普通のOL羽住あきらの一日
〜恋する妹はせつなくてお兄ちゃんを想うとすぐ××しちゃうの〜

//夜

PM 0:00

 社員食堂の片隅で、おいしくおいしくご飯を頂いている時だった。
「モテモテのお兄ちゃんがいると妹は大変だね」
「……は?」
 唐突な言葉に思わず箸から竜田揚げを落とす。転げ落ちたそれを慌てて拾って皿に戻した。キャベツの千切りの山頂で、竜田揚げは偉そうに見えた。
 向かい側の席に座っているのは同じ秘書課勤務の玲子。同期ということもあって、こうやって一緒に昼食を食べるほどの仲。今時のOLらしく会社への愚痴をこぼせば、退社後のショッピングの相談もする。入社して何年になるかはあえて伏せるけど、昔からの友達のように公私共に仲良くやっている。
 だけど、玲子にはこうして突拍子もないことを言い出すくせがあった。何年経ってもこれには慣れそうにない。
「まだ若いわ、見てくれはいいわ、社長だわ、性格……は、まあ、妥協できる方として、理想の男よね」
 フォークを振り振りそんなことを言った。
「誰が」
「あんたの愛しいお兄様よ」
 玲子の前にはサラダとガーリックトースト、そしてスープ。女性社員の要望で始まった、ヘルシーランチである。しっかり食べないと気が済まないわたしはAランチ。今日は竜田揚げ定食。
「お局さまから掃除のおばさんまで、女性社員全員の憧れの的だもんね」
「へぇ」
 既知の情報に気のない相槌を打つ。もっとも、気のないのはフリだけなんて口が裂けても誰にも言えない。
「玲子はお兄ちゃんの趣味じゃないから安心して」
「あんたのお兄様にゃ手は出さないわよ。まだ命が惜しいもの」
「命ってどういう意味よ」
 眼鏡越しに玲子を睨む。
「社長に手を出したら妹に殺されるってもっぱらの噂よ。社長を口説き落とそうとした女が何人か依願退職してるでしょ? あれ、ぜーんぶあんたの仕業ってことになってるから。知らなかった?」
「知らなかった」
 竜田揚げを齧りながら、やっぱり気のない言葉を返す。依願退職。それで済むならいいよね。
「知らないわけないでしょう。あんた、本当に何かしたのよね?」
「知らないってば」
 しつこく問い詰めてくる玲子から顔を背け、ご飯を食べる。もそもそした、水気の足りない白飯をおとなしく咀嚼する。
 社員食堂の定食はまずいというほどでもないけどおいしくもない。普通に外でご飯を食べるよりは安いというくらいの利点しかない。お弁当を作れば食費は安く済むし、栄養バランスも考えることができる。かわいいお弁当箱でお昼を食べるのも一興だとは思う。だけど。
 社長をやっている兄が毎日食べてくれるなら作ってもいいけど。出掛けに玄関でお弁当の包みを渡すなんて、想像すれば頬が緩んでしまうようなシチュエーションだ。でも現実には無理。毎日のようにどこかで昼食会に招かれる兄には弁当なんて不要な物だ。困った顔で、蓋も開けていない弁当箱を渡されても私が困る。
 もっとも、社員食堂のご飯だって、おいしいと自己暗示をかければ何とかおいしいと感じるから問題もない、と思う。
「あんたのお兄ちゃん、また年増に狙われてるよ」
「……は?」
 やっぱり玲子は唐突で、今度はつけあわせのナポリタンを落とた。茹ですぎて太くなったパスタが無様に皿の上に落下する。
「噂になってるよ。企画室長の荻野目夏海。知ってるでしょ? 先月から週一で新商品のプレゼンやってる女」
 忘れようもない。今朝の名刺の女だ。
 荻野目夏海は今年の春、商品企画開発室長に抜擢された三十のおばさんだ。キャリアウーマン風の外見で歳をごまかそうとしている哀れな女。どんなに若作りしたって、若さには勝てないのにね。それが滑稽で顔までしっかり覚えていた。
 しかも、プレゼンに必ず兄を引っ張り出す。押しが強いことが売りらしいけど、他から見ればただあがいているようにしか見えない。
「あの女、なーんかいけ好かないんだよね。こっちを見下してるしさ。自分以外の女社員はみんなクズだと思ってるみたい」
 玲子の文句はもっともで、これみよがしにヒールを鳴らして歩く姿には、好意どころか嫌悪感を覚える。
「あきら、私は別に社長のファンじゃないけどね、あの女にだけは取られたくないの。私が許す。思いっきり邪魔してやって」
