第5話

 指定された場所は空き地だった。入口に立つ看板には、青空の中にそびえ立つ巨大な高層ビルの完成イメージ図が描かれている。四隅の柱以外は全てガラス張りのデザインは、少し前であれば近未来的に見えたことだろう。見た目の派手さよりも重厚さに重きを置かれる今では時代遅れの建築物にしか見えない。ところどころ塗料が剥げて赤茶の錆が浮いているところを見ると、開発が中断されて随分と経つようだ。
 朽ちかけたアコーディオンのゲートを潜り、ヘクターは空き地に立つ。見捨てられた土地はすっかり荒れ果て、コンクリートを割って草が伸び、その間を百足が這っていった。岩地よりも足場が悪い。そんな中で悪魔を思い起こさせる凶々しい斧を二丁、肩に担いだ女が待っていた。赤い瞳と同じくらい赤く長い髪。背筋は凜と伸びていて、女を実際以上に大きく見せていた。
 この女と会ったことがある。
 いつだったのかどこでだったのか覚えていない。奇妙な既視感に捕われて軽い目眩を覚える。
「やっと来たな」
 鍛えられている割にはまだ身体ラインに女性らしさが残っていた。豊かな胸に締まった腹、腰から足にかけては優美とすら思える曲線を描き、年頃の男には眩しく見えるはずだ。しかし、ヘクターはそれを見て美しいと感じることはなかったし、ましてや劣情を覚えるなど論外だった。
「そうか、思い出したぞ。貴様がクロエ・フォールゥンだったんだな」
「ああ、ようやく互いの名前を知ったな、ヘクトール・シュトゥルム。もう二度と会うことはないと思ってたんだけどね」
 記憶の底をさらってようやく思い至る。一度だけ邂逅というには程遠いが出会ったことがあった。なんてことはない。わずか数秒、街中で擦れ違っただけのことだ。普通ならばあっさり忘れてしまうところだが、その頃のヘクターはまだ盲目に任務を遂行するだけの官憲から足が抜け切っておらず、ちょっと変わった人間がいれば即座に観察して覚えておく癖が残っていた。しかもその時のクロエは、
「暁の女帝」
仲間からそう呼ばれていた。
「そんな昔の二つ名はやめてくれ」
 ヘクターの言葉に苦い笑みで首を振る。
「周りが勝手にそう呼んでただけで、私は女帝なんてタマじゃないさ」
 ありとあらゆる武器を使いこなし、なければ手近な物を、それもなければ己の身ひとつで敵を粉砕する。彼女の通った後は草一つ残らない。そんな化け物じみた伝説が一人歩きしており、人々は畏怖あるいは敬意を持って彼女を「女帝」と呼んでいた。しかし世俗に疎いヘクターがそんなことを知っているはずもなく、ただ随分と大仰なあだ名だと思った覚えがある。
「お前さんはどうなんだ? 今は“どっちの“ヘクターなんだ?」
 クロエの言葉にヘクターはあからさまに訝しみ、眉を潜めた。
「質問の意味を理解しかねる。ヘクトール・シュトゥルムは前にも後にも俺ひとりだ」
 クロエは「ふぅん」とつまらなそうに言って、出し抜けに右手の斧を振った。ギロチンのごとき刃が、頭上わずか5ミリの高さを風を切って通り過ぎていく。当たらなかったのではない。避けたのだ。屈んだヘクターが右腕をまっすぐに伸ばすと、その手に黒い光が収まった。クラリックガン――完全なる統制国家、リブリアでクラリックと呼ばれる取締官だけが携行していたハンドガン――はそれまで鋼の身の内に潜めていた凶暴性を剥き出しにした。斧の回避、クロエの推定反応速度、弾丸を薬室へ送る時間、回避態勢の自分からクロエまでを結ぶ直線。全てを計算し尽くした弾丸が最適角で打ち出される。
 仕留めるなら一発で確実に。無駄弾ばかりばら撒くのは素人だ。
 だが、クロエも幾多の死線をくぐり抜けて来た。脊髄反射に近いまでに研ぎ澄まされた戦闘術の使い手であるヘクターに対し、クロエは闘争を本能とする生粋の戦士だった。ヘクターは思考して戦うが、クロエは考える前に勝手に体が動く。
「クスリ飲めよ。ヤクが切れてるお前では私にはかなわない」
 眼前にかざしたもう片方の斧に、ひしゃげた弾頭がへばりついていた。ヘクターの予測を上回る速度で重厚な斧を振り上げたのだ。
「戯れ事を」それまで表情らしいものを見せなかったヘクターがせせら笑った。「貴様のような強い女と殺り合えるのに、何故プロジウムの世話にならねばならない」
「いずれわかるさ」
 どことなく悲しげに言ってクロエは斧を引き戻す。ヘクターは直立の態勢に戻り、左肘を張った。真っ直ぐ伸びた左手に、音もなくクラリックガンが収まる。
 二人は対峙したまま微動だにせず、まんじりと時だけが流れていく。試合開始を告げるゴングはない。当たり前だ。日時と場所、そして相手が指定されているが、これはフェアなスポーツ試合ではないのだ。
 そして二人の姿が消えた。


