普通のOL羽住あきらの一日
〜恋する妹はせつなくてお兄ちゃんを想うとすぐ××しちゃうの〜
朝/昼/夜
AM 6:30
朝には二種類ある。
来て欲しい朝と来て欲しくない朝。どちらかと言うと今朝は来てほしくない朝だった。
鳴り響く目覚まし。頭まで布団をかぶって、うるさい音を夢の中から閉め出そうと強く目をつぶった。止めるのが億劫で、止まるまでこうしてようかとも思った。
ああ、それでも。
のろのろと布団の間から手を伸ばし、目覚まし時計を叩く。脳みそが鉛に変わったかのように重い。昨夜の夜更かしがしっかりとたたっていた。
わたしは起きてしまう。
朝ご飯つくらなきゃ。会社に行かなきゃ。
二言呟いてクローゼットを開けた。ミントグリーンのシャツに、幾何学パターンのブルーのタイトスカート。ベージュのストッキングをベッドの上に投げ出した。
サボりたい自分はどうしても厳格な自分に負けてしまう。有給はたっぷり残っているんだし、一日くらい休んだっていいと思うのだけど、その度に心の奥底が「無駄遣い!」と叫んだ。
それでも顔を洗えば幾分すっきりとした。
洗面台の鏡の中のわたしはとてもひどい顔をしていた。目の下のくまが昨日以上に広がっている。額に隅にはニキビ。本当にひどい。鏡の中の表情がげんなりとした。これじゃいけない、と顔を引き締める。
今日は昨日以上に厚化粧か。
ストッキングに足を通しながらビタミン剤を噛み砕く。
着替え終わったらご飯の支度。
主食は真っ白ご飯、おみをつけはワカメと油揚げにする。卵焼きが形良くできると、今日一日うまくいきそうな気がする。昨日残ってしまった唐揚げをアレンジして食卓へ。
栄養バランスも彩りも完璧な食卓に満足してダイニングを出た。
自分の部屋の隣の部屋のドアを叩く。
「お兄ちゃーん」
返事なし。
予想していたこととは言え、溜息が出る。
「お兄ちゃん、起きて!」
ドアを開けるとそこには兄の身体がまぐろのように転がっていた。フローリングのはずの床が見えない。足の踏み場もないほどに散乱した本の山。わずかにできた隙間の中に、文字通り、転がっていた。ワイシャツ姿のまま、六法全書を枕に、脱いだ背広を抱きしめて。背広の間から「超強力!」という触れこみの目覚し時計が覗いていた。
昨日わたしが整えたベッドはそのままの姿を保っている。
そんな状態だというのに、兄の寝顔はおそろしく安らかだった。この人はいつでもどこでもぐっすり眠れてしまうのだろう。肝が据わっているんだか、ただ無神経なだけか。
そっと顔にかかる前髪をよける。乱れた前髪からの下から出てきた長いまつげが、目の下に影をつくる。うらやましいくらいきめが細かく、どちらかといえば白い肌。はだけた襟元からくっきりと浮き出た鎖骨が見えた。机に座っているのが似合いそうな、一見華奢な痩せた身体。だけどよく見れば、ほどよくついた筋肉が全身を引き締めているのがわかる。
にわかに心拍数が上がる。うるさいほどの心臓の音と、紅潮していく頬。
だめだめ。今は起こすのが先。
頭を振り、余計な考えを振り払う。これでいつもの自分かな、と本棚の上の鏡を覗く。顔は赤いままだった。なかなか元に戻らない。
もう、起きない兄が悪いのだ。
「お兄ちゃん!」
やむなく、キルケゴールの『死に至る病』と乙葉写真集を踏みつけて兄の身体を揺さぶった。
「起きなよ! また遅刻するよ!」
そこまでやって、
「ううー」
眉根を寄せて唸っただけ。丸めた背広を親の敵と握り締める。顔を近づけるとアルコールの匂いが鼻をついた。
もう、だらしないったらありゃしない。
「今日は会議あるんでしょ!!」
会議、という言葉に兄の目が開いた。むくりと上半身を起こす。その拍子に文庫本の山が崩れた。膝の上に『鬼平犯科帳』が転がり落ちる。
本の中であぐらをかいて、ぼさぼさの頭に手を入れた。
「あー……やっぱりイヤ。お前代わりに言って」
そしてまた本の山の中へ。
「お兄ちゃん!!」
