世界が反転した日
(2)

 日が暮れてから帰ってきた息子を母親は叱ろうとしなかった。むしろ泣き出しそうな顔で出迎えた。
「もう、遅いから心配したのよ」
「ごめんなさい。児童会が延びちゃったの」
 嘘ではない。児童会が延びてしまったことは真実である。何となく男のことは言わないほうがいいような気がした。
「無事に帰ってきてくれたからいいわ。それよりご飯にしましょう。今日はハンバーグよ」
 ほんのりと家の中を流れるトマトソースと肉の香りが空腹をより刺激する。胃が収縮してきゅうと鳴った。給食袋とランドセルを放り投げて食堂へ走っていく。
「こら! ちゃんと部屋に持っていきなさい!」
 母親の雷が落ちても空きっ腹にはこたえていない。人参のグラッセをつまみ食いして食卓につく。口内にじんわり広がる甘さに、腹がより活発に動き出す。風呂から聞こえてくる父親の調子外れの歌声がBGM。
 これがユキヒロの日常。変わらない毎日。誰かに作られたものだとは思いたくもなかった。
 だって作られたものは壊せるから。
 砂場で作った砂の城。あれほど脆くて簡単に壊れるものはない。作るのは大変でも水で、足で、手で容易に破壊される。積み上げたものが崩される瞬間の物悲しさ。寂寞とした想い。
 でもこの家は砂の城じゃない。簡単には壊れない。必死で自分に言い聞かせる。
 ユキヒロは知っていた。
 男の言うことが真実であればこの家と日常はたやすく無くなってしまう。ユキヒロがたった一言でも男の言う真実を語れば砂の城となる。まだ幼いユキヒロでも失うことの怖さはひしひしと感じている。
 笑顔の下に怯えを隠し、ユキヒロは母親にハンバーグを催促した。呆れながらも母親は皿をテーブルに並べる。父親が風呂から上がってきた。ユキヒロの隣につき、ビールの缶を開けて美味しそうに飲む。母親の目を掠め、父親に頼んで少しだけ飲ませてもらったことがある。泡が苦くて飲めたものではなかった。大人はどうしてこんなまずいものを飲むのだろう。ユキヒロには苦い飲み物よりも甘い林檎ジュースのほうがいい。
 いつもと同じ、家族で囲む食卓。たまらなく温かい。頬張った手作りのハンバーグは母親の味がする。給食にもレストランにもない、この家だけの味だ。
 夕食が終わっても両親は食卓から離れず談笑している。話題はご近所さんのこと。隣家のポチが寝惚けて木の幹を齧っていただとか、お向かいの奥さんがお花の先生をしているだとか平和なことこの上ない。まさに絵に描いたような家族団欒の図。柔和な母親の笑みがプログラムされたものだなんて、紛い物だなんて思いたくもない。
 そう、テレビだ。今日は水曜日、アニメの日だ。
 ユキヒロは「ごちそうさま」を言って椅子を降り、テレビのある居間へと移動した。母親が食事中のテレビを嫌うので食堂にはない。引き戸を隔てて隣の居間に行かなければ観られない。
 先週はヒロインが敵にさらわれるところで終わっていた。今週は主人公たちがヒロインを救うために秘密基地に乗り込むのだろう。ストーリーは今までで一番の盛り上がりを見せ、クライマックスへと加速していっている。ユキヒロはヒロインが好きだった。長い黒髪と少し大人びたところがミサに似ているからだった。早くテレビをつけないと始まっちゃう。
 すりガラスの引き戸を開け敷居をまたぐ。少々乱暴な開け方に後方から母親の叱責が飛ぶ。
 一歩入って違和感を覚えた。ソファーがあり、テーブルがあり、大きいテレビがある。母親の趣味で暖色にまとめられ、父親の従兄弟が描いたとかいう油絵が飾られている。たしかに今朝と変わらない居間。それは飽くまでも見た目だけ。
 答えは簡単だった。
 匂いが違う。