「ままー? まーまー?」
 子供の声が聞こえる。まだ男女の区別がつかない舌足らずな幼い声は、無邪気に明るく呼び続ける。
「ままー?」
 声の主は人間ではなかった。異様な風体の人形がぎくしゃくと歩いている。人形とは概してかわいらしい物と相場が決まっているが、これについては異様としか言いようがなかった。
 頭は大人の胸まで届かず、なのに身の丈ほどの巨大なハサミを背負っていた。青白い顔にはひびが入っており、割れた眼窩からガラスの義眼がごろりと覗いている。側頭から突き出た短い角は先が欠け、関節を晒した細長い手足は動かすたびにぎしりと軋む。少女の姿を写し取った顔は愛らしいものだったのかもしれない。しかし今では半壊した顔の残った部分が整っているだけに不気味さが増していた。崩れた風体の人形が歩く様はどうにも人の神経を逆撫でする。
 幼い声を模してはいるが、人工物特有の平板さは隠しきれない。そんな声が人を探し彷徨っている。
 細長い紫苑の袋を持っているからかバランスが悪い。時折つまづきそうになりながら、だけど袋は大切に胸に抱き締めたまま、打ち捨てられた工事現場のゲートをくぐった。
「ままー?」
 何を見つけたのか、人形は弾かれたように背筋を伸ばし、幾度か瞬きを繰り返してぱかりと口を開けた。
「まま遊んでるー 遊んでるのー あんせむも遊ぶー ちょきちょきするのぉー」
 人で言えば嬉しそうな仕種というやつだろう。片腕では袋を抱えたまま、もう片腕をぐるぐると回す。
 その頭が消失した。
 横一線に切断したのか、首から上だけが綺麗にもげてボールのように荒れた地面を転がった。色素の薄い髪が乱れて顔にかかる。
 黒い銃口が人形を見つめていた。薄い煙を立ち上らせて。擦り切れた黒革の手袋が銃把を握っている。細長い指を辿ると黒のロングコート――ヘクターの素っ気ない顔に突き当たる。堅い表情の中の双眼が人形を映す。


 唐突に重い塊が頭を襲った。
 目の内側に星が飛ぶ。人形のように首がもげることもなく、背中から地面に倒れ込んだ。
「よそ見してんな。あんたの相手は私だ」
 いましがたヘクターを蹴り上げた足を戻し、クロエはさらに斧を突き入れた。短く息を吐く。角が生えたドクロを模した斧の先端がヘクターの鳩尾をえぐる。口角から泡を飛ばし、ヘクターは苦しげに息を吐く。
「意外と胆が小せぇな」
 クロエは斧を捨て、倒れ伏したヘクターの両手をボールのように蹴った。堅い靴底が黒手袋を削り、銃が手を離れて遠い地面に飛んで落ちる。ヘクターは起きあがらんと腹に力を込めたが、クロエが膝で肩を押さえ付けてのしかかってきた。
「オンナに乗ってもらう気分はどうだ」
「何とも思わん」
「だろうな」
 黒コートの下の腹を締めて抵抗を示す。どうにか女を退けようと体をねじり、足をばたつかせるが、恐ろしい力で封じられる。頭を地に押し付けられると、真正面にクロエのすぼまった紅い瞳孔があった。
「だからプロジウム飲めっつったんだ。てめぇの感情もロクに制御できない戦闘狂に用はない。無感動に、冷徹に、正確に、てめぇの仕事をこなすだけのクラリックがいい。お前も強いかもしれないけど、感情に素直すぎる」
 ヘクターは表情を動かさない。強く噛み締めた奥歯がぎしりと軋む。プロジウム――忌々しい名だ。人間の感情を封じ込める最強にして最悪のトランキライザー。平和と平等とを求めたリブリアが人民を律するために取った手段。
「動く人形にお前は反射的に引き金を引いた。プロジウムを飲んでたらそんな余計なことはしないよなぁ。離れてる得体の知れねぇ人形と、目の前の武器をかざす私。普通ならどっちを優先する? 何がお前をそうさせたと思う?」
 半笑いを浮かべ、クロエは黙ったままのヘクターの白い肌を撫でる。滑らかさも柔らかさもない、筋張った戦士の手だ。顎を割るのも目を潰すのも片手で容易くできるだろう。こちらをのぞく艶めかしい目の奥で、獰猛な肉食獣の光がちらちらと閃く。
「未知の物への恐怖だよ」
 肌を撫でていた手をかためたかと思うと、したたかに殴られた。それも何度も。ヘクターの口の中に生臭い鉄錆の味が広がる。舌の上に異物を感じて横に吐き出すと、赤に塗れた白い小石が転がった。食いしばっていた歯が折れたようだ。
「俺に恐怖はない。そんなものは弱者の妄想だ」
「いいや、誰にでも恐怖はある。人間は生きるために本能で恐怖を感じるんだ。そんな簡単なこともわかんないのか?」
 ヘクターは顎をつかまれ無理矢理横を向かされた。二人の視線の先には転がる頭を追う人形の姿があった。おぼつかない足取りながら、頭がない身体が動いている様はやはり気味が悪い。
