第2話

 自分がそれほど鋭い人間だとは思ったことはなかった。だが、どんなに逃げられようとも、奴がどこにいるのか皐月にはすぐに探り当てることができる。人には神の教えに忠実に生きているから、なんて空々しい台詞を吐くが、実際は奴が近いと身体を巡る血が疼くのだ。忌ま忌ましいことに、近しい遺伝子を持つとこういうことも起こるらしい。
 足音を立てずに背後に立つ。やけに古めかしい、しかししっかり磨きこまれたリボルバーで、まっすぐ頭蓋に狙いを定める。小さく「Amen」と呟き、引き金を絞る。
 轟音とともに連続して放たれた弾は、直線並びの弾痕を天井に穿つ。
 皐月は手に走る痺れに顔をしかめた。皐月の拳銃の銃身を大型拳銃の銃身が弾き、あらぬ方向に逸らされていた。差し出された銀のデザートイーグルが不気味に光る。
「ご挨拶だな、クソ神父」
 隈ができた不機嫌な顔でセスがぼそりと言った。
「いつになったら素直に死んでいただけるんですか」
 仏頂面にはあえて笑顔で返す。もう作り笑顔にも慣れた。口角が引きつるなんて醜い真似はしない。笑顔のまま、左手の中の封筒をセスの土気色の胸にたたきつける。
「貴方のところにも来ているのでしょう?」
 セスは尻ポケットから皺が寄った封筒を取り出してみせた。柄も印もないそっけない封書の表面にはセスの名が書いてある。だが親書であるにも関わらずセスは封を開けてもいない。そのまま地面に落とし、皐月の封筒とともに踏みにじる。
「使者から話は聞いている。貴様が相手とはな」
「これも主の采配。私は泣きたいくらい感激しています」
 皐月は大袈裟に目頭を押さえて見せるが、涙なんてこれっぽっちも出ていない。むしろ彼はこの数年間、一度たりとも涙を見せたことがない。なぜなら彼には泣く理由も必要もなかったからだ。
 セスが左手を眼前にかざす。土気色の手先が一瞬赤に染まったかと思うと爪が伸び、鋭利な五本の刃となる。
「いい機会だ。今ならうるさい親父も小娘もいない。ここらで白黒はっきりさせようぜ、神父サマ」
 血の色に濁った瞳が凶暴な光を宿した。瞳孔が細くなり、白目も赤く滲む。不死族の子は一度ぐいっと皐月に顔を近づけた。濁った二つの双眸が互いの姿を映す。髪の色も目の色も違うのにどことなく面差しが似ている。そこに様々なものを思い出して皐月の顔が歪む。
 弾かれるようにセスが後ろへ跳びすさり、二人の間合いが開いた。皐月は弾倉をスイングアウトさせ、銃口を天へと向ける。万有引力の法則に則り、空になった薬莢が足元にばら撒かれる。新しく薬室に弾を込め、右手には祝福儀礼が施された大型のナイフを握る。
「下衆が。その臭ぇ口で二度と神父と呼ぶな」
 ドスのきいた低い声に二つの銃声が重なった。


 打ち合わされた刃が悲鳴を上げる。皐月は辛うじて受け止めたものの、ただの人間が吸血鬼の膂力に敵うはずもなく、少しずつ押されていく。祝福儀礼を施された銀のナイフは触れるだけで妖異の身体を蝕み、真の死へと押しやるはずだった。だが現実はどうだろう。セスは長く伸ばした鋭利な爪を刃物のごとく扱い、皐月のナイフと立ち回っている。直接触れているにも関わらず、涼しい顔で爪を薙ぐ。
 神を信じない者が、神の祝福を得られるはずがない。皐月自身、イヤというほどに知っていた。
 実に不幸なことに皐月はただの人間だった。ごく普通の家庭に生まれ、ごく普通に育てられた。頭脳も成績も人並みで、劣るところもなければ突出することもなく、人ごみの中に入れば簡単に埋もれてしまうほどだった。平凡な人生を厭う彼は教会の門を叩き、修行を積み、秘儀を授かった。世界の闇を知り、夜は人外の生物が闊歩していることを知り、彼らを浄化する術を知った。普通に市井で生きれば知ることのなかった世界を知った。なのに、それでも本人はまったく普通の人間であった。しかも腹に一物あるがゆえに契約儀礼すら満足に履行できない。誰から見ても凡百な弱い葦にすぎない、そんな自分が憎らしく、毎夜恨み言を吐いたこともあった。
 そう、自分は人間だ。ささやかに己の幸せを願うだけの人間。身体の一部を変形させるなどという荒業はできない。常軌を逸した馬鹿力もない。首を縊れば簡単に死ぬし、失った身体を再生などもってのほか。
 目の前の男が本気でないことは承知だった。まだ若い部類に入るとは言え、吸血鬼が本気になれば皐月など瞬殺だ。人の目で捉えられない速さで腕を振る。それだけでいい。
 皐月は自分の首が飛ぶ姿を想像し、戦慄した。迫る紅い瞳に映る自分の顔が血に濡れているように見えた。ナイフで持ちこたえるにも限界がある。鋭い爪先が鼻を掠める。
 人の規格から外れた化物の相手をできるのは、化物だけだ。

