世界が反転した日
(1)

 初めて参加した児童会執行部の定例会は思っていたよりも長引いた。下校時刻を知らせる放送はとっくの昔に終わっている。鞄を持った先生たちとすれ違うと必ず「早く帰れよ」と言われた。
 人気のない校舎はちょっとだけ不思議な空間だった。
 ユキヒロはみんなの声がする学校しか知らなかった。誰もいない廊下はとても長く見える。おまけに西陽が射し込んで寂しげだった。かあ、と鳴く鴉の声が窓のすぐ外から聞こえた。
「ユキヒロくん」
 教室からミサが顔を出す。
「帰らないの?」
 ミサは赤いランドセルを背負っていた。右手には給食用白衣の袋を持っている。ミサは同じクラスの学級委員長、ユキヒロは執行部会計だった。四年生になって会計に選出され、今日は第一回目の定例会が行われた。執行部役員はもちろん、各クラスの委員長は出席を義務付けられている。
「白衣洗うの忘れないでね」
 ランドセルに教科書とノートを入れるユキヒロにミサが声を掛ける。何気なく事務的な一言でもユキヒロは十分満足だった。黒板横に一列に並んでいるはずの給食用白衣は一つだけ残っている。白い給食袋にはケチャップの染みがついていた。ユキヒロは最後の一個を取ると教室を出た。ミサと並んで廊下を歩く。
「遅くなっちゃったね」
「こんなに時間かかるなんて思わなかったよ」
 ミサは長い黒髪に白いリボンを結い直していた。小さな手の器用な動きに見とれる。手の持ち主が「なあに?」と聞いてきた。
「ミサちゃん、髪結うのうまいね」
「だって毎朝やってるもん。自分のことは自分でするの」
 当然のことのように言う。少女の大人びた発言にユキヒロは素直に感心する。まだ耳掻きすら母親にやってもらう自分が恥ずかしい。白いリボンはきれいな蝶々の形になった。髪が夕日に透けて金色に見える。
 そんな他愛もない話をしながら昇降口で靴を履き替え、門を出た。
「じゃあ、また明日ね」
 ミサが手を振り、ユキヒロに背を向けた。家の方向が全く逆。一緒に帰りたくても帰れない。歯痒い想いを抱きながら、ユキヒロはミサの背中を見ていた。もう一度振り向いてくれないか、とぼんやり視線を送る。
「児童会、頑張ろうね!」
 立ち止まったミサが大声で言った。
「うん!」
 自分でも驚くほど大きな声が出た。小さく手を振ってミサは歩いていく。ランドセルにつけたウサギのぬいぐるみがユキヒロを見ていた。
 ちょっと張り切りすぎたかな。ミサちゃんにバレちゃったかな。
 そんな心配をしながらも自然と頬が緩む。今年に入って最大の接近、しかも言葉を交わした。こみ上げる喜びに心も踊る。
 角を曲がってミサが見えなくなってからユキヒロも歩き出した。夕日が長い影を落とす。自身の影を追いながら足早に帰途を辿る。無人の校庭を過ぎ、良く居眠りする婆さんがいる駄菓子屋を過ぎ、大事件もなくのんびりとした警察署を過ぎ、河原の堤防の上を真っ直ぐに行く。
 堤防に転がる小石が珍しい形をしていたから拾った。うずくまる鳥のようにも、ご飯を食べ過ぎた豚のようにも見えた。名前を知らない道端の白い花がとても綺麗だった。青々とした芝生によく映える。
 いつもの風景のはずなのに、見るもの聞くもの全てが新鮮だった。鳥が飛んでいる。空はどこまでも青い。水のせせらぎは耳に心地よい五重奏。ジェット機はシンバルの代わり。
 人生は薔薇色。
 ユキヒロはまだその言葉を知らなかったが、まさしく世界は七色だった。
 だが、世界にも汚点はあった。
 男が立っていた。薄汚れたトレンチコートをまとい、行く手を遮っている。伸びた不精髭とサングラスで顔がよくわからない。ポケットに突っ込んだ手がくわえていた煙草を取り、銀色のケースに押し入れた。
 知らない人だ。
 ユキヒロは警戒する。常日頃から母親に知らない人にはついていくなと言われていた。ユーカイされてしまうからだ。ユーカイというものはよくわかっていなかったけど、とても怖いことだとは知っていた。
 通り過ごしてしまうのが一番、と足を速める。
「ユキヒロ」
 男が言った。サングラスを外し、ユキヒロを見ている。
 どうして僕の名前を知っているの。
 喉まで出かけた言葉を飲み込み、走る。知らない人がユキヒロの名前を呼んだ。それはとてもおかしいことだ。
「ユキヒロ、待って」
 追いかけてくる。子供と大人では足の差は歴然としている。あっさりとユキヒロに追いついた男はランドセルをつかんだ。ユキヒロは給食袋を振り回して攻撃するが、長い紐の先についた布の塊はなかなか言うことを聞かない。あらぬ方向へと振り回され、男に当たらない。