「あのね」
 真剣な顔をする玲子に呆れ、大きく溜息をついてやった。
「そういうのはお兄ちゃんの自由でしょ。そりゃ、わたしだってあんな女はイヤだけど……お兄ちゃんがいいって言ったら従うしかないの。実妹なんてそんなもんだから」
「本当かしら」
「本当です」
 またそっぽを向くわたし。さっきまでほとんど埋まっていた食堂の席は、もう半分以上が空いていた。忙しい社員の皆様は昼食を早々に切り上げどこかへと去っていく。どこかでのんびりと休むのか。それとも休んでいられないくらい仕事が山積みなのか。
 わたしたちも、本当はこんな風にのんびりしていられない。昼休みが終わればまた、電話や訪問者の対応、資料作りといったデスクワークに追われる。特に今月末は海外企業との提携が決まるかどうかという大事な取引が予定されている。海外事業部もわたしたち秘書課も、かなりの多忙を極める。
 だからこんな大事な時期にこそ、年増には兄の邪魔をされたくないわけで。
 いつもと変わらない笑顔は秘書の義務。だからって、心の内も表面と同じと思わないように。


PM 1:00

 昼休みが終わった。
 慌しく仕事場に戻る人々がいなくなれば廊下は静かになる。またいつものように、山ほどのファイルを抱えて歩く人や、外回りに出る人が言葉少なに行き来する。あまりにも閑散とした様子に、入社した当時は学校じゃないんだからと苦笑したことがある。しかし、ドアを一つ開ければ中は電話と人の喧騒が飛び交う戦場だ。
 秘書課だって例外ではない。社長や専務の側について回るだけが仕事だけではなく、デスクワークだってたくさんある。世間一般では美人だけの華やかな職場というイメージがあるらしいけど、それは間違った認識。男性秘書だっているし、会社のトップに近い分、機密に触れることもする。
 男性秘書と言えば、我が秘書課にも一人だけいる。専務である嘉伸叔父様付きの松島さんがそうだ。ピシっとしたスーツと眼鏡が似合う、兄とはまた別のタイプの美形。できる男のオーラが漂い、初めて見た人は秘書とは思わないだろう。ただ、秘書課と自宅のドアを開ければ一変してしまう二重人格で、休み時間ともなれば五歳になる娘の写真を見てにまにま笑う子煩悩なパパ。
 その松島さんが今日は珍しく課内にいた。今日の午後から嘉伸叔父様は人間ドッグに入ることになっていて、彼が張りついている必要がなくなったからだ。
 まあ、珍しいとは言っても、当たり前と言えば当たり前のこと。
 ただ、昼休みから戻ってきた松島さんは全く当たり前でない行動を取った。
「羽住さん、これ」
 そう言って彼がわたしのデスクに置いていったのは小さく折り畳んだメモだった。用事を済ませると、そそくさと自分のデスクに戻って行く松島さん。何ですか、と目線を送ってもすぐに逸らす。子煩悩パパのよそよそしい態度が何だか気に食わない。
 キーボードとデスクの間に挟まれたメモを広げた。社名が入った真っ白な四角い紙。そこに几帳面な字で、
『今夜六時、一緒にお食事でもいかがですか』
「松島さん!?」
 だん、と掌を叩きつけた机上でキーボードとペンとファイルが踊った。
「……あきら?」
 声が返ってきたのは隣からだった。資料のチェックをしていた玲子がこっちを見ている。玲子だけじゃない。課内中からわたしに集まる視線。
「あー……すみませんでした。お仕事続けてください」
 そして、一言で元の業務に戻って行く。ただ玲子だけが、
「どうしたの。あんたらしくないよ」
 と、わたしの脇腹をつついた。本当にわたしらくない。こんな紙切れ一枚で動揺するなんて。
「松島さん」
 こそこそとモニタの陰に顔を隠す松島さんの襟首を引っつかむ。
「ちょっと来てください」
 にっこりと微笑みかけ、隣の給湯室まで連行する。
「これ、どういうことですか。奥さんも子供もいるのに、どうしてこういうことするんですか」
「何を勘違いしてるんだ? それは私じゃないよ。廊下で渡されたんだ。名前、書いてあるだろう」
 言われてもう一度紙を読み返した。几帳面な一文に続いて署名がある。
「館脇さん、ですか」
「そう。私の知人です。経理部で、その文字通りの几帳面さを発揮しているんだ」