 ――化物。

 ぐらりと視界がぶれた。

 人ではない。
 化物なんだ。
 人型をしている。
 けれど。
 顔が似ている。
 だけど。
 同じ血が流れている。
 そんなことはもうどうでもいい。

 こいつがいるから、俺は。
 
 皐月の中で理性という名の箍が外れた。


 青年がナイフを手放して身体を捻る。不意の動きにバランスを崩して爪が滑り、黒衣の肩を裂いた。青年の顔とセスの手に紅い血がはねた。銃を持つ手で皐月の身体を押し飛ばし、その反動で自らも後ろに下がる。どうにか青年の胸に倒れこむという失態だけは避けた。
 よろめいた皐月の手から銃が零れ落ちるのが見えた。否。あれはナイフと同じく、自ら手放したのだ。二の撃に移ろうと引き金に指を置いていたセスは、銃口を向けたまま動きを止める。あの男が丸腰で何ができるのか、何をしようとしているのか。いぶかしんで様子を見守る。
 肩口を抑えた皐月が黒衣の懐から本を取り出した。革装丁の分厚い本だ。革はそれほど古い物ではなさそうだが背に瘤のような突起が並んでおり、はるか昔の方法で製本されているようだ。皐月は血のついた指先で表紙の文字をなぞり、人差指を立てた。
「炎の奇跡を」
 指先に赤い火が点る。ささやかな炎は煤けた皐月の頬を橙に染める。ゆらりとそれが揺れた。本のページが勝手に開き、風もないのにぱらぱらと繰られていく。曼荼羅のごとく鮮やかに彩られた小口が不思議な文様を浮き上がらせる。皐月は本を高々とかざした。とっくに紙葉は尽きているはずなのに、幾度も幾度も同じ文言を繰り返すかのごとくめくられていく。
 セスの目は暗い中でも良く見通す。その気になれば月のない夜に百メートル先の人間を追跡するのも不可能ではない。人には見えないものを見る。化物の証の一つだ。赤い光が表紙の文字を読み、そこに自分と同じ名を見て取った。
『セス・ビショップ抜書 写本』
 寒気も怖気もとうに忘れたはずの身体がぞくりと震えた。己の名に愛着があるわけではなかったが、この時ばかりは同じ名であるのを呪うくらいおぞましさを感じた。
 そして、朗々と皐月が読誦を始める。明らかに人が作ったものではない複雑な言葉を人の声帯で発しようとするのは無理がある。皐月の声は歪み、震え、不細工に顔が曲がる。いつの間にか右目の片眼鏡がなくなっていた。
「――――」
 すでに失ったはずの生命としての本質――本能がそれを止めよと警鐘を鳴らす。頭を揺さぶる激しい眩暈に襲われる。逃げろ、と震える脳髄が電気信号を全神経に叩きつける。皐月の読誦とあいまって不協和音を生み、セスの身体とあるのかどうかも怪しい魂を引き裂かんとしている。
 生まれて初めて『死にたくない』と思った。
 人ではない新たな生を受ける前、一度目の死の時すらそんなことは思わなかった。あの時は死ぬならばそれでもいいと半ば諦めの境地に至り、素直に受け入れていた。しかし今は全身全霊で死を拒否している。人知を超えた存在の一端に触れようとしている今、何よりもセスは生き残りたいと切に思っている。そんな自分に驚く暇もないくらい身体の中を生への切なる思いが荒れ狂っている。
 今、止めないと大変なことになる。もはや勝負だとかそんなものはどうでもいい。二人の許容を超えた時点で無効試合になっているのだ。
「出でよ遠き神々、我が敵を滅せよ!」
 歪んだ顔が歪んだ笑みを浮かべている。詠唱に酔い、身体を甘く痺れさせる異なる神の気配を感じて歓喜に震えている。もっとも、それを甘い悦びと感じるのは皐月だけ。セスは堪えようがない悪寒に苛まれている。
 皐月の瞳孔は開ききっていた。ここではない星辰の彼方を見つめ、完全に心は埒外へと飛んでしまっている。
「狂ってやがる」
 たかだか百年も生きていない若造の吸血鬼相手に、皐月は計り知れない存在を喚び出そうとしている。セスを滅ぼすために全てを投げ打ち、あまつさえ世界をも敵に回した。
「ふぉまるはうと――