「待って、話を聞いてくれ」
「イヤだ! おじさんユーカイハンなんだ! ボクを捕まえてどうする気だ!」
 暴れるユキヒロに男は苦戦を強いられる。ユキヒロの攻撃が当たらずとも、動き回られれば厄介なことに変わりはない。
「話だけでいいんだ。どこにも連れて行かないから」
 ユキヒロは聞いていない。男の手から逃れようとひたすらもがく。ランドセルは片紐が外れていた。
「ユキヒロ!」
 たまらず男は大声を出した。ユキヒロは驚いて動きを止める。慣性を持った給食袋がランドセルに当たって転がり落ちる。大きく見開いたユキヒロの目が男を静かに見つめる。突然のことに反応を迷い、そして、
「ごめん、ごめんってば」
 ユキヒロは泣き出した。ただ感情に任せて思い切り泣いた。溢れる涙を拭うこともせず、流れるままに流した。男は慌ててユキヒロをなだめる。だがスイッチが入ってしまったユキヒロは止まらない。涙がさらに涙を呼び、泣き声がまた涙を呼ぶ。割れんばかりの声に通行人が興味を示し始めた。
 男はユキヒロの口を押さえて泣き声だけでも止めようとするが、その行為がさらに通行人の興味を引く。「警察」とか「通報」とかそんな言葉が人々の中から聞こえる。
「頼むからおとなしくしてくれ」
 男はユキヒロの頭を自分の胸に押し付けた。シャツが涙に濡れるのも構わない。そしてユキヒロの後頭部に手を置いた。壊れ物にでも触れるかのように優しく、柔らかく撫でる。さらさらの髪が手の下で滑る。
 泣き声が止まった。
 暴れていた感情がおさまっていく。どうしてなのかユキヒロ自身にもわからない。ただ、あたたかい男の手とシャツの匂いがたまらなく身近なものに感じた。とても心地よい。
 知っている。
 しゃくりあげながらユキヒロは男を見上げた。柔和な瞳が微笑みかけている。大きく深呼吸。ユキヒロの頭が胸に押し上げられる。
「おじさん、誰?」
 この男を知っている。頭は誰か知らないけど身体が、遺伝子が知っている。こうやって身体を寄せ、体温を感じているだけで気持ちまであたたかくなる。二人の呼吸と心拍が同じリズムで繰り返される。身体の音楽がとてもよく似ている。
「もしかして、シンセキの人?」
 男のシャツで涙を拭う。おいおい、と苦笑いをされるが気にしている様子はない。
 シンセキはユキヒロに近い人達だと母親が言っていた。何が近いのか知らないけれど、他の人よりは近いらしい。多分この男もシンセキの人だ。だってこの男はユキヒロ近いものを持っている。
「違うよ」
 男はしゃがんでユキヒロと視線の高さを合わせた。頭に手を置いたまま、ユキヒロの涙を空いている手で拭う。男が持つあたたかさは母親とも父親とも違う。優しいということは変わらないが、本質が異なる。愛情という言葉では足りない温度を持っている。
「俺はお前だよ、ユキヒロ」
「嘘だ」ユキヒロは即答する。「僕は僕だもん。おじさんは僕じゃないもん」
「うん、そうだね。俺はここにいるし、ユキヒロもそこにいる。でも俺もユキヒロなんだよ」
 わけがわからない。眉間に皺を寄せて男を凝視する。穴が開くほど見る。だけどそこには柔らかな空気を持つ男がいるだけだ。何の変哲もない人間が一人、ユキヒロの前にしゃがんでいる。相手は大人、自分は子供。どこも似ていない。
「ユキヒロは首の後ろに黒子があるねよ?」
 思わず首の後ろに手を回す。大きな黒子が一つ、うなじの下にある。普段は髪に隠れていて見えないが、結構な大きさがある。
「どうして知ってるの」
「知ってるよ。だって俺はユキヒロだからさ。ほら」  と男は上半身をよじり後ろ髪をかきあげた。ユキヒロは目を見張った。うなじの下に大きな黒子がある。自分のものは見られないけれど、おそらく同じ位置同じ大きさであることは直感でわかった。
「おじさんは僕なの?」
 恐る恐る聞いてみる。ユキヒロが知っている精一杯の常識の中には「同じ人間が二人」という事実はなかった。人間は絶対一人で、同じ人間が二人以上存在することは許されない。
「そうだよ。俺もユキヒロも同じなんだ」
 だが、この男はあっさりと常識の範疇から外にあることを言う。
「何で同じ人が二人もいるの?」
 ユキヒロはここにいるけど目の前の男もユキヒロだ。ユキヒロが二人いるけど、本当は一人じゃなくてはおかしい。だったらどちらかが本物のユキヒロ?
