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■続続・就職
剣を握る手がつらい。化物の爪を弾いただけで手が痺れる。切った額から流れる血が目に入り、ただでさえ狭い視界がさらに狭まる。
黒い大きな犬が一声吠えると鼓膜が震えてじんじんと痛い。
「大原ー。もっと気ぃ張ってけー」
呑気な小林先輩に言い返そうにも暇がない。俊敏な犬の動きについていくだけで精一杯だ。
「あの、大丈夫なんですか?」
少し高い声は杉野先輩。中学時代から弓道を続けている弓の名手だ。矢をつがえ、いつでも放てるように準備してくれているんだけど、リーダーの小林先輩がそれを許さない。
後方援護くらいいいじゃないか。
ぼやきながらバックステップ。ついさっきまで俺がいた場所を鋭い爪がえぐった。ふらふらの身体をなんとか支える。
「新人研修なの。マジでやばくなったら助けるから大丈夫」
「あいつまだ余裕あるしな」
笑っている小林先輩に続いて石岡先輩までそんなことを言う。二人はのんびりと民家の軒先で茶をすすっていた。
余裕……ないんだけどなぁ。
頬を流れる血を拭い、ズボンに手の汚れをこすりつけて剣を握りなおす。黒犬のぎらぎらと光る赤い目が俺を睨む。
「あ……」
動けない。眼力に脅えたからじゃない。魔力のこもったひと睨みはあらゆる生物を縛る。視線を合わせてはいけない。事前研修で散々言われていたにも関わらず黒犬に捉えられてしまった。
剥き出しの鋭い犬歯が迫る。
「あのバカ、魔眼にやられやがって!」
叫ぶ小林先輩。それが合図だった。
黒犬の眉間を見覚えのある矢が割る。黒犬はおぞましい咆哮を上げ、天を仰ぐ。びりびりという鼓膜が破れそうなほどの声に身体が目覚めた。脱力した身体が崩れ落ちる。地に手をついた俺の背中に重力がかかった。
「下がってろ!」
俺を踏み台にして小林先輩が宙へ飛んだ。のけぞった黒犬の顎に下から剣を突き上げる。濁った黒い血が小林先輩の肌を濡らし、マントを染めた。
こもった叫びを口中から洩らしながら黒犬は頭を左右に振る。小林先輩は深く刺さった剣から手を離し、悶える化物と距離を取った。腰に下げたもう一振りの剣を抜く。
「大原!」
石岡先輩が俺の襟を引っ張った。とっとと下がれ、ということらしい。
空気を裂き、頭上を何本も矢が飛んでいく。それらはいずれも確実に黒犬をとらえていた。
石岡先輩に引きずられ、遠巻きに眺めていた村人たちの近くまで下がる。俺を放り投げて石岡先輩は腰の袋から何か出した。
霞む目に見えたのは手榴弾のような気がする。
「南無妙法蓮華経……」
「あの、先輩」たまらず聞いてしまう。「なんで法華経唱えてるんですか」
「この世界には科学という概念はない。わかるな?」
「はぁ」
「俺はこれから手榴弾を使おうとしている。これはこの世界にあってはならない科学の産物だ」
「はぁ」
「彼らは」と言って先輩は村人を見た。「手榴弾というものを知らないほうがいい」
「はぁ」
「そのためには手榴弾による爆発を魔法の力だと錯覚させるのが一番だ」
「だから、法華経ですか?」
「それっぽく聞こえるだろう?」
何も知らない人には呪文詠唱に聞こえるだろうけど、いくらなんでも罰当たりだと思う。
むにゃむにゃと後半はかなり適当に呟いて、石岡先輩は手榴弾のピンを抜いた。思いっきりふりかぶる。
「どけ、小林ぃっ!」
放物線を描いて飛んでいく手榴弾。黒犬の爪を受けた小林先輩はその反動を使って後ろへ飛んだ。黒犬に背を向け全力でこっちに走ってくる。俺と石岡先輩が地面に伏せると遅れて村人も伏せる。
「あ」
化物の頭上まで差し掛かった手榴弾に矢が突き立った。
「杉野のアホーっ!」
爆音が小林先輩の叫びも黒犬の咆哮もかき消す。砂混じりの爆風が俺たちの髪を逆立て頬に当たる。
轟音が消え、耳の奥に残った余韻を聞きながら身体を起こす。
そこには惨めにも地面と抱き合う小林先輩の姿があった。マントは少し焦げているけど燃えてはいないようだ。それでも剣を放さないのは剣士としての意地だろうか。
一方杉野先輩はというと、目を回して大の字に寝ている。いつもしっかり化粧している顔は埃にまみれていた。こっちも弓道家としての意地か、弓を放していない。
爆心地と思われるところには黒い塊が寝ていた。あまりまじまじと見たくないけれど、黒犬であることはたしかだ。哀れな末路となった化物は、顔があったはずの場所に大きな穴をつくっていた。えぐれた顔面は焼け爛れ、黒い血が溢れている。
「グロ……」
こんな時、目がいい自分を怨む。胃から戻ってきたものをこらえる俺の背を叩き、
「勇者は甘くないんだ。このくらい当たり前にならんと困る」
と石岡先輩。かく言う先輩は眼鏡を外し、明らかに黒犬から目をそらしていた。