 詠唱の中を乾いた音が貫いた。滔々と響き渡る声が消えると途端に静かになった。指先の炎が消え、本はぱたりと最後のページを開いて止まった。瞳孔が開いたままの皐月は緩慢な動きで自分の喉に手をやる。指がねっとりと赤黒い液体を掬った。ごぼりと低く水が溢れる音がして、ゆっくりと前のめりに倒れていく。手を離れた本を喉の下に敷いて、ぴくりとも動かなくなった。ラテン文字に赤い色が滲む。それで終わりとなるはずだった。
 地下世界はなぜかいつも一定に温度が保たれていた。暑すぎず、むしろ涼しいくらいだ。それが機械にとっていい温度であることは、元情報屋のセスにも承知のことだった。この世界の管理人は機械にとても優しい。
 それが、急に周囲の温度が上がった。真夏の炎天下にいるような、じわりと焼かれる暑さだ。セスは空調が壊れでもしたのかと排気口がある天井を見上げた。
 そこに懐かしさすら覚える空があった。
 幾何学的な空間がぽっかりと口を開けている。天井は割れることもなくそのままで、スクリーンに映し出したかのように歪な四角の黒い空がセスを見下ろしていた。無数の星が瞬く闇の宇宙空間。呆気に取られて見ていると白い星がひとつ、赤く染まった。セスの瞳に似て非なる色の真っ赤な星だ。赤い星はまたひとつ、ふたつ、みっつと増え、気付けば空に浮かぶ何千という小さな光の点は赤色に燃えていた。目の錯覚かと二、三度瞬きをして再び見上げる。その光点ひとつひとつが確かに大きくなっていた。
「まずい」
 悪寒が止まらない。最悪だ。あの欲深で脆弱で矮小な神父もどきは、詠唱が不完全ながらも喚び出してしまったのだ。
 銃を捨て、すっかり汚れた白シャツの胸ポケットからグラスモニタと小型のチップを取り出した。後頭部に手を回して白とも銀ともつかない髪を掻き分けて探る。首の上に短い裂け目を見つけ、チップを押し込んだ。傷ではない。人工的に作られたスリットだ。
 グラスモニタをかけるとブン、と低い駆動音と共にシステムが動き出す。オペレーションシステムの正常起動を告げるメッセージを即座に閉じ、セスは脳裏にブロックパズルのイメージを描いた。たちまちのうちにモニタの内側に文字が溢れ出す。データベースにストックされているデータを切り出し、繋げ、テストする。それを人では知覚できない速度で繰り返す。わずか数秒で演算速度を限界まで上げた。ちりちりとこめかみが熱い。網膜の奥の血管が膨らんで痛い。脳神経はすでに許容量をオーバーし、焼き切れそうだ。それでもバラバラのプログラムを組み立ててひとつの大きなプログラムに構築していく。モニタに映し出されるのは文字の羅列だが、セスの脳裏には一つの大きな円錐形ができあがりつつあった。
 ズボンのポケットから腕時計に酷似したリングを二つ出し、腕にはめた。同時に演算が完了する。滑らかな円錐がセスのイメージの中に佇立した。
 両腕を振り上げる。リングが空中に一筆書きで幾つかの図形――魔法陣を描き出す。だが、どれもこれも最後に輪を閉じると同時に弾けて消える。セスは歯噛みした。コンピュータで魔法理論を構築することはできる。だが、彼は魔術師ではない。構築はできても行使する力を持たない。
 熱が上がる。ぽつぽつと幾つかの星の全容が肉眼でも見えるほどまでになった。無数の腕を広げる怪異。それは想像の枠を超えたおそろしくも巨大な炎の塊だった。どこかふわふわとしているのは格となる実体がないからかもしれない。息を呑む。時間が無い。
 コミュニティの中に駆けて戻る。コミュニティと呼ばれてはいるが、実体は素っ気無いシェルターのような物だった。人間大のカプセルが安置された部屋と、最低限人が人として生きていけるような設備を整えた部屋だけで構成されている。決して広くはないその中を大股で歩きながら、乱暴に扉を開けつつ一つ一つ部屋を確認していく。
 無人であるのはわかっていた。同じコミュニティで寝起きしている人間たちも、今の時間は外に出ていた。それでも誰か残っていないかと一縷の望みに賭ける。彼にしては珍しいほどに感情を剥き出しにして焦っていた。それこそ加減を忘れてしまい、力が強すぎてノブを引きちぎってしまう。ひとつ舌打ちしてノブを捨て、扉を蹴り開けた。