寝起きの悪い身内なんて、本当に厄介なものだ。粗大ゴミの日に布団でくるんで出してしまいたいくらい。それでもがんばってしまう自分が、ちょっとだけいじらしいんだけど。
「もう、起きてってば!」
抱き込んでいる背広を引っ張る。
あっさりと兄の腕の中から逃れた背広はもうしわくちゃだった。おまけに、広げてみるとケチャップでもこぼしたのか、赤い染みがついている。クリーニング行き確定。
「また嘉伸叔父様に怒られるよ!」
この一言が効いた。
今度こそぱっちりと目を醒まし、兄は立ち上がった。首に巻きついたネクタイをほどきながら部屋を出る。振り返り、
「あー、シャワー浴びてくるから服出しといて」
常に眉間に皺を刻んだ叔父は、姿が見えなくても兄にとって充分な脅威。
叔父様、今朝もありがとう。同じ空の下のどこかにいる叔父に向かって手を合わせた。わたしは今日無事、兄を起こすことができました。
実際、叔父がこんな部屋と兄の姿を見たら何と言うだろう。考えるだけでもおそろしい。わたしと兄を支えてくれる、父以上に厳格な叔父。今日も兄を待っているはず。
そうだ、早く会社に行かないと。
時計を確認すると、もう時間が迫っていた。
掃除する気もなくなる部屋を後にして、わたしは兄の着替えをバスルームに持っていった。脱ぎ捨てられた服をまとめて洗濯籠に入れる。
ふと、手に持った背広に顔を埋めた。煙草の香りとお酒の香り。そこにほのかに混じる、兄の香り。
「ん?」
慣れない香りに顔をしかめる。兄が常に身にまとっている香りを打ち消すくらいの強烈な香り。少しだけスパイスが効いて甘ったるい。女物の香水であることはすぐわかった。
女遊びなんて、感心しないな。品の無い言葉を使えば、胸糞悪い。
背広の襟を片手で持ち、ポケットというポケットに手を突っ込んでいった。何でもいいから、昨夜の行動の手がかりになりそうなものが欲しい。
まったく、と昨夜のことを思い出す。
わたしの寝不足は誰のせいか。せっかく待っていたのに、人が寝てしまってからこそこそ帰ってくるんだもの。わたしの寝惚けた声では、何を聞いても答えてくれない。むしろ子供扱いして「早く寝ろ」なんて言う。しっかり千鳥足だった自分のことなんて棚に上げている。
内ポケットに手を入れたとき、指先に小さな紙が当たった。出してみると、知らないバーの紙マッチと、小さく畳んだ厚紙。
広げてみると名刺だった。小さな活字が並んでいる。しかも、肩書きは私の会社の商品企画開発室長。名前は荻野目夏海。電灯に透かして見ると、薄いインクで刷られた我が社のロゴが浮かび上がった。これは会社から支給される特別製の名刺で、平社員では持てない物だ。つまり管理職以上の証。本当に社内の人間のようだ。
透かした裏側は白紙じゃなかった。返すと、住所と携帯番号が走り書きされている。マンションの部屋番号の後に、いつでもどうぞ、と一言添えてあった。
「八雲」
「ここに」
音もなく、背後に現われる影の気配。
名刺を肩越しに投げる。
「この女の身辺を洗って。どんなに些細なことでもいいわ。できるだけ詳しくね」
「は」
そして影は音も立てずに消える。
「着替え、ここに置いておくからねー」
すりガラス越しに兄に声をかけ、わたしは背広を籠に投げ入れた。
AM 7:50
「あきらー、これ」
玄関で靴を選んでいると、兄がくい、とわたしに向かって顎を突き出した。
首からだらりとぶら下がっているのはブルーグレーの紐。太さの違う両端がゆらゆらと揺れていた。撤回。紐じゃなくてネクタイ。
「そのくらい自分でやりなよー」
「やだよ。俺、うまく結べないんだもん」
そう言ってまた顎を突き出す。
もう何年背広を着ているのだと言いたい。高校もブレザーだったし、社会人になって十年近く経つし、普通は結べるようになっているはず。
「いい加減覚えなよ」
「別にいいよ。あきらがずっと一緒にいれば問題ないだろう」
「ばっ……!」
さらりと言った兄。
「ばっかじゃないの!? 自分のことくらい自分でできるようになってよ。いざという時困るのはお兄ちゃんなんだからね!」
