部ですか!?」
 杉野さんが半泣きの声で聞いた。
「全部ですよ。この床面全部に儀式の様式と呪文が刻まれているんです」
 さらりと言うけど長谷川さん、これは八人でも終わらないのではないでしょうか。
「小林先輩……」
 半開きの口のまま固まってしまった小林先輩におそるおそる声をかける。
「……やるぞ」
「はい?」
「やるぞ! 上司命令だ! お前ら、取りかかれぃっ!」
 悪代官のごとき命令を叫んだ小林先輩、モップを構えて先陣を切る。がりがりがりと削れていく黒い汚れ。走って行った跡が綺麗な一直線を描いている。
 と思ったら。
「あ」
 俺と杉野さんは同時に声を上げた。
「ああぁ〜〜っ!!」
 小林先輩がマンガのように転んだ。すってんころりんという擬音が出てきそうな転び方。足元には見事に足型のついたブラックスライムが。
「こんにゃろ! 黒いんだからわかんねぇんだよっ!」
 転んだまま、モップでビシビシとスライムを打ち据える。ぶよぶよとしたゲル状の表面はモップを弾き返すばかり。内臓である半透明の核に届くどころかノーダメージ。
「小林、後ろ!」
 石岡さんが叫んだ。その声に振り返ると、そこには腐肉をぶら下げたゾンビが。今まさに小林先輩を襲わんと両腕を振り上げている。持ち前の反射神経が幸いした。見事な捌きでゾンビの胴を横に薙ぐ。しかしそこはそれ、得物がモップなわけで。肋骨がわずかに折れただけでゾンビはまだまだ攻撃可能。気付いた時には遅かった。ゾンビの拳が空を切って降ってくる。
「おとなしく墓に入ってろよ!」
 先輩の負け惜しみのような声と同時に、ゾンビの頭が飛んだ。綺麗に首から上が消え去った。ゾンビの動きが一瞬止まる。小林先輩はそこを見逃さない。腰のショートソードを抜き、今度こそ胴を横一線に薙いだ。返す手で、スライムに突き立てる。それもしっかりと核のど真ん中に。
 剣を抜く。
 ゾンビの身体から腐肉が落ちる。溶けかけた内臓が落ちる。ごろりと転がった頭も頭蓋があらわになっていく。白い骨ががらりと崩れて落ちた。スライムも黒い粘液を吐きながら溶解した。
 小林先輩は肩を上下させながら立ち上がり、剣についた汚れを拭った。短い鞘に収めるとモップを拾い上げる。
「ありがとうな」
 呼びかけた相手、河内さんは戻ってきた円月輪についた腐肉を拭っていた。
「いいってことよ。それを掃除するのはあんただからな」
 シニカルな盗賊は円月輪を元通り腰にぶら下げ、自分の仕事に戻って行った。
「……しまった」
 先輩は呆然と自分の周囲を見渡した。散乱した腐肉と骨。思っていた以上に飛び散っている。黒い汚れの上にぽつぽつと重なるゾンビの解けた内臓。せっかく掃除した跡にはスライムの黒い粘液が流れていく。
「はい。これ使ってください」
 いつの間にか先輩のそばにいた星さんが、青いポリバケツを渡していた。
 気付けば俺たちの傍らにいた長谷川さんも床掃除に精を出している。横山さんなどはもうすでにかなりの範囲を磨き上げていた。
「……やるか」
「やりますか……」
「やるしかないでしょう……」
 やむなく取りかかる石岡先輩、杉野さん、そして俺。俺は梅スッキリを一粒噛みながらモップを前後に動かす。ごりごりごりという音とともに少しずつ床が見えてくる。本当に少しずつなのだ。完全に見えるようになるまでどれだけ削ればいいのやら。何でまたこんなに汚れが積もっているのやら。湿気で埃も固まり床と同化している。何百年経っているのか、想像するのも嫌になる。しかもこの広さ。呆れるなというほうが間違っている。
「大原君、もっと腰を入れなさい!」
 長谷川さんの檄が飛んだ。
 この人も、華やかな化粧品メーカーに勤めてるのにこんな地味な仕事を任され、不満がないのだろうか。その派手なメイクもこんな地下じゃまったく意味ないだろう。
 ごりごり、がりがりという音。時折聞こえる、ざぶんというモップを水につける音。長谷川さんの鼻歌。耳を澄ませば、最近の流行りの歌じゃなくて演歌だった。
 あとはまったくの無言。みんな一心不乱にモップを動かす。この広さでは、真剣にやらなければいつまでも終わらない。特殊ゴムでできたスクレーパーの下に床面が見えた時、情けないけどちょっと嬉しくなった。
 だが、こんな洞窟がいつまでも静かなはずもない。
「ゾンビ出ました、三体です!」
「横山、河内、迎撃に当たりなさい!」
「正面扉からスケルトンとジャイアントバット、それぞれ二体です!」
「俺と石岡、大原で行くぞ!」
 時々紛れ込むモンスターへの対処も慣れてきた。星さんが侵入の報告をすると、誰かがそちらに向かう。倒したら倒したでまた床を磨く。その繰り返しだ。