「はあ、その館脇さんがなぜわたしに」
「私も言いました。羽住さんは仕事と社長で精一杯だから無理じゃないですか、ってね」
 眉間に皺を寄せ、メモを睨む。男性が女性を誘うときはそれなりの覚悟を決めている、と兄から教わった。それは清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、もっと現代的に言えば当たると信じて穴馬を買った時の気持ち。背筋を伸ばして、お願いしますと腰から九十度に曲げる。決して土下座はしないけど、場合によっては土下座する。以上、兄からの教えをそのまま引用。
 つまりは、人に誘われたら無下には断るなということらしい。しかし、生まれてこの方二十数年、男性からの誘いはそれなりにあったけど、一人を思うあまりに全てを断ってきた。社内でもとっくに鉄壁の女という嬉しくない称号をもらった。そんなわたしに誘いをかけるなんて、入社したての新人か、命知らずの阿呆か。
「彼に興味ある?」
 ない、と言ったら嘘になる。どんな厚顔無恥な男なのか、顔くらいは見てみたい。
「でも、こんなの困ります」
「だろうねぇ。それにメールアドレスも書いてあるから返事だけでもしてやって。真面目な奴だから、返事ない限りはずっと待ってると思うよ」
 それはそれで困る。頭痛の種をもう一つ増やした松島さんは、
「それじゃ、頑張ってね」
 ひらひらと手を振りながら戻っていった。給湯室に一人残されたわたしはメモを片手に途方に暮れる。あんなことを言われたらこのまま捨てるわけにもいかないし、かと言って返事を出したくはない。
「あきら様」
 突然影がわたしにささやいた。
「荻野目夏海についてご報告が」
 わたしはやかんに水を汲み、火にかけた。それとなく周りを探る。大丈夫、誰もいない。誰かが来る気配もない。
「いいわ。話して」
「は。荻野目夏海、三十六歳。出身は某私立女子大。十二年前に入社し、営業部に配属、三年前にマーケティング部門に配属。そしてこの春、商品企画開発室長に抜擢されました。営業部時代の営業成績はそこそこですが、目を引く派手な仕事振りが評価されたものと思われます。人脈も広く、特に同期入社の人事の小野課長とは飲み仲間だそうです。簡単ですが、社内に関しては以上です」
「他には?」
「荻野目夏海のプライベートの方で、少し面白いことがわかりました。三十の時に一度結婚し、半年経たずに離婚しています。理由は相手の浮気ということになっていますが、当時荻野目夏海にも愛人の噂がありました。しかも、相手は当時我が社でアルバイトをしていたメッセンジャーボーイだそうです。また、離婚以降、彼女は年下との関係がたびたび噂されています」
 年下趣味の年増のおばさん、というわけだ。
「それと」と、八雲が口篭もった。彼にしては珍しい。「少々言いにくいことなのですが」
「何よ」
「恭一様が今夜、荻野目夏海から食事を誘われております」
「何ですって? お兄ちゃんはどうしたの?」
「幸か不幸か、今夜のスケジュールは空いておりましたので、恭一様は承諾されました」
「あんた、妨害しなかったの?」
 影を睨み付けようと視線を後ろにやるが、そこには誰もいない。声だけがどこからか届いてくる。いつものことだ。
「しました。恭一様に近付けぬよう、罠を仕掛けていたのですが……午前の会議終了後、恭一様自らあの女に近付きまして……」
「お兄ちゃんのバカ! そんなやつ断ってよ!」
「せ、拙者に言われましても……」
「八雲、調査はもういいわ。徹底的に妨害して。あの女を潰して。今夜はわたしも行くわ」
「あきら様! あきら様の手を煩わせることはありません。ここは拙者が……」
「い・く・の」
「……は」
 影の気配が消えた。しゅんしゅんと湯気を上げるやかんの火を止め、課内にいる人数分のお茶を入れる。銀色の盆に湯呑を載せると、何事もなかったかのように給湯室から出て行った。


PM 2:00

「羽住さん、これコピー取ってくれ。その後、これを社長室に持って行ってくれないか」
と、松島さんから渡されたのは数冊の分厚いファイル。抱えてみるとちょっとした重さで、思わずよろけてしまった。
「全部ですか?」
