02/19
■秋の国 後編
「僕も元は旅をしていたんですよ。こんな風にパフォーマンスをしながら全世界を渡り歩いていた。ロンドンの街角で、赤の広場で、ユーフラテス川のほとりで。立つところがあればどこにでもブロンズの騎士は現われましたよ」
穏やかに騎士が微笑んだ。台の後ろからポットを取り出し、銀のマグに中身を注いだ。炭色のコーヒーの香りが広がった。差し出されたので礼を言って受け取る。青年は、今度は褐色のガラス瓶を取り出した。何だろうと見ていると、蓋を外して中身を私のマグに注ぎ入れた。真っ白のミルクだった。
青年は私に勧めるばかりで自分の分を作ろうとはしない。自分ばっかりもらっているようで申し訳なく、君の分はと聞くと、
「せっかく塗ったドーランが落ちてしまいますからね」
なるほど。口元だけ肌色のブロンズ像というのも気味が悪い。私は礼を言ってマグの中身をすすった。ほんのりと甘いコーヒーは青年の優しさをそのまま写し取ったかのようだった。
青年は私にこの国に辿りつくまでの経緯を話してくれた。勿論、私でもわかるようにゆっくりと、簡単な単語で言葉を紡ぐ。
大都市のごく普通の証券マンの息子として生まれ、幼稚園を中退し、路上でパフォーマンスをしていた大道芸人に押しかけ同然で弟子入りしたのが八歳の頃。それからしばらくは師匠の下で芸の腕を磨いていたが、徴兵され陸軍に入隊。死線をくぐり、除隊した後は元の大道芸人に戻った。それからは旅に次ぐ旅の暮らし。この国に落ち着いたのはつい半年前のことだった。
戦争で前線も経験した人間が五体満足で帰って来られるのものかと感心したら、青年は太腿の裏を見せてくれた。引きつれた弾痕は、青銅色でも生々しく見えた。
「どうしてこの国に?」
「一番は憧れですね。ご存知の通り、ここは芸術のメッカです。国を上げて芸術が奨励され、ありとあらゆる美が生まれては世界へと旅立っていった。アートを志す者ならば一度は憧れるんです」
私は黙って聞いていた。彼の瞳には青年期特有の希望に満ちた光がある。
「この国は環境がいいんですよ。年中こんな気温なんです。人間の身体に合っているのでしょう。暑からず、寒からず、ゆっくりと物を考えるのに適している。また、身体を動かすにも最適です。そしてこの風景。エジプトから続く長い長い人類の文明の終端にあるのがこの地だったのでしょう。ありとあらゆる文化が共存し、融合し、ついには一つの文化となった。ほら」
と、青年は公園の向こうにそびえる尖塔を指した。真っ青な空を貫く三つの塔は、街のどこからでも見える。中央広場にある有名な塔だった。
「あれはキリスト教の教会ですが、イスラム文化の影響が色濃く残っています。内部にはモザイクがあるんです。そしてそのモザイクはどことなく仏教のマントラを思わせる。あの聖堂一つに世界の三大宗教が詰まっているんです」
ほう、と感心の溜息をつく。節操が無いと言えば聞こえは悪いが、上手く融合している例は見たことがない。そんなに珍しい建物ならば一度見物に行こう。
「西洋式ながらオリエンタルな雰囲気も残す街並みがあらゆる人々の感性を刺激するのでしょう。この街は様々な絵画や曲の題材として扱われています」
騎士像が短いフレーズを口ずさんだ。吹き抜ける風が彼の声を運んでいく。私でも知っているくらい有名な交響曲の一節だった。悲哀の中に希望の片鱗を見せるメロディラインはどこの国でもよく耳にした。その曲のテーマこそ、この街だった。
「どうですか。この一年中秋の国は」
「そうですね。まだ来たばかりですが、素晴らしい国だと思います。ここから多くの世界の至宝が生まれたのも頷けます」
月並みな答えでも青年はちょっとだけ笑ってくれる。
「そう思えているうちが一番ですよ」
笑みはどことなく寂しげだった。
「知っていますか。この国は世界一自殺率が高いんです」
絶句するより他なかった。
「秋の国なんて皮肉ですよ。秋は物悲しい季節です。先にある寒くて暗い冬を思えば溜息もつきたくなります。この国はその寸前で止められている。永遠に秋なんです。決して冬はやってきせません。だけど、いつもちらつく冬の影にみんな溜息をつくんです」
何も言えず、飲みかけのコーヒーを見つめる。
「精神病院はいつも満員です。ベッドは足りず、絶えず患者が薬を求めてくる。精神科医が悲鳴を上げ、精神科に駆け込む。そんな国なんです」
周りに飲まれないよう気をつけてくださいね。
ふと、入国審査官の言葉を思い出した。
「早く次の国に行ったほうがいいですよ」
そう忠告する、さっきと同じはずの笑みには暗い影が落ちていた。
「君は他の国に行かないのかい」
「僕はもうここの住人ですから」
コーヒーの礼を言って青年と別れた。柔和な笑みの青年は、台の上で再び青銅の騎士となった。鎧が西日を反射し、躍動感を一層強くしていた。
さきほどまで鮮やかに映っていた景色は一変していた。絵画のような風景の裏に、重く暗い墨が入っている。影を目で追うが、どぶねずみのようにさっとどこかへ隠れてしまう。視線の先にはカフェのウェイトレスがいた。ミルクの泡で絵を描いたカプチーノを運び、タブロイドを読む客の前に置く。そつがなく、きびきびとした動作だった。自分の仕事に自信と誇りを持っている。そう思わせる接客だった。一礼して彼女は客の前から離れる。
彼女は客の目の届かないところでこっそりと息を吐いていた。