「ゾンビが爆発したーっ!」
「そこ、さっき磨いたばっかり……」
 そんな嘆きもちらほら。モンスターを倒す手に無駄に力が入るのは、掃除ばっかりしていて鬱憤が溜まっているからだ。それがまた余計な面倒を生むのだが。

 掃除開始から何時間が経ったのだろうか。部屋の片隅に盛られた汚れはすっかり小山を成している。小学校の校庭によくある築山みたいだ。それでもまだ、部屋の半分も終わっていない。
 支給されたお掃除セットはもう何年も使い込まれたかのよう。染みついた汚れがカビに見える。スプレーボトルに入った床掃除用洗剤も、缶に入ったクレンザーも、しつこい汚れ用カビ取り洗剤も、もう何本目になるだろう。俺は上半身を後ろにそらし、腰の辺りを拳でと叩いた。ずっと同じ姿勢を取っているものだから、痛くてかなわない。
「あ」
 俺と同じく、腰を叩いていた石岡先輩が何かに気付いた。腕にはめた時計を見て、
「定時だから帰りますわ」
「何ぃーっ!?」
 ハモった。七人全員綺麗にハモった。十四の目からの視線が全て石岡先輩に集まる。
「だって、今月は残業しても手当て出ないんだよ。そこが嘱託の悲しいところだよなー。正社員よりも仕事の時間が自由にならないんだもんなー」
 にやにやと、そう、にやにやと笑いながら石岡先輩は手早く道具を片付け、
「はい」
 よりによって俺に手渡した。
「俺の分も働いてくれよ。じゃ、みんな頑張って! お先に失礼しまーす」
 閉じこもりがちな研究者にあるまじき爽やかさで去っていった。小林先輩が、杉野さんが、俺が、引き止める間もなく扉の隙間から抜け出て行った。どうしてこんな時ばかり爽やかなんですか。その爽やかさ、もっと別な時に使ってください。
「小林先輩……」
 二本のモップを持ったまま、泣き声半分に振り返る。
「諦めろ、大原。あいつは所詮パートだ。俺たち企業人とは違うんだ。トイレ掃除のおばちゃんたちと同じなんだ」
 言いながら涙ぐむ。
「友達甲斐のない奴なんだ。それは大学の頃からわかっていた。許してやってくれ。そしてあいつの分はお前が頑張ってくれ」
「嫌です」
 俺はモップを先輩に渡す。
「部下の責任は上司の責任。先輩が頑張ってください」
「ああん? お前、上司の俺様に逆らうってのか?」
 と、モップを上段に構える先輩。
「ええ、今日ばっかりは逆らいます。これ以上力入れてやったら腰痛めます。腰痛には労災下りないってわかってるんですからね!」
 と、モップを正眼に構える俺。
 一触即発。黒い小山の前で睨み合う。足の下で削れた汚れがざりざりと擦れた。モップの先から黒い水がぽたぽたと落ちる。静かに息を吸い、静かに息を吐く。へその下、丹田に力を込め、相手の出方を伺う。何しろ敵はあの小林先輩。高校時代、インターハイでベスト4まで残ったと言われている男だ。
 勝負は一瞬。油断はできない。緊張が高まる。
「はいはいはい」
 ごすっ。
 そんな音だと思う。俺の脳天に降ってきたのは。
「二人とも、そんなことで本気にならないでください」
 割って入った杉野さんが、手にしたモップの柄で小林先輩の脳天をどついた。多分、俺の脳天を打ったのもあれだ。せっかく高まった緊張の糸がぷっつりと切れた。構えているより頭が痛い。
「お客様がいらっしゃいましたよ」
 杉野さんはモップを捨て、手にした弓に矢をつがえた。狙いを定めるよりも早く矢を放つ。鋼の矢尻がゾンビの眉間を正確に捉え、貫く。
「おう、ちょうどいらいらしていたところだ。たっぷり相手してやる。行くぞ、大原!」
「はい!」
 モップを放り投げ、小林先輩と俺は剣を抜いた。ゾンビの集団御一行様がのんびりとこちらへやって来る中に突っ込んでいく。これこそ本業。こうでなければわざわざチェーンメイルを着込んだ意味もない。
「今日は残業確定だし、私もストレス解消しちゃおうかな」
 細身の剣を二本抜いた長谷川さんも参戦。そこに無言で後に続く横山さんと河内さん。星さんはすでに詠唱の準備に入っている。
「小出しに来られても面倒だ。全員まとめてかかってこい!」
 大柄なゾンビを袈裟懸けに斬り伏せた小林先輩が威勢良く声を上げる。すると、石扉が大きく開き、ゾンビの群れがなだれ込んできた。どこを見ても腐った死体の山、山、山。こもる悪臭にたまらず顔を背ける。背けた先、天井近くをジャイアントバットたちが飛んでいった。
「先輩、何余計なこと言ってるんですかー!!」
 例のごとく、つっこんだのは俺と杉野さんだった。もっとも、応戦にいっぱいいっぱいな本人の耳には届いていなかった。

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