「全部。と言いたいところだけど、必要なところにだけ付箋貼ってあるから。それをまとめて新しくファイリングして社長のところに」
 追加で新しいファイルを上に重ねられた。
「この前から専務が悩んでいる案件なんだ。急ぎではないんだけど、できれば今日中に頼むよ」
「はい、わかりました」
 お茶汲みコピーにお遣い。こういう地味なお仕事は、秘書課で一番若造なわたしに回ってくる。普通の新人OLは雑用なんて嫌がるらしいけどわたしは嫌いじゃない。むしろ、好きかもしれない。特にこんなお遣いは。
 必要なところだけさっさとコピー取っちゃうと、みんなが忙しく働く秘書課を抜け出した。
 こっそりとお向かいの社長室前の秘書室を覗いてみれば、ものすごい勢いで社長宛の手紙を整理している人がいた。言わずと知れた小向さんだ。
 小向さんはお局様とか陰口を叩かれるような人だけど、かなり仕事ができる。その上、歳の割には見た目が若い。
 少し前、偶然見つけた履歴書をこっそり見たことがある。びっちりと書きこまれた履歴書には、そうそうたる学歴が並んでいた。社長秘書なんてやってるのがもったいないような人材である。
 わたしたちが午前に開封して持ってきた手紙の束はちょっとした量がある。それを出して広げたかと思うと一瞬でボックスにポン。あれで全文読んでいるらしいから、事務処理能力は並じゃない。
 そっと扉を閉め、ひとつ咳払い。背筋を伸ばし、右手を持ち上げる。
「どうぞ」
 中から入室を許可する声。ノックしかけた右拳が所在ない。どうやらスーパー秘書の小向さんにはお見通しだったようだ。
「失礼します」
 社長室前の机に陣取る小向さんにファイルを渡した。あれほどあった手紙はもうほとんど仕分けが終わっている。大半が社長宛のダイレクトメールだった模様。足元の屑篭が派手な紙屑でてんこもりになっていた。
 小向さんはちょっと目を通すと、
「社長に直接渡してもらえないかしら。午後に行くはずだった取引先、一社キャンセルになったから中にいるわ」
 ファイルが返ってくる。その時ちょっとだけ微笑みかけてくれたのは、小向さん流の優しさだったのかもしれない。
 小向さんのデスクを越え、その奥にあるドアをノック。重い音が響く。さすがに分厚い一枚板の扉は音が違う。
「失礼します」
 社長室は広い。自宅の部屋よりも広い。絨毯張りの床に高い天井。かつてはここに豪奢なシャンデリアがぶら下がっていたらしいけど、先代社長の命令で取り外されてしまった。いくら大企業の社長でもそんな贅沢はいらない、と。先代社長こと父は決して奢ることのない人間だった。どんな地位にいても人は人。贅沢に慣れてしまっては堕落すると己を厳しく戒めていた。
 壁の一面が大きなガラス窓になっている。その向こうに見えるのは高層ビル群。ジュラルミン張りのビルも見えれば、逆円錐型の変わった形のビルも見える。天気が良ければ富士山も見えるとは兄の言。一方、遥か地上では人と車と電車が行き交い、忙しく日常を送っている。
 ガラスの前にでんと置かれた机に兄がいた。普段はかけない眼鏡をかけ、ボールペンを片手に書類と向き合っている。クリップで止められた紙束は契約書類なのだろうか。眉間にしわを寄せた難しい顔で睨んでいた。兄は大きな椅子に寄りかかる暇もなく、今日も社長の仕事に励んでいる。
「社長、専務の案件を持ってきたんですが」
「そこに置いといて」
 わたしのほうを見もせずに言った。デスクに山となった紙束に埋もれるようにパソコンのモニタがある。立ち上がっているメーラーは画面一杯に新着メールの件名を表示していた。小向さんがあらかじめ選抜しているはずなのに、ものすごい件数を受信している。
 わたしはファイルを置くと、「お兄ちゃん?」と声をかけた。
「お兄ちゃんじゃないだろう。今は俺が雇い主でお前はただの社員だ」
 紙をめくる兄の横顔。細い銀縁の眼鏡の奥に、やや疲労の色が見える。
「でも、ずーっと社長やってたら疲れちゃうよ」
「疲れたら休むさ」
「じゃあ、今休もうよ。今が一番眠くなる時間でしょう? 少し休んだ方が能率上がるよ」
「茶」
 提案の返答にしては奇妙な一言だった。
「ん?」
「茶ぁ入れてこい。そしたら少しだけお兄ちゃんに戻ってやるから」
