第1話

(どうして? どうしてお父さんじゃないの?)
 カーテンの裏側で膝を抱え、零は必死に考えていた。ぐるぐると頭の中を血が巡り、どうにか納得のいく答えをみつけようとするものの、混乱ばかりが増してますますわからなくなる。
(なんでなんで知らない男の人がいるの!?)
 叫びたいけど悲鳴をあげたらそのまま卒倒してしまいそうな気がする。ここで気を失ったらそれこそ何をされるかわからない。父親はいつも「男はみんな狼なんだ」とクソ真面目な顔で零を諭す。半径一メートル以内には近寄らないように、と幼い頃から教えられてきた。普通の環境で普通に育った少女ならば、ある程度の年頃にはそれはおかしいと気付いて親に反抗していくものだが、零はいささか真面目過ぎた。高校三年生のこの歳まで父の教えを盲目的に守り通してきたのだ。
(助けてよお父さん!)
 思っても口に出さなければ届くはずもなく、しかも庇護してくれる父親はここにいなかった。だからこそ窓辺のカーテンに包まりながら身を守るべく縮こまっているわけだが。
「あのさ」
 と声が聞こえた。零の身体がびくりと強張る。
「顔くらい出してくれないかな。こっちの顔見るなり隠れちまったら話もできねぇよ」
 困ったような青年の声が、ホールとも呼べないような狭い玄関を抜け、零のもとまで届く。すぐそばにいるように聞こえる。1LDKはやはり狭い。逃げ場所もなければ隠れる場所もない。
「蒼凪零ってお前のことなんだろ。封筒受け取ってんだよな」
 零は言葉を返さない。代わりにぎゅっと右手の封筒を握り締めた。その中には零ともう一人の名前が書いてある。
「勝手に押しかけたことは謝るよ。お前の親父が、娘は家にいるって言ってたから来たんだけど、来る前に連絡くらいすりゃ良かったんだよな」
(ああ、もう、お父さんのバカ――!)
 どこかに行ってしまった父親に悪態をつく。ほんの少しだけ胸が痛んだが、この状況は誰かのせいにしなければ耐えられない。
 零宛に書留で封書が届いたのはつい今朝のことだった。父親も全く同じものを受け取っていたが、見るなり顔色を変え、そそくさと身支度を整えて出掛けてしまった。どこに行くとも何をするとも告げず、ただ一言、「おとなしく待っていなさい」と言い残して。
 そして零が封書を開いて中を確認したのがついさっきだ。突飛な内容に混乱するばかりで状況も何も理解できていないのに、1LDKのチャイムが鳴ったのがさらにその半時間後。
 ごくごく普通の女子高生が咄嗟の事態に対処できるはずもない。てっきり父親が帰ってきたものと思い、玄関の扉を開け――赤毛の青年の姿に悲鳴をあげて逃げた。
 ぎゅっと目をつぶる。今の零はただの小娘だ。家の中だから武器の類はもちろん、携帯電話も身につけていない。助けを呼びたくてもここから動けない。
 一瞬しか見ていないけど、人の悪そうな男ではなかった。屈託のない笑顔は人見知りなんて言葉からは無縁で、頼りになりそうな感じだ。しっかりした体格で、痩せぎすの父親とは全く反対のタイプといえる。つまり、零の身近にはそういない類の人間だ。だからこそ未知で恐いのだけれど。
(悪いことしちゃったかな)
 怯える心の片隅でそっと呟いた。顔もろくに合わせずいきなり逃げられ、気分を害しない人間なんているものか。
(お父さんも知ってるみたいだし、大丈夫、かな)
 ほんの少しだけ、膝を抱えた手が緩んだ。
「顔赤いけど熱でもあんのか?」
 すぐ耳元で声がした。
 顔を上げた目の前に、深い紅玉の瞳があった。赤い色が迫ってきて、視界いっぱいに広がって、こつんと額に硬いものが当たった。
 それが青年の額だと気付く前に零は意識を失った。

[←前へ] [目次] [次へ→]