強く反論するけれど、耳まで真っ赤になっているのは鏡を見なくてもわかった。これが怒りによる紅潮だと思ってくれたらいいんだけど。
自分の言葉の重みがわかっているのかいないのか。
兄はそれでも私に顎を向けている。
「遅刻するんだろ? ほら、早く」
まったくこたえていないらしい。
軽くこめかみを揉んだ。手にした黒いパンプスを置く。
この兄にはいつも調子を崩される。いつも自分の世界に人を引きずり込んでしまう、マイペースな人。
「かがんで」
普通に立っていたら長身の兄の首には届かない。少しだけかがんでもらうと、いつもと同じようにネクタイを結ぶ。
固めていない、素のままの前髪が私の額に触れる。軽く伏せた切れ長の目がわたしの手の動きをを追う。やわらかなシャンプーの香りがふわりと二人を包んだ。
薄いブルーのシャツは糊がきいている。ぱりっとした真っ直ぐの襟を下ろし、ピンでネクタイを留めた。
ネクタイピンはわたしが初任給で買ったものだ。セットにしたネクタイともども、愛用してくれているのが嬉しい。
ようやく出勤の準備が整った頃には八時を回っていた。
エントランスを履いていた初老の管理人さんに挨拶して、返事を聞く間もなく、駆け抜ける。後方から「マンション内では静かに!」という怒鳴り声が聞こえた。
朝の天気を気にする余裕もなく、慌しく駅へと走る。せっかくセットした髪が乱れる。こんなに激しく走ってたらヒールも削れてしまう。心の底で泣きながらも、足を緩めることはない。
気分は運動会。いいタイムを出そうと焦って走るけれど、それがうまく結果に反映されない。わかっているけど、感情と理性はまた別物。
必死になっているわたしの横で、兄は涼しい顔をしている。コンパスが長い分、兄のほうが速い。
「待ってよー」
「待たない!」
なんていうありがちな言葉を交わしながらも、着実に駅へと近づいていた。
小さな駅の小さなホームに電車はもう入っていて、スーツ姿が大勢階段を駆け昇っていた。モノトーンの群れがごそごそ動く。鈍いながらも濁流は流れる。個々が塊となり、一つの目的へ向かう。まるで水牛大移動。
控えめに、でも大胆にその群れに混じる。出過ぎた主張は人々の不快を招き、最悪弾かれる。しかし、主張しなければこの黒い河に巻き込まれてあらぬ方向へと行ってしまう。
前に進もうとして、誰かの足を踏んでしまったような気がした。
兄はわたしの手を取り、はぐれないようにとしっかり引き寄せた。
息を切らして通勤快速に飛び乗る。背後で閉まるドア。発車を継げるベルが途切れ、人を満載した電車は緩慢に動き出した。
息をつく兄とわたし。
生暖かい車内。密着するより他のない人々。折り畳んだ新聞を読む男。文庫本のページをめくる女。
そんな人々を見ているうちに自分の仕事を思い出した。兄とドアの間で身じろぎして腕を動かせるだけのスペースを確保しようと奮闘する。ふと、兄が少しだけ後ろに下がり、余裕ができた。小さくありがとう、と言って革のバッグからPDAを取り出す。そんな小さな優しさがたまらなく嬉しくて笑みが漏れた。片腕をドアに突っ張っている兄も微笑み返してくれる。
片手で操作できるPDAを胸元まで持ち上げ、電源を入れた。立ち上がるとまず一つのウィンドウが表示され、タイムテーブルが示された。顔を引き締める。
わたしの仕事は出社前から始まっている。
「今日のスケジュールです。午前十時からは秋からの商品戦略についての会議です。新商品のプレゼンがあるので必ず出席してください。場所は第二会議室。出勤したらまず資料に目を通してください。午後は一時より新規店舗の視察。三時からは主要取引先を訪問することになっています。詳しくは社に着いてから小向さんに聞いてください」
読み上げて、兄に視線を戻す。肝心の兄はそっぽを向いて、吊り広告に目を走らせていた。
「ねえ、聞いてるの?」
「聞いてるよ」
うんざりとした言葉。
「出社したらおばちゃんにお伺い立てりゃいいんだろ」
たしかに、秘書の小向さんは結構なお歳の方だけど。