 紙束の最後に大きな社長印を押すと、眼鏡を外した。既決と書かれたボックスに紙束を放り込む。椅子にもたれて背筋を伸ばす。それが休憩の合図だ。
 わたしはうきうきとお茶を入れる。部屋の片隅には茶棚とポットが置かれていて、社長がいつでも好きに飲めるようになっている。もちろんコーヒー紅茶緑茶という定番から、ココアや粉末レモネードも用意してある。その中から迷わず兄の好きな煎茶を選んだ。そこにこっそりと持ってきた一口最中を添える。
「はい、どうぞ」
 机上の紙束をわけ、無理矢理つくったスペースに茶碗を置く。そしてすかさず正面から抱きついた。首にしっかりしがみつくと、少し乱れた襟足から煙草の香りがした。
 大きな社長椅子は二人乗っても軋む音ひとつあげなかった。兄はわたしの背に大きな手を回す。よしよし、と子供をあやすように二度、ぽんぽんと叩く。もう、社長の顔の兄はどこにもいない。
「お前の抱きつき癖はいつになっても直らないんだな。もう何歳だと思ってるんだ?」
「たまにはいいでしょ。昔を懐かしむことも大切だよ」
「昔ねぇ……」
 ふと、兄の瞳が郷愁に緩んだ。
「小さい頃は、いじめられるとすぐに俺のところに来て抱きついていたよな」
「やだ、憶えてるの?」
「憶えてるさ。ベソかいてるのに文句や悪口は絶対言わないのがお前だったよ」
「お兄ちゃんだって理由聞こうとしなかったよね」
「そりゃ、ね。可愛い妹がいじめられたなんて聞いたら仕返ししたくなるからだよ。だけど、それじゃお前のためにならないからな。八雲にも仕返し禁止って親父が命令してたんだ」
「おかげさまで、あきらはここまで強くなりました」
 兄の膝の上でぺこりと頭を下げる。そう、なまじっか兄が手を出していたならば、わたしはここまでにならなかっただろう。昔のいじめられっこのまま、兄に庇われて生きていただろう。本当に兄と父には感謝している。
「でもな、もう二十五だろ? いい加減兄離れしろよ」
 唐突に年齢の話を持ち出すのは兄の悪い癖だと思う。
「お兄ちゃんこそ、三十路突破したんだからさっさと結婚しなよ」
 口を尖らせて反論する。結婚適齢期ど真ん中の兄にそんな話はされたくない。冗談めかして言うけれど、兄の結婚なんて考えたくない。
 思い出すのは嘉伸叔父様から届けられた何枚ものお見合い写真。上品な和服美人が微笑みかける写真ばかりだった。添えられた経歴も見事なもので、どこぞの社長令嬢から博士号持ちの帰国子女まで選り取りみどりだった。このデスク上にも一枚くらい埋もれているはずだ。
 しかし、兄の返答は呆気ないものだった。
「できないよ」
「どうして」
 驚いた。お世辞にも女性に対して真面目とは言いがたい兄だ。しようと思えばいつでもどこでも誰とでもできるはず。わたしという障害があったとしても、結局兄には逆らえない。兄が本気であればうなずくことしかできない。
 その兄が、まだ結婚を考えてもいないなんて。
「俺が結婚したらあのマンションにはお前一人になっちまうだろ? 俺の代わりに一緒に住んでくれる奴が見つかるまで、あそこに住んでいてやるよ。何より、お前の花嫁姿を見届けなきゃいけないからな」
 兄は優しい瞳でわたしを見つめる。羽住商事社長、羽住恭一ではない。わたしのたった一人の兄、羽住恭一がそこにいた。
「お父さんの遺言だから?」
 おそるおそる聞いてみる。父は死の間際、兄と二人きりで話していた。男同士の約束にわたしのことが含まれていたと知ったのは、父の臨終から五年も経ってからだった。
「親父の遺言でもあるし、兄としても心配だから」
 男ができたらまず俺のところに連れて来いと兄が言った。視界が揺れた。兄の顔が歪んで見える。わたしは慌ててもう一度、兄の首に腕を回した。温かい水が溢れ、頬を伝う。
「どうした? 泣いてんのか?」
「泣いてなんかいないもん!」
 大きな手が髪を撫でる。せっかくセットしたのにくずれちゃうな、お兄ちゃんってそういうところ無頓着なんだから。そう思いながらもされるがままだった。兄と密着していると落ち着く。温もりと香りを感じる。
 心地よさに身を任せ、わたしは一時の幸せを感じていた。

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