 香水に似た甘ったるい香りが居間全体を包んでいる。お菓子のような甘さではない。知っている香りのような気もするが、知らない気もする。正体が掴めない。ささやかなものであれば気にしないが、むせかえるような匂いだ。耐えられずに口周りを手で覆う。
「お母さん、何これ」
「あら、どうしたの? テレビ観ないの?」
 母親は父親の湯呑にお茶を注ぎながら聞いた。父親も何事かと目を向ける。盛大に戸を開けたらその中に入るのが子供だ。だがユキヒロは足を踏み入れることもできずに入り口で立ち往生している。
「変な匂いする」
 鼻をつまみ眉をひそめて精一杯不快感を主張する。鼻が曲がるというのはまさにこのことだ。居間は匂いという見えない障壁に囲まれているかのようだ。ユキヒロは入室する気になれず、また居間そのものに入室を拒まれていた。
「変な匂い? おかしいわね」小首をかしげて母親は考える。「変な物は置いていないはずだけど」
「でも臭いよ」
 香りは少しずつ食堂へも侵入してきた。空気の縄が手足に、身体に絡み付く。
「もしかするとあれかしら」
 母親はユキヒロの横を通り抜け、平気な顔で居間へと入っていく。鬱陶しいくらいの香りの中を涼しい顔で歩いていく。両手で鼻を押さえ、呼吸すら苦しくなってきたユキヒロには到底できそうにない。母親はちょうどユキヒロからは死角になっている飾り棚のあたりから何かを持ってきた。
「ほら」
 一抱えもある花の束を持っていた。大ぶりの花びらは白くところどころに黒い斑点がある。花弁の中央からは大きなめしべが覗き、黄色い粉を撒き散らしていた。
「綺麗でしょう?」
 揺れるたびに気持ち悪いほど甘ったるい香りがユキヒロの鼻につく。
「お向かいの奥さんがこんなにたくさんくれたのよ。花瓶いっぱいの百合の花っていいわね。とてもいい香り」
 後ろで父親が綺麗な花だとか香りがいいだとかありきたりの感想を言っている。
「本当にいい香りだと思ってるの?」
「ええ。そうよ」
 百合に顔を寄せると母親の鼻先に黄色い粉がついた。うっとりとした表情は香りに酔っているかのようだ。家で最も大きい花瓶に収まった百合の花たちは無尽蔵に香りを振り撒いている。品種改良でもされているのか、優雅と言うよりは力強い。
 どうして平気なんだろう。
 疑問を抱いたユキヒロの脳裏に男の言葉がよぎった。
『ロボットは匂いがわからない』
 嘘だ。
 もっとよく花を見せようと母親が近づいてくる。無意識に身体があとじさる。
 嘘だ。
 頭を前後に揺さぶられ、目玉の奥を押されているかのような鈍痛。暑くもないのに汗が滲み出る。眩暈はすれどもまとわりつく香りは意識を失うことを許さない。さらわれかける意識は鼻腔を刺激する香りにより現実に引き戻される。百合の香りは更に開いた目の表面を撫でる。息苦しい。収縮した肺が酸素を求めるがうまくいかない。喉の奥が花粉で詰まってしまったのではないだろうか。
 嘘だ。
 これまでを、今までを全て否定する男との会話が思い起こされる。
 近寄ってくる母親が、お茶を飲んでいる父親が、急に異質な物へと変わっていく。元は命を持っていなかった物。人間でなく生物でもなくただの物でしかなかったモノ。共に生活していたはずの家族という小さな組織が瓦解していく。家は砂の城だった。
 自分以外は皆ロボット。人間ではない。ユキヒロにかける言葉も笑顔もプログラムされた機械的反応なのだ。
 嘘だ。
「ユキヒロ?」
 差し出された百合が眼前に広がる。花弁の奥は生命としての意地汚さが見える。
 手が花瓶を叩き落した。
 陶器が割れる鈍い音。水溜まりのその上に百合が散乱する。
「ユキヒロ!」
