09/26
■偽・就職
名前を言うのもはばかるくらいの大企業に就職して早一年。いい加減仕事も慣れて、ちょっとしたことなら任せられる頃だ。毎朝元気一杯に社屋のエントランスをくぐる新入社員たちの、希望と期待に明るい笑顔にこちらも元気づけられる。頑張れよ、と背中を叩いてやりたくなる。
そんな俺はというと、異動辞令も出されることなく、まだ勇者課新入りをやっていた。
そう、いまだに新入り扱いなのが困ったところ。今年は新人が配属されることがないとかで、無事、俺の下っ端的ポジションはまた一年延長されることとなった。めでたくも何でもない。バイトでいいから新人が欲しいと思ってしまう、二十三の春。
大して歳が離れていない小林先輩は若造扱いするし、杉野さんもまだかわいい後輩くらいにしか思っていないようだ。
この杉野さんが曲者で、優しい笑顔でさりげなくとんでもないことを言ってくる。明らかに罠がある宝箱を開けさせようとするし、魔法が書かれたスクロールを渡してくるし、どうにも後輩イコール便利屋と思っている節もあるらしい。最初は親切で綺麗なお姉さんだと思っていたら見事にだまされた。いや、それをこなしてしまう俺の器用さにも問題があるのだろうけど。
今ではチーム内の戦士兼盗賊兼魔法使いとなっている。便利にもほどがある。どんなファンタジーゲームにもこんな無茶な職業のキャラクターはいない。敢えて言うなら主人公である勇者くらいか。でも勇者は俺のように下っ端じゃない。いつまでも下っ端扱いならいっそのことやめてしまおうかと何度も思った。思ったけど、他の仕事にはない充実感とスリルはやすやすと諦められるものでもない。
とまあ、そんな具合に自分の中の葛藤と戦いながら俺もまた、毎朝エントランスをくぐっている。
俺は勇者。異世界の人々を助けるのがお仕事です。
今日は特に仕事らしい仕事はなかった。昨日で仕事が一段落し、ひさびさにスーツ姿のままでずっと社内にいた。
昨日まで行っていた世界では、いつものように魔王討伐だけではなかった。めちゃめちゃに破壊された街の復興のお手伝いまでしていたものだから、昨夜はもうヘトヘトだ。今朝起きたら床の上だったもんな。風呂にも入らず着替えもせずに帰ってそのまま寝てしまったらしい。残業と休日出勤が続いていたから無理もない。丸一日休んで温泉にでも行きたいところだけど、そこはそれ、サラリーマンの悲しいところ。ばっちり平日の今日も会社に出なければならない。幸い会社のほうも鬼ではなく、今日は午後出勤だった。
名目だけの出勤をして、俺たちはのんびりと報告書を作っていた。
そこにちょっと禿げかかったおっさんがやってきた。汗を拭き拭き、頭のバーコードを直している。何を隠そう、この人が勇者課の課長さんである。総務課の課長も兼任しており、普段はこの勇者課にはいない人だ。いまやすっかりどこにでもいる中間管理職だが、若い頃は魔法剣士として腕を鳴らしていたそうだ。まったく人は見た目によらない。
課長はどっしりとした腹回りを揺らし、開いているんだかいないんだかわからない細い目で室内を見回した。
「第一班、揃ってるかね」
「はーい」と、お菓子を食べていた杉野さん。
「うい」と、ガンプラの蓋を開けかけていた小林先輩。
「はい」と、バイク雑誌を読んでいた俺。
石岡先輩は今日は休みだ。嘱託の人であるだけに、仕事らしい仕事がない日は大学のほうにいる。石岡先輩の本業は大学教員。いわゆる研究者に属するだ。もっとも、年がら年中大学に張りついていなくてもいいとかで、勇者課の仕事をしている時間のほうが圧倒的に長い。
「昨日までご苦労だった。現地からの情報では無事魔王の転生が確認された。無害な人間となったそうだ。これでしばらくはあそこの世界も平和だろう」
大儀そうにねぎらいの言葉をかける課長だが、実は魔王が復活したのはかつての課長のチームのせいだったことを付け加えておく。前回施した魔王の封印が不完全だったのだ。
文句は言いたいけれど、言えないのが平社員の弱いところでもある。
課長は一冊のファイルを小林の机の上に置いた。正確には開けかけていたガンプラの箱の上に置いた。
「次の赴任先が決定した。このファイルに行先と詳しい事情が書いてある。次もよろしく頼むぞ。それと、魔王討伐の祝杯は今夜終業後。いいね」
宴会はもちろん経費で落とせるそうで、課長が指定した店はどこぞの料亭だった。しかも飲み放題と嬉しいお言葉。普段はチェーン展開している居酒屋なのに、今日はまた太っ腹。課長の腹を優しく撫で回したい。腹を揺らして総務課に帰っていくそのお姿は、わずかに後光が射して見えた。
小林先輩は開けかけていたガンプラをやむなくどけ、しっかり準備していたニッパーとヤスリもデスクに仕舞い、ファイルを開いた。かなり分厚いファイルで、俺のところから見た限りでは何やら大量の図面も閉じられているようだ。ぺらぺらと軽く通読する分にはそれほど時間はかからない。
