10/06
■秋の国 前編
世界中をめぐる旅を始めて三か月、私は今日七か国目に入った。
南北を二つの大国に挟まれた東西に細長い国だ。つい数十年前まで領土争いが激しかった土地でもあり、何度も国名が変わっている。しかしこうして平和な世の中になり、平和を絵に描いたようなこの国も無事独立を果たしている。入国に厳しい制限がないのが平和な証拠だ。
この旅で是非とも立ち寄りたかった国の一つだ。多数の学者・芸術家を輩出、またスポーツが強い事でも全世界に知られている。それこそ名の知れた音楽家・画家は多くがここの出身であり、オリンピックで表彰台にはためいているのはここの国旗だ。ノーベル賞受賞者の半数近くも何らかの形でこの国に関わっている。どうしてそれほど優秀な人材が生まれているのか。常々興味があった。
入国審査官が私にパスポートを返し、一言付け加えた。
「周りに飲まれないよう気をつけてくださいね」
忠告の意味などさっぱりわからなかったがひとまず礼を述べ、街へ出た。
思わず目を見張った。
ゆるやかに鐘を鳴らす聖堂。ステンドグラスは時を経てなお鮮やかな色で目を楽しませる。尖塔の上空には高い青空。重厚な歴史的建築物をとりまくこれまた時を感じさせる家々。石畳の上には黄色い銀杏の葉が散らばり模様を描く。そして午後の一時をカフェテラスで過ごす人々。
そこに広がるのはまさに絵画の風景だった。誰もが想像する秋の街並みはきっとこういうものだろう。映画の中にでも紛れ込んだような錯覚を覚える。そしてふと気付いた。バックパックを担いだ旅行者然とした私にはとても不似合いな場所だ。
恥じるように道の端を歩き、ひとまず今夜の宿を探す事にした。
広場で開かれていた市場で林檎を一つ買い、ついでに安い宿を聞く。果物屋の女主人は恰幅のいい身体を揺らしながら二、三教えてくれた。もったりと重そうな目蓋が印象に残る。少しだけ酸っぱい林檎はうまかった。
教えてもらった宿は場末の労働者向けの宿だった。そこだけ周りから取り残されたように古ぼけていたが不思議と不潔な感じはしない。この国の人間はやたらと綺麗好きなのかもしれない。そう言えば街にゴミが落ちていなかった。
しかしこの辺は治安が悪そうだ。酒瓶を持った男が家と家との間に寝っ転がっているのを見た。ぎらぎらと好戦的な目付きをした集団ともすれ違った。私はそそくさと宿に入った。貧乏旅行だから野宿でないだけマシだ。
こぎれいな受付には誰もいなかった。カウンターの奥に半開きの扉が一つ。薄暗いロビーにはベンチで猫が寝ているばかりだ。私はカウンターから乗り出してに扉の向こうを覗いた。
「すみませーん」
まだ拙いこの国の言葉で声を掛ける。奥からはテレビだかラジオだかの音が聞こえる。もっともノイズ混じりのその音は早口で何を言っているのか理解できない。
「すみませーん」
もう一度、今度はもっと大きな声で。すると扉の向こうから一人の男が出てきた。
素肌にシャツを羽織り乱れた金髪に手を入れて掻く。くわえた煙草から細く立ち昇る紫煙の香りがこちらの鼻をつく。
「あんた客か?」
男はぶっきらぼうに言う。何とも癖の強い言葉遣いで理解するまで間が開いた。私が頷くと、
「外国人かよ」
と面倒くさそうに宿帳をカウンターの下から取り出した。
「名前と住所。あと滞在期間。そんだけでいい」
私が必要事項を書き終えるのを確認すると宿帳を元の場所に仕舞い、
「部屋は適当なところ使え。荷物は自分で管理しろ。盗られても責任は取らねぇ」
そう言い残して奥に戻っていった。いい加減な受付だ。小さな怒りが胸に現れる。今までもこんな経験がなかったわけではないが今日は特別だった。これほど優雅な街に住む者だから人柄もさぞかし良いのだろうと思っていたからだ。結局私の勝手な憶測であるのだから男に対して怒るのは筋違いである。