 母親の叫びは最後まで聞こえていない。気がつけば裸足のまま外へと飛び出していた。人間がいる場所を求め、作り物の家庭から逃げる。汚れるのも構わない。鋭い石に足が切れたことにも気付かずただがむしゃらに走った。周りなど見えていない。
 手に付いた黄色い粉と甘い香りだけがどこまで行っても離れない。
 すっかり陽が落ちた街並み。帰宅途中のサラリーマンが突進してくるユキヒロに慌てて道を譲る。顔を濡らした少年は濃い闇の中を走った。空き缶を蹴飛ばし鎖に繋がれている犬に当たった。
 道が途切れ、ひときわ濃い闇が現われた。静かに流れる水の匂いとひんやりとした空気が狭まっていた感覚を広げる。
 気が付けば足は自然と河原に向かっていた。それもちょうど男と出会った辺りだった。
 涙を拭い、水銀灯が描き出す丸い輪の中から川の方を見やる。輪の外側には果てしない暗闇が広がる。目を凝らしても何も見えない。父親が観ていた映画のワンシーンみたいだ。主人公は水銀灯の下でひたすら誰かを待っている。来るのか来ないのかすらはっきりしない相手を待っている。
 ユキヒロも何かを待つのだろうか。水銀灯に寄りかかる。拭いても拭いても涙は止まらない。両手で目を押さえてみても止まらない。これだけの水が身体から溢れてくるのが少しだけ不思議だった。
 土手の上には誰もいない。誰かに涙を見られないことは幸いであるが、誰にも気にかけてもらえないのも寂しかった。
 泣きながらぼんやりと眼下に見える街並みは、奇妙に歪んで見えた。毎日毎日見ていた街の明かりはとても冷ややかで、生物が住んでいるようには思えなかった。まるで知らない場所だった。いつか昔のSF映画で見た、機械化人が住む地底都市のようだった。
 あそこにいる人たちはみんな人間じゃない。みんなニセモノの人間で、ニセモノの生活をしている。毎日ニセモノの時計で起きてニセモノの学校に行く。帰ってきたらニセモノの塾に入ったりニセモノの友達と遊んだりする。クラスメイトもニセモノ。先生もニセモノ。全部全部ニセモノ。
 ミサは春の花のようないい香りがした。あれもニセモノ。
 おかあさんの微笑みも、おとうさんのおおらかさもニセモノ。
 じゃあ、ホンモノはどこにあるんだろう。
 鼻をすすり、ユキヒロは空を見上げた。北の空にぽつんと一つ、星が見えた。あの男が言うことが本当だったら、この空のどこかに宇宙人がいて観察しているのだろう。銀色の手にペンを握り、毎日観察日記をつけて先生に見せているのだろう。学校の水槽の中にいるメダカと同じだ。
 ユキヒロの両肩を大きな手が包んだ。振り向くとあの男がいた。面差しが、どことなくユキヒロに似た男。思わず、男の胸に飛び込んだ。よく知った香りがユキヒロを安心させてくれる。家に帰ってきたみたいだった。止まりかけていた涙がまた溢れ、男のシャツを濡らした。あれだけ泣いたのに、まだまだ身体の水分は涸れていなかった。
 男はユキヒロの肩を優しく抱き、ぽんぽんと背中を軽く叩いた。それだけのことなのに、不思議と心が落ち着いていった。
「わかっただろう? みんなニセモノなんだ。俺たちは宇宙人に飼われているんだよ」
 飼われている、という言葉にビクリと心臓が跳ねた。水槽の中のメダカ、あるいは鎖に繋がれた犬。
「俺たちには人間らしく生きる権利があると思うんだ。誰かの監視の下に置かれることなく、好きな場所で好きなことをする。自由に生きることが本当なんだよ」
 そして男は難しい言葉をその後に続けた。何かと聞くと、昔々地球にあったフランスとかいう国のジンケンセンゲンの一部だと言った。ジンケンセンゲンは難しすぎてユキヒロにはよくわからなかった。でも、生きるのはその人の自由だと、そんな意味であることはわかった。