「……チクるよ」
「……ごめんなさい」
やがて電車は終着駅へと着いた。半地下のホームに滑り込み、空気が抜ける音がして扉が開く。それと同時に腹に詰め込んだ人間を吐き出した。
乗った時と同じように、人波に揉まれながら改札へと急ぐ。定期を出す手ももどかしい。
どうして人ってこんなにいるんだろう。
そんなくだらない問いかけを飲みこんで、今日もわたしと兄は出社する。
AM9:00
やはり叔父は待っていた。
エントランスホールのど真ん中に立ち、出社してくる社員たちと挨拶を交わしながらたった一人を待っていた。
大柄な体をモスグリーンの背広で包み、背筋をピンと伸ばして立っている。撫でつけた白髪混じりの頭は全く揺れることがない。
叔父から一歩斜め後ろに待機しているのは小向さん。バイブルサイズの分厚いシステム手帳を手に、こちらもやはり綺麗な姿勢。いつものようにまっすぐにエントランスゲートと相対している。
背後の大きな振り子時計が九時を告げた。
手にした懐中時計と兄を見比べ、叔父は相変わらずの気難しい顔でうなずく。
「結構ですな。毎日こうしていただけるとありがたいんですがね」
叔父の前で直立不動の兄。立場としては上司に当たるのに、どうしても頭が上がらない。
「恭一からきっちりしてもらわないと、社員にも示しがつきません。まさに、この羽住商事の顔なんですから。それに、何よりお前を任された身として、亡くなった兄に申し訳が立たない」
父が亡くなる前から、叔父はわたしたち兄妹を我が子のように可愛がってくれていた。時には厳しく、時には優しく、親身になってくれる。そんな叔父をわたしも兄も本当の父親のように慕っている。
けれど、こればかりは参ってしまう。
遅刻してもしなくても、叔父からのありがたい説教に変わりはない。これが聞きたくないばかりに、毎日がんばって早起きしている。わたしが。
がんばって兄を起こして、少しでも叔父の説教を回避しようとしているんだけど。
「平社員ならばいざ知らず、企業のトップに立っているという自覚はあるんですか。すべての責任を負い、すべてに指示を出す。それが仕事なんですぞ」
もう聞き飽きた話が続く。耳にたこ。じっとしていられず、兄がわずかに視線をそらした。
「人の話はきちんと聞きなさい!」
ホールに響く怒声。
思わずわたしと兄は首をすくめた。周囲の社員がぎょっとして振り向く。しかし、警備員と受付嬢は慣れたもので、笑顔も崩さずにいた。
「専務」
恐る恐る、といった様子で控えていた小向さんが叔父に声をかけた。
「今日は会議もありますので、それくらいになさったらいかがでしょうか」
これ見よがしに大時計に視線を向ける。それでも、自然で嫌味がないのはこの人の才能なのかもしれない。
叔父は、そうか、と我に返ったように言い、
「では、今日もよろしく頼みますよ。あきら、今日もご苦労だったね」
わたしには優しい笑顔を向ける。咳払いをひとつ残して、エレベーターホールの方へ去っていった。兄はこっそりと安堵の溜息。
「社長。お仕事です」
すっと兄の目の前に伸びる手。差し出された一枚の紙には、細かい文字でタイムテーブルが書かれていた。しかも分刻みのスケジュール。
一難去ってまた一難。
「早くお部屋に参りましょう。やることだけは山となってあるんですからね」
にっこりと微笑む姿は女神のよう。けれど、眼鏡の奥の瞳は笑っちゃいない。誰も小向さんにはかなわない。
「ほら、行きますよ」
すたすたと先を行く秘書に、兄は付き従うしかない。うなだれる兄の背がとてもとても小さく見える。こんなところ、ちょっと取引先の人には見せられない。
「お兄ちゃん、これ」
エレベーターに乗る直前、兄の手に一本の瓶を握らせる。
「今日もがんばってね」
「おうよ」
銀色の扉が閉まり、兄と小向さんが見えなくなった。箱は上昇していく。ノンストップで最上階まで。
これでわたしの朝の仕事は終わり。
兄に渡したものと同じドリンク剤の蓋を開けながら、隣のエレベーターに乗った。
昼へ→