 台所に相当するであろう部屋の中は静かだった。一瞬目の前にあった影に声をかけようとして、肩の力が抜けた。物を言わぬ雑多な品々が訪問者を迎える。セスが咄嗟に人と勘違いした影は小振りな食器棚だった。己の愚かさに腹が立ち、食器棚を蹴り倒す。ガラス戸が割れて白い食器の破片がともに散乱する。整理整頓はされているがいかんせん物が多すぎる。ここを根城にしていた少女は掃除は得意だったものの、貧乏性で物を捨てられない性格だった。
 倒れた棚の向こうに奇妙な物を見つけた。扉が開いたままの冷蔵庫だ。節約節約と口やかましい少女が冷蔵庫の扉を開けっ放しにするはずがない。グラスモニタを外して目を凝らす。すると、白い冷蔵庫の扉の影からひょっこりと尻尾が覗いた。赤く豊かな毛の犬のような尾が右に倒れ、左に倒れとゆらゆら揺れている。
 セスはおもむろに近づくとそいつの首根っこをひっつかみ、自分の方を向かせた。
「貴様魔法が使えるな」
 それは獣ではなかった。女物の服装に身を包み、尻から尾を生やした青年が板チョコを頬張ったままセスを睨み返していた。まだ若い男だ。太い枠の眼鏡をかけた顔は整いすぎていて一瞬女かと見まがう。その顔が不機嫌に眉をひそめ、
「なんだよ、乱暴だなー」
 と緊張感のない声で抗議する。しかしその言葉を聞いたセスの形相が歪むのを見ると、ろくに噛んでいないチョコをそのまま嚥下してしまった。
「使えるのかと聞いている」
「君、モグリでしょ。天才魔法使いの僕を知らないの?」
 えっへんと張った胸は薄い。セスは無視してその眼鏡を毟り取り、自分のグラスモニタをかけさせた。モニタ越しに青年の目が泳いでいるのが見える。流れていく文字を目で追っている。
「何これ。呪文?」
「今すぐそいつを使え」
「えー、めんどくさいなー。これ、でっかいじーさん喚ぶやつでしょ。ここまで理論組み立てたなら自分でやりなよ」
 青年がグラスモニタを外そうと弦に手をかけた。
「いいから使え!」
 声を荒げ、外すなとモニタを青年の顔に押し付けた。青年は鼻を押さえながらぶつくさと文句を言う。言うばかりで何もしようとしない姿に業を煮やし、セスは彼が腕に抱えるお菓子を払い落とした。飴玉が、板ガムが、クッキーが散り、食物を必要としない男の足が踏みにじる。
「あー! 僕のお菓子ー!」
 鳥の首を絞めたようなヒステリックな叫びが耳をつんざく。子供じみた罵詈雑言がセスをなじるが、
「五月蝿い」
 構わずに青年の襟を掴み、吸血鬼特有の馬鹿力でコミュニティの外に引きずり出した。外ではすでに炎の化物が降り立ち、うろうろと辺りを歩き回っていた。そいつらは気まぐれに触手のようにぐねぐねと動く炎の鞭を振り上げ、触れた物は材質を問わず燃え上がった。それこそ鋼鉄の天井であっても。
 青年のグラスモニタの下の顔が呆然とそれを見ていた。
「ホンモノ見たのは初めてかも。かも」
 天井、否、宇宙を見上げると次々と飛来する炎塊の中に一際巨大な物が接近してくるのが見えた。まだまだ離れているのにも関わらずそれは辺りの空気を震わせる。二人は強烈な耳鳴りに見舞われて足が竦んだ。怖いもの知らずの青年も、自身が恐ろしい化物であるはずのセスも。
「早くしねぇと手遅れになる。貴様の大好きな菓子も二度と食えなくなるぞ」
「それは困るね」
 青年はセスの手を払い、耳を押さえながらもすっくと立った。背筋を伸ばすと尾も真っ直ぐに立つ。空気の震えとともに尾が小刻みに揺れる。
「それじゃやっちゃうよ。言っとくけど君のためじゃないからね。お菓子のためだからね。ね」
 しつこいくらいに念を押す青年の尻尾を力の限り握り、セスは早くしろと急き立てた。振り返った青年の目は肉食獣のそれだった。余計なことをすれば捕食する、と雄弁に語っている。しかし、そんなことにひるむセスではない。半分据わった眼で青年を睨みつける。彼もまた青年と同様、捕食者である。
 手を払い、青年は人の言葉ではない言葉を紡ぎ始める。セスが結ぼうとして消えた魔法陣が彼らを取り囲み、呪言に共鳴して光を増していく。
 そして膨大な光の向こうに白髪の――