いつになく真面目な顔でそれを読んでいる小林先輩。杉野さんが入れ直したお茶を渡しても気付かないくらいだ。真剣な横顔に時折苦渋の笑みが浮かぶのがちょっと心配。
やがて読み終わったらしい小林先輩は、
「ちょっと資料室に行ってくる」
と言ってファイルを抱えて部屋の外に出て行った。
俺は今度の仕事は面倒じゃないといいですねぇと杉野さんと談笑しつつ、先輩が帰ってくるのを待った。
退社時刻も迫り、そろそろ帰る準備をするかという頃に勇者課のドアがノックされた。
「はいはい」
素早く俺がドアを開く。と、すねに素敵なくらい鋭い蹴りをくらった。
「せ、せんぱい……」
「お、すまねぇ。手が塞がってるから足しかなかったんだ」
ああ、安いスチールのドアがまた少しへこんでる。弁慶の泣き所を抱える俺を尻目に、たくさんのファイルや本を胸に抱えた小林先輩が室内に入っていく。
ドサドサとそれらを空机の上に積み上げる。内容を見ずとも、今度の仕事の資料であろうことは容易く想像がつく。異世界ウォーカーのバックナンバーも何冊か混じっていた。
今度も剣と魔法の世界なのかな。そしたらまた魔法憶えさせられたりするのかな。
不安とも期待ともつかないような面持ちで小林先輩を見守る。俺の気持ちを知ってか知らずか、小林先輩はどことなく楽しそうな顔で本を分けていく。その中から小さめの冊子を一冊、俺に手渡した。超有名なロゴと紋章が印字されたレンガ色の本は、小さい頃に大変お世話になった一冊だった。
「何すか、これ。ドラクエ3の攻略本ですよね」
「明後日からはここだ。よーく読んで予習しとけ」
「ゲームかよ!!」
思わずつっこむ。呼ばれりゃどんな世界にでも飛んで行く勇者課だけど、まさかゲームの世界にまで足を伸ばすとは!
「まさか、ゲームの中に入るんですか!?」
この時俺の頭の中では、テレビの中に片足をつっこむコスプレ野郎たちの姿がめくるめく極彩色で描かれていた。まさに逆貞子。
「勘違いすんなよ。ドラクエってのは元々別世界をモデルに作られたゲームなんだよ」
「嘘ぉっ!!」
社内ということも忘れて絶叫。
「嘘じゃねぇって。世界の危機っぷりがちょーっとばかり違うだけで、基本は全て同じだから」
知らなかった。全く知らないでゲームしてた。ドラクエ3なんて、発売当日に親父と兄貴と並んで買って、もう何周もしている。徹夜も当たり前にしていた。そのうち普通のプレイに飽きてきて、勇者初期装備一人旅とかやってた。
もしかすると、ファイナルファンタジーとかウィザードリィとかウルティマとかの世界もあるのだろうか。カオス神殿があって、ワイヤーフレームなダンジョンがあって、エクソダスがいるのだろうか。
こめかみを揉みつつ、攻略本を眺めた。少しよれよれになった表紙は明らかに誰かが使い込んだ物だった。会社の資料室にこんなものまであるなんて。一度も入ったことないけど、もしかしてあらゆるゲームの攻略本が揃ってるのか?
引きつった顔で攻略本を握り締める俺に、小林先輩は何とも爽やかな笑顔で言った。
「あー、それとな。大原はホイミ覚えとけよ。お前ホイミ担当。言うなればホイミン」
血の気が引く。
「まあ、かわいい」
さらに杉野さんの追い討ち。
「俺ホイミスライムなの!?」
いつの間にか来ていたらしい石岡先輩。叫ぶ俺の手から攻略本を奪い、
「待て、小林。ホイミンは4だ」
「ちょっと先輩、それポイント違う」
もう、どうしてここってこんな人ばかりなんだろう。俺、本気でホイミスライムにならなければいけないのか。僧侶じゃ駄目なのか。こんな時、縦社会な日本企業を恨みたい。恨ませてください。
「お、石岡。来てたのか」
「ああ。今夜は打ち上げって聞いたからな。データ取りを院生に押し付けてきた」
涼やかな顔でさらりと言うが、院生さんには多大な迷惑であることこの上ない。ちょっと前に研究テーマを聞いたことがあるけれど、データ採取が並じゃない、とんでもない研究だったはず。
「次はドラクエか。何かあったのか?」
「アレフガルドで蛙が大量発生だそうだ。蛙は竜王の生育によろしくないので駆除するようにと、竜の女王の神殿からの依頼。その蛙、どうやらバラモスの落とし種らしいんだけど、えらい魔力を持っているらしい」
もう、俺は開いた口がふさがらない。杉野さんは滅多に入れないゲームの世界だからと無邪気に喜んでいる。私はやっぱり武闘家かしら、でも盗賊もいいなぁと呟いている。
俺は開いた口が塞がらない。
「大原、これも読んどけ。どっかに魔法の使い方書いてあるだろう」
そう言って小林先輩から手渡されたのは、小説ドラゴンクエスト3全三巻。あまりにもアバウトなお心遣いに俺、涙がこぼれそうです。抱えたハードカバー三冊と攻略本一冊はさすがに重い。その重さはこれから先の俺の気持ちをそのまま表しているかのようだった。