「お前は自由になるべきだ。俺と行こう」
 ユキヒロは顔を上げた。水銀灯の光で陰になり、男の顔がよく見えなかった。
「でも、児童会に入ったばかりだよ」
 ミサの顔が脳裏をよぎる。器用にリボンを結ぶ、かわいい女の子。
「そんなのほったらかしといていいんだよ。自由に、好きに生きればいいんだ」
「でも」
 たとえ一番下の学年だとしても、ユキヒロがいなくなったら執行部には一人欠員が出る。そうすると上級生たちも先生たちも、学級委員長のミサも困る。
 ユキヒロの家からは子供が消える。あの小さな家には父親と母親だけになる。夫婦の間にぽっかりと穴が空く。
 家庭があってユキヒロがいる。学校があってユキヒロがいる。社会があってユキヒロがいる。ユキヒロは周囲の環境があってこそ存在できる。まだ幼いとは言え、ユキヒロも世の中を動かしている歯車の一つには違いない。
 歯車が一個なくなったらどうなるの。
 ちょっと前に撮った学級写真。ユキヒロの首から上が切り取られたようになくなる。顔がない誰かになる。家族写真は両親との間に奇妙な空白ができる。最初から両親だけであったかのように。
 それはつまり、存在しない、ということだ。
「でも、僕はここにいなきゃいけないんだよ。いなくなったらみんなが心配するもん」
 きっと父親も母親も、近所の人たちも先生も総出で探してくれるのだろう。家の天井裏から電信柱の陰から、全て覗きこむ。消えたユキヒロを求めて、世界の果てまでも行くに違いない。それがユキヒロのいる社会だから。ユキヒロのいる社会を構成している人たちだから。
「しかし、それじゃお前の自由はないんだぞ?」
「僕は充分自由だよ。学校に行くのも好きで行ってるんだし、児童会の会計だって僕が自分で手を挙げたんだもん」
 ユキヒロは男から離れた。水銀灯の輪の中には男だけが残った。
「おじさんには悪いけど、一緒に行けない。僕はおじさんみたいに頭よくないから、ホンモノがわかんないんだもん。たとえ周りが全部ニセモノでも、僕にとっては全部ホンモノだよ。お父さんもお母さんも優しい。好きな女の子だっている。学校は楽しいし、帰りに面白い形の石を拾うのも楽しい。こう思う気持ちはホンモノ。僕が信じてるんだもん。ホンモノなんだよ」
 男が少しだけ笑ったような気がした。
「僕の自由はここにあるの。おじさんはおじさんの自由を探して」
「お前は幸せなんだな」
 別れの言葉もなかった。男は長いコートを翻し、土手の向こうの闇に姿を消した。慌てて追ってみたが、跡形もなく消え失せていた。光の輪の中で、呆然と男の消えた方を眺めていた。
 あのおじさんは本当に僕だったのだろうか。
 ユキヒロと同じ遺伝子を持っていると言った男。真実を知り、飼われることに耐えられなかった男。自由を求め、たった一人で仲間を探す男。
 男が言ったことが本当なのかどうか、ユキヒロに知る術はなかった。昔も今も、多分これからも。
 幼い少年には永遠の別れというものがピンとこない。ただ何となく、もう会えないという気がした。包み込む手の温かさと優しい匂いを思い出して、また目に涙が滲んだ。
 眼下に見えるは遠い街の灯り。
 あそこが学校で、あそこが警察署。あの辺に家があって、ミサの家はあの辺。
 よく知っている温かい灯りだった。
 川へと続くゆるい坂道をゆらゆらと小さな光が昇ってくる。それも一つではない。いくつもの光が近づいてきた。少しずつ大きくなってくる、ユキヒロを呼ぶ声。
 シャツの袖で目を拭い、光に向かって歩き出した。ゆっくりと坂を下る。大切な人たちの元に戻って行く。


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