 吸血鬼が戦慄し、神父が狂想した焦土が現出することはなかった。


 耳が痛くなりそうな静寂だけが残っていた。おびただしい量の血がそこかしこの地面に黒い染みを形作っている。そこに舞い降りたそれは、硝煙と血の臭いに眉をひそめた。
「随分と派手にやりあったようだな」
 少女に見えた。長く豊かな灰髪に、宗教画に描かれそうなほど整った顔。胸が薄くか細い肢体は少年とも少女ともつかない。そして背には夜を写し取ったような漆黒の翼。
 翼を畳み、少女は血の跡を辿って瓦礫の中を進む。時折立ち止まっては辺りを見回し、眉をひそめ、再び歩き始める。探し物はそう容易には見つからない。何しろそれはもう動くことはないのだから。そう思い込んでいた。
 だから足元の黒い塊がごそりと動いた時は珍しくも取り乱し、悲鳴すら上げそうになった。
「貴様はゴキブリか」
 返ってきたのは掠れた鈍い呻きだ。
「こんなに敬謙な主の下僕のお迎えが堕天使とは」
「どこが敬謙か、このペテン師め」
 少女が見下ろした地面にボロ雑巾のような神父服が転がっていた。
「これだけやられて五体満足か。その喉も致命傷ではない。随分と悪運だけは強いようだな」
 背の翼が微かに淡い光を帯び、ゆっくり大きく羽ばたいた。黒い羽根が抜け落ちて皐月の身体に舞い降りる。落ちた羽根は雪のように解けて消えた。
「少しは懲りたらどうだ」
「嫌です」
 全身ずたずたで起き上がることすらできないのに、その一言だけはやけに明瞭な声だった。
「あなたこそいい加減私に構うのやめたらいかがですか」
「堕天した遣いの治療では身が汚れる、とでも言いたいのか?」
 皐月は無理矢理首を動かしてそっぽを向く。
「嘘をつく元気もないなら大人しくしておけ。何、私の気まぐれだ。他意は無い」
 羽毛は柔らかに皐月の顔を覆う。頬も、口も、鼻も、目も。少女の透き通るような笑みが黒に塗りつぶされた。

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