参考→秋の国 前編

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■秋の国 中編

 杜撰な宿だと誰ともなしに愚痴を言いながら部屋の物色を始めた。どの部屋もベッドがあるだけの簡素なものだ。鍵がない扉を開けると奥には木枠の窓が一つ。ガラスのひび越しに見えるのは煤けた隣家の壁だけだ。両壁には二段ベッドが置かれている。四人部屋ということだ。唯一の家具である寝台が部屋のほとんどを占めている。あとは座れもしないスペースがあるだけだ。
 これは本当に寝るだけの部屋のようだ。おそらく夜になれば一日の疲れを背に負うた人間達が部屋を埋めていくのだろう。私と同じように野宿だけは避けたい者が多く集まってくるであろうことは見当がつく。最悪寝場所がなくなるかもしれない。
 元の色がわからない薄っぺらの毛布が丸まって床に落ちている。一週間前の新聞がゴミ箱から突き出ている。誰のものとも知れない帽子がベッドの柱に引っ掛っている。隣家が壁の向こうに接しているため室内に光が入らない。開けられた様子の無い窓に手を掛けるが動かない。嵌め殺しのようだ。身に纏わりつく黴の匂いが鬱陶しい。
 今から寝台に居座り己の居場所を主張しても構わないが、生憎とまだ陽は高い。
 陰気臭い宿から抜け出し気分を変える事にした。この国はただ街を歩いているだけでも目に楽しい。荷物は背にある。あの受付に預けるのは気が引けた。薄汚いバックパッカーが穏やかな秋の午後に混じることにいささか抵抗を感じないわけではないが、罪になるわけでもないからと自身に言い聞かせる。
 舞い散る赤い葉。色付いた並木のプロムナードは光の画家モネの絵を思い起こさせる。街の中央に位置する公園は広大で豊かな緑を内包していた。囀る小鳥、せっかちな虫、風が枝を揺らす。いずれも自然がもたらす音であり、都会の喧騒の只中にあることを忘れさせた。
 噴き上げる水は柔らかな陽射しを受けてきらめき、優雅な曲線を描いて美しい乙女達の像に降りかかる。ベンチや街灯や石段、ありとあらゆる公園を人工物たらしめているあらゆるものですら無表情ではない。あるいは鮮やかな色彩のタイルを散りばめられ、あるいは複雑な意匠を凝らされ、一つとして同じ物がない。全てのものが個性を放ち、歩く者を楽しませる。
 あちらこちらで写生している者を見かける。どこからかバイオリンの音が聞こえる。堪能とは言えずとも味のある音がまた面白い。
 この空間は人々を日常から切り離し、おのおのが思いに耽るための場所だった。
 池のほとりにブロンズ像が立っていた。鎧を着け天高く剣を掲げる勇壮な騎士の像だ。細部にわたる彫り込みが生命を感じさせる。盛り上がった腕の筋肉など石とは思えない質感を持っている。見れば見るほどリアルな像に感心していると、不意に視界を奪われた。
「うわ」
 突然のことに声を上げ、目を覆う。突風だ。
 一瞬だった。
 風はすぐ落ち着き、息をつきながら目蓋を開けた。巻き上げられた枯葉が身体についていた。
「すごい風でしたね」
 今度こそ本気で、しかもかなりの大声を上げた。潰れるかと思うほどに心臓が収縮する。声を出してから仰天しているということを冷めたもう一人の自分が認識した。写生をしていた初老の男が何事かと振り返る。
「驚かせてすみませんね」
 目の前の騎士像は人懐こい笑みを浮かべていた。
「ちゃんと生きてますから」
 薄く開いた口の中は生々しい赤に染まっている。青銅色ではない。閉ざされていた、金が混じった青色の瞳が優しくこちらを見ていた。あれほど硬質の光を放っていた腕は易々と折れ曲がり、まっすぐ空へとのびていた剣先は地面を向いている。
「あんた人間か」
 撫で下ろした胸はいまだ早鐘を撞いている。写生をしていた初老の男は不機嫌な顔を残して己の仕事に戻った。騎士は載っていた台から下りるとその上に座った。違和感は拭い去れずにいたものの、騎士像は生身の人間にしか見えなくなっていた。
「本当に驚いた。心臓が止まるかと思った」
 騎士の隣に座り素直な感想を述べる。すると騎士は満面の笑みを私に返した。
「嬉しいなあ。僕達にとってはそれが一番の褒め言葉ですよ」
 青銅色の化粧が騎士の素顔を隠しているが、よくよく見ればまだ若い。肌の張りや瞳の輝きは年老いた者のそれではない。人種が違うので測りかねるが私と同じくらいであるだろうか。
 下手な言葉で私は旅行者であることを明かすと、騎士は優しい言葉で話してくれた。聞けば騎士に扮する青年は毎日ここに立っているらしい。レストランで仕事をしている彼はランチの時間が終わると、ディナーまでの休憩時間を使っているとのことだ。

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