「僕がホンモノのユキヒロなの? おじさんがホンモノのユキヒロなの?」
 頭がぐちゃぐちゃしている。
 昔読んだ絵本にこんな話があった。女の子が鏡に自分の姿を映す。すると鏡像であるはずの女の子が勝手に話し出し、動き出し、挙句の果てには鏡の中から出てくる。そして本物の女の子は鏡の中に閉じ込められてしまい、偽者の女の子は本物に代わってしまう。この男も鏡の中から出てきたのか。
 おさまっていた涙がまた迫り上がってくる。今にも溢れそうな涙を我慢してユキヒロは男を見た。
「俺もユキヒロも本物。俺たちは兄弟みたいなものなんだよ」
 だから泣かないで、と男が言った。
「クローンって知ってるか?」
 知らない、と言う代わりにユキヒロは首を横に振る。
「クローンっていうのは同じ人のことだ。遺伝子というその人を特徴付けるものがある。髪の色とか目の色とか性別とか、そういう身体の特徴を記憶しておくのが遺伝子。その遺伝子が同じ人をクローンって言うんだ」
「双子とは違うの?」
 同じクラスのユウスケとダイスケのことを思い出す。二人は見分けがつかないくらいそっくりだった。
「違う。同じ遺伝子を持っているという意味では同じだけど、双子とクローンには決定的な違いがある。双子はお母さんのお腹から二人一緒に生まれてくるけど、クローンは誰かが作るんだ。人間から遺伝子を取り出して人間を作るんだ」
 ユキヒロはまた眉間に皺を寄せた。
「こんな説明じゃわかんないだろうな」
「わかんないよ。わかんないけどひとつだけわかった。僕とおじさんが同じ人間なら、僕もおじさんも誰かに作られたってことなの?」
「お前、結構頭いいなぁ。さすが俺と同じだけあるな」
「ねぇ、僕は誰かに作られたの?」
 男のコートにすがる。赤ちゃんはみんな母親から生まれてくるはずだ。母親から生まれてこないということは人間ではないということか。誰かに作られたなんてまるでロボットみたいだ。
「ねえ、僕は誰かに作られたの?」
 繰り返す。もしかすると人間じゃないかもしれないという不安。十年間自分を人間と信じ、人間として生きてきたのに。足元に崖が広がっているような恐怖。何よりも感じたのは人間じゃないということで両親に、ミサに嫌われるかもしれないという恐れ。
「そうだよ。俺たちは作られたんだ。この地球で生きる唯一の人間として」
「ユイイツの?」
「唯一ってのはたった一つのって意味だ。わかるか?」
 ユキヒロはうなずく。
「つまり、地球上には俺たちしか人間がいないってこと」
「どうして」反論する。「他にも人はいるよ。僕のお父さんだってお母さんだって学校の先生だってミサちゃんだってユウスケとダイスケだって生きてるよ」
 知らずコートを持つ手に力が入る。ユキヒロの周りの人々の顔が思い浮かんでは消えていく。みんな生きている。みんな人間として毎日を送っている。
 男は立ち上がり、河川敷の斜面に座った。ユキヒロもそれにならう。芝の硬い感触が居心地の悪さを代弁していた。男は向かいの岸辺を見ている。季節の花が咲く花壇が岸に沿って一列に並んでいた。ブランコや滑り台が置いてある小さな公園はいつも花がいっぱい咲いている。ユキヒロももっと幼い頃に遊んだことがあった。砂場で城を作りその王様になった。
 顎に手を当てた男の顔から笑みは消えていた。悲しい時の顔だと思った。涙を堪えているわけではない。顔をしかめているわけではない。でも悲しい時にする顔だ。西日に照らされたその表情は一層の哀愁を帯びる。
 鴉が一声鳴き、傾いた太陽が民家の屋根に差し掛かる。
「みんな人間じゃないんだ」
 不意に男がつぶやいた。聞こえるか聞こえないかの小さな声。人の声には聞こえず、一瞬耳を疑った。
「人間じゃない?」
 反芻するユキヒロの声もささやかなものだった。
「もう何年も昔に地球上の人類は滅んでいる。温暖化、人口爆発、核戦争。色んな要因が重なった末の絶滅だ。どうしようもない。そんなどうしようもない人類をもう一度復活させようとした奴等がいた。地球外生命体とか宇宙人とか呼ばれてる奴等だ。ずっと傍観していたくせに、博愛主義者であるそいつらはどうしようもない生命体でも救いたくなったってわけさ。そして人類が絶えた地球上に勝手に実験施設をつくった。その中でどこぞから採取した人間の遺伝子を使い実験を始めた。正確には『飼育』を始めたってところかな」