「あいつには感情がない。人間っぽく振る舞っているだけだ。文字通り頭のネジが飛んでやがる。もちろん頭が吹き飛んでも叫ばない。誰かが死んでも泣き崩れない。思い出さないか。プロジウムを飲んでる時のお前もあいつと同じなんだろう?」
 相手が違反者であれば奪うことも殺すことも躊躇わない。それは任務のためと割切り、遂行には何の感慨も湧かない。当然ながら迷いもない。完全に市民の感情を統制した国家、リブリアの中でも特にクラリックは機械であることを求められ、彼等自身もそうあり続けた。それも無意識のうちに。
「薬飲めよ。ヤク中のお前じゃないとつまんないんだ」
「拒否する。必要ない」
 目を細めてヘクターはクロエを見た。垂れ下がる長く豊かな赤髪が自分を捕らえようとしている。それを見て口元に浮かぶは薄い笑み。プロジウムを摂取していればこんな顔はできない。ヘクターもクロエも正気だ。ただほんの少しだけ己の欲望に忠実で、自分の裡に宿る狂気の正体を知っているだけ。
「血が騒ぐのだ。心が踊るとはこういうことを言うのだろうな」
 控えめな声で言うものの、想いは抑え切れない。生きている実感。生の喜び。だからこそ生きていこうと意思。
「これほど高揚するのも久しぶりだ!」
 肉をえぐる確かな手応え。それまでしっかりとヘクターの上に腰を据えていたクロエが身体を浮かせた。ヘクターは自由になった両肩と腰を捻り、足を振り上げて女をはねのけた。二人の身体が転がり、服に髪に肌に砂利がまとわりつく。
 クロエの腿に細い刃が突き立っていた。血に濡れた柄に十字の紋章が刻まれている。今は亡き独裁国家、リブリアのシンボルだ。
 埃を叩きながら立ち上がったヘクターは破れた黒手袋を外し、己の両掌を検分する。血が滲んではいるが大した傷ではない。少々滑るかもしれないが、銃把を握る分には問題ない。掌を擦り合わせて滲んだ血を満遍なく広げ、その手で乱れた前髪をかきあげて整える。砂色の髪が血に染まった。
「随分と男前になったぜ」
 膝をついたクロエは腿のナイフを抜き取って捨てる。
「アンセム、得物をよこしな」
 どこまでも転がっていくる頭をようやくつかまえた人形は、頭のない首をクロエに向けた。おぼつかない足取りながらも地面を踏みしめ、大事に抱えていた布袋をクロエへ放る。
「フェデたんからのお手紙付きだよぅ」
 剥き出しの眼球がくるくると回る。体がない頭はけたけたと笑いながら再び転がりだした。身体は頭を追い掛けてよたよたと動く。その様子は普通の人間であれば趣味の悪いホラー映画と形容したかもしれない。しかしあいにくとヘクターにもクロエにも映画を見るような趣味はなかった。
 ヘクターはじっと相対する女の一挙手一投足を見守っていた。無駄な脂肪を落としたすらりとした腕が紫の包みを剥いでいく。中から現れたのは一本の棒と、剣というには柄が長すぎる曲刀だった。袋の中からひらりと落ちた四つ折の紙を拾い上げるが、中も開かずに胸元にねじ込む。
「読まなくていいのか」
 ヘクターが聞くと、
「字わかんねーもん」
と、こともなげに言った。
 クロエは得物を持ったまま、胸の前で手を合わせる。踊るようにターンしながら腕を背にめぐらせ、再び正面に向き直った時には薙刀ができあがっていた。腰だめに構え、大きく息を吐く。空いた左手が黒衣のクラリックを挑発している。
 ヘクターはゆっくりと腰を低く落とした。右肘を引いて左手を前方に突き出すカンフーの型だ。ひとつだけカンフーと違うのは、両手に拳銃を握っていることだ。クラリックガン。彼らの最強の武器。
「ままー がんばってなのーぅ」
 ようやく頭に追いついた人形が間延びした声をあげる。クロエは返事しない。返事をする余裕がないのだとヘクターにも容易にわかった。二人の間の糸は今にも千切れそうなほどに張り詰めている。いや、張り詰め、千切れるのを待っている。頭の中で幾通りもの戦闘パターンを予測し、計算し、対応策を叩き出す。アドレナリンが脳内を駆け巡り、身体の隅々、末梢神経まで覚醒する。指先に触れる空気の流れひとつ逃すまいと全身の感覚器官が開く。
 一撃で決まる。おそらく先に手を出したほうが負けだ。
 とろりと掌から血が流れ出てインナーの袖を染める。
 感情の抑制。自律神経のコントロール。心拍数を抑え、状況を把握。コンマ何秒単位で最前の判断を叩き出し、素早く実行する。そのくらいのことプロジウムに頼らずともできる。むしろ今のほうが力が湧いてくるのだ。
 おかしくてたまらない。口元に浮かぶ薄ら笑いがどうしても消えてくれない。
 そして。
 十字のマズルフラッシュが輝く。

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