04/11
■sleeping sheep
疲れた身体をひきずりながら帰宅の途についた。肩にかけた鞄は、中身など大して無いのに鉛のように重い。鉄板でも入れていたかなとチャックを開けて覗くが、そんなはずもない。空っぽの空間に手帳が一冊転がっているだけだ。変な妄想が頭を捕らえて離さない。
足が上がらない。引きずっているのと変わらない足取りに、革靴の底はどんどん削れていく。登山靴を思わせるしっかりとした底と深い溝、適度な大きさと重さが気に入って買ったはずなのに、こんな状態の今では厄介なばかりだ。砂利が靴の溝に詰まり、余計に歩きにくい。
落ちた肩とよれよれの服。前かがみの姿勢。顔に表情を作るだけの余力もなく、辛うじてまぶたを開けている。はあ、と時折漏れる溜息だけが生きている証であるような気がしていた。でなければ墓場から出てきた死人と変わらない。精力もなく、虚ろに歩き回るだけの死人の身体に無理に魂を押しこんだようなものだ。
扉を開けようとして肩が上がらないことに気付いた。五本の指先それぞれが分銅をぶら下げているようだった。いつもより力を入れないと動かない。だけどいつもより力が入らない。
いやでも重力を意識する。空はこんなに広いのに、人間は地べたを這いつくばって生きている。数え切れない人々が飛ぶことに憧れ、ライト兄弟が初めてあの大空に乗り出してから百年。百年だ。技術は革命的なまでに発達した。遠くの人と気軽に話すこともできるようになったし、宇宙にまで行くようにもなった。それでも人は大仰な機械を駆使してやっと飛ぶ。鳥たちはそんな人間を嘲笑っているのだろう。結局人は地べたを這いずり回る虫と同じ。空は永遠の憧れであり、自由に飛ぶことはできない。地面で生まれ、地面で終わる。そんな生き物なのだ。
しかし今は重力に逆らうべきだ。普段逆らうということをしない男でも、ずっとここで立ち尽くしているわけにはいかない。残った気力を右腕に集めてノブに手をかけた。
思っていたよりあっさりとドアが開いた。うちのドアってこんなに軽かったのか、と掴んだノブを見詰めていたが、ふとした気配に顔を上げた。
「おかえりなさい」
彼女がそこで微笑んでいた。暖かな玄関の明かりで彼女の繊細な髪が茶に透ける。白い右手がノブを握っていた。
食事を作っていたのか、タータンチェックのエプロンをつけたままの姿だった。家の奥からはよい香りが漂ってくる。玉ねぎを煮た甘い香りと、魚の焼ける香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
「早く帰ってきてくれて良かった。お義母さんとお義父さんがいらしてるのよ」
野球中継の音に混じって父の声が聞こえてきた。はしゃぐ甲高い声は息子だろう。野球好きの血は親子三代無事受け継がれている。
間違いなく、ここは自宅だ。彼が帰る場所。大切な人たちがいる暖かな家。
足指の先から全身を包む疲労と倦怠が抜け落ちていった。「疲れる」は「憑かれる」と同義なのか、まさしく憑き物でも落ちたかのように身体が軽い。抜けていったものの代わりに熱を持った生気が入り込んでくる。
「ただいま」
そしてありがとう。
彼女に精一杯の感謝を込めて負けじと微笑み、後ろ手にドアを閉めた。パタンという音とともに外と中が隔絶される。守らなければならない殻の中。ずっとずっと閉じこもっていたいと願いながらも叶わない。彼は外に出るべき人間であり、大切なもののために戦う役目を担う。
あの男が持っていて、彼が持っていなかったものだった。
「旭?」
天井があった。天井の手前に男の顔があった。光が眩しい。天然の光が当たることのない地下は人工の光で満たされ、夜を知らない。
「もしかして寝てた?」
うなずく。ソファに横たわったままの姿勢だった。
「夢を見てた」
「夢?」
男の顔が不思議なものでも見るように変わった。守護局で訓練された能力者は感情に鍵をかける。何を見ても何も感じず、機械のように仕事をこなす。幼い頃よりそういう訓練を受け、それが当たり前になっている。笑ってもそれは心からの微笑みではなく、泣いてもそれは本当の涙ではない。だからこそ、能力者は夢を見ないというのが通説になっていた。
「うん」
掌をじっと見詰める。空っぽの手の中には何もない。そのまま目を覆った。手に入らない過去と現在を夢に見た。普通の家に生まれ、普通に成長し、普通に家庭を築く自分の背中がそこにあった。目を閉じればまた見られるかと思ったが、目蓋の裏の真っ暗な世界が広がっているだけだった。泡沫の夢でもいいから、ひと時の幻影を手に入れたい。
願いは虚しく現実に引き裂かれる。
目覚め、立ち上がれば任務が待っている。彼らにとっては日常の、地上の人々にとっては非日常の仕事が。
彼は黙って差し出されたタオルを受け取る。顔を拭い、鼻をかんだ。頭を載せていた肘掛が濡れていた。