 ユキヒロには言っている意味がわからない。宇宙人という単語だけは辛うじて知っているものの、物語の中だけにしか見たことがない。
 もはや独白でしかない男の話は続く。
「昔の地球を再現し、その中に採取した遺伝子から作った人間を放り込む。地球という巨大な箱庭の中で、完璧に環境を整えて成長を観察するんだ。同じ遺伝子でも環境によりどう変わるのか。遺伝子を少しいじったらどうなるのか。そうやって一つの遺伝子から何人もの人間を生み出し、世界中にばら撒く。ただし人間同士は決して顔を合わせないよう細工をしてな。俺たちは奴等の手で生み出されたモルモットなんだ。そして今の生活は奴等から与えられたニセモノの生活なんだよ。学校もクラスメートも家族ですらも、奴等から与えられたニセモノの人間なんだ」
「ニセモノの人間?」
「ああ。俺たち以外の人に見える者は人間じゃない。見た目はまともだし、動いて喋っているけど内部構造は俺たちとぜんぜん違う。歯車とオイルと電気が走る、機械構造の人形だ」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「嘘だ!」
 たまらずユキヒロは叫んだ。理解できない夢物語のような話をされた挙句、自分以外の周囲の人間は生物ではないと否定された。自分以外は人間じゃない。機械仕掛けのロボット。父親も母親も先生も、そしてミサも。
 ミサへの淡い想いも、さっきまでの幸せな思いも否定された。
「絶対嘘だ! 僕は信じない!」
「信じなくても結構だが、嘘じゃない」
 立ち上がったユキヒロを男が見上げる。その目がガラス玉のように見えた。男こそがユキヒロの生活を乱しに来たロボットに思える。事件も起こらず平和な毎日を壊しに来た悪いロボット。テレビで見る悪い怪獣と同じ。
「奴等は完璧に人間を再現した。動作から感情から何もかもな。俺たちに疑わせないように、綻びが生じないように限りなく自然に振舞うように仕込まれている」  ヒーローがいるはずだ。悪いロボットがいるなら正義のヒーローもいるはずだ。心の中で今放映中のテレビヒーローの名前を呼ぶ。
「嘘だ! みんなロボットじゃない。僕知ってるもん!」
「ロボットなんだよ。涙を流しても血を流してもロボットなんだ」
 鼻をすする。涙が視界を曇らせて男の姿を不鮮明にする。
「証拠。見せてよ」
 ひっく、と喉が鳴った。怒りだか悲しみだかよくわからない思いで胸がいっぱいになっている。信じたくないし、信じられない。
「匂いだ」
 男は自分の鼻先を指で叩く。
「奴等は滅びる前から人類を観察していた。だが見るだけではわからないものがある。それが匂いだ。ロボットに嗅覚をつけても、何がどんな香りでどんな風に感じるかという情報までは入力できなかったんだ。それが一つ」
「まだあるの」
「あるの。もう一つは身体。ロボットだから身長は伸びないし体重は増えない。毎日親父の体重チェックしてみろ。食い放題行った後でも変わってないから」
「匂いがわかって、体重も変わってたら人間だよね」
「そうだ」
「絶対、みんな人間だもん」
「違うな」
「人間だもん!」
「好きに思うがいいさ。真実はひとつだ」
 泣きじゃくるユキヒロと目の高さを合わせる。トレンチコートには芝生がたくさんついていた。
「お前が本当のことを確認したらニセモノの生活をやめたくなるだろう。その時は俺のところに来い。俺たちは兄弟だ。人間同士、どこかで静かに暮らすのもいい。宇宙人どもに反旗を翻してもいい」
 しばらくはこの辺にいるから、と男は付け足した。別れの挨拶もせずに堤防を越えて街へ去っていく。
 河川敷に一人残された。いつもならユキヒロを脅かしてくる、長く伸びる影が今日はおとなしい。主とともに泣いているのか。ユキヒロは気の済むまで袖を濡らしてから帰ることにした。


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