第8話

 ついに焦土は現われなかった。
 セスは息をつき、額の汗を拭って壁にもたれる。後頭部のスリットからデータチップを取り出して白シャツの胸ポケットに戻した。
 グラスモニタはない。遠き宇宙の神を召喚させた青年が、お菓子とともに持ち去ってしまったのだ。
 吸血鬼と神父と会社員の男、そして金髪の少女という奇妙な四人組が同居していた住居。そこからかき集めるだけかき集めたのだろう。青年は腕いっぱいにお菓子を抱え、さらに口の中にまで詰めこんでどこかへ行ってしまった。正当報酬と言い放ったその背中に、モニタを返せと叫ぶだけの力は残っていなかった。火事場泥棒という言葉だけが脳裡をよぎっていった。
 珍しく身体が重い。腹の底に鉛が溜まっているようですっきりしない。だが、命があるだけでも幸いなのだ。外宇宙の神の脅威をまざまざと見せつけられながら、四肢も精神も満足にここにあるのだから。
 落ち着くと今度は無性に喉が乾いた。極度の緊張に身体はすっかり乾ききっている。かざして見れば、そこには年寄りのように痩せ乾いた手があった。吸血鬼の本能が飢えを訴え、血を求める。蒼白な顔からはさらに血の気が引き、頬に触れれば無機物としか思えないくらい体温が下がっている。
 人が食事を必要とする以上に吸血鬼は血液を必要とする。しかも今は完全に乾いた状態で、どうにか保っている理性も危うい。早く摂取しないとますます体温は下がり、乾いた粘土のごとく肌が崩れてくる。
 脱力した身体をどうにか立たせてセスは周囲を見回した。彼らの拠点となっていた施設は外宇宙の神とともにやってきた炎により破壊尽くされ、おまけにあの青年によって略奪されていた。
 青年はお菓子以外の食料は魔法で焼いてしまったらしい。トーストどころか焼け焦げて炭化した食パンが一斤、形のままキッチンのテーブルに載っている。冷蔵庫は丸ごと焼かれたようで、扉が半分だけ溶けていた。この状態では中身も惨憺たる有様だろう。保存しておいた輸血パックも絶望的だ。
 輸血パックなんてそう売っているものではなく、また自分で買いに行くだけの力も残っていない。いつもならばサラリーマンが変に気を効かせてパックを持ってきてくれるし、パックがなくとも非常食と目している金髪の少女も忙しなく家事に勤しんでいる。
 なのにこんな時に限って身近に誰もいない。こんなことになるなら早くあの少女を食べておけば良かったと内心で愚痴った。はつらつとした金髪の人間の少女。血色もよく、浮いた話一つないからおそらく処女だ。あれだけの御馳走の近くにいながら何故食べてしまわなかったのだろう。
 しかし、今後悔したところで再びあの少女が現われるわけでもない。セスは流し台に背を預けるようにして座った。疲れを知らないはずの吸血鬼の肉体に疲労が滲んでいる。極度の緊張下にあった精神も困憊している。
 脳に仕込んだコンピュータは使えばいつもどこか精神を磨耗させる。目を閉じればするりと入眠できそうだ。眠ったままの身体は崩れて灰になり、セスは真の眠りにつくことができる。それができればどんなに幸せなことか。
 セスはこめかみを揉む。目を閉じても暗い世界があるばかりで安眠には程遠い。この吸血鬼は睡眠の幸せを奪われていた。そういう病気なのだ。いつでもどこでも本人が望まずとも身体は覚醒状態にあり、どれだけ疲れていようとも眠れない。彼の世界にヒュプノスはいない。
 それがいつからだったのか、何がきっかけだったのか。忘れてしまうくらい長い間、一睡もできていなかった。陽が落ちて月が昇れば静かな夜の世界を彷徨う。月が沈んで陽が顔を出せば、セスは暗い部屋の片隅にうずくまってまた陽が落ちるのを待つ。それを何年も繰り返している。濁った目と、暗く影を落とす隈がいまやこの男のトレードマークでもあった。
 食餌はない。誰もいない。
 意識が明瞭なまま身体が崩れていくのを待つしかない。
 ほぼ諦め切って項垂れたその時、セスの頭上から影が落ちた。何かと見上げたその顔に掌大の塊が当たり、膝の上に転がる。
 見ればそれは医療用の輸血パックだった。たったいま冷蔵庫から出してきたばかりのごとく冷え切っていて表面に汗をかいている。誰がと再び見上げたものの、そこにはパイプが絡み合う天井があるばかり。切れかけた蛍光灯が瞬く。
 輸血パックには一通の封筒が張りつけてあった。柄も印もない素っ気無い封筒には差し出し人の名もなく、表面にセスの名が書いてあるだけだ。
 セスは封筒を一瞥するとパックから引き千切り、中身も確認せずに尻ポケットにねじ込んだ。針のように尖らせた人差し指の爪でパックに穴を開け、音を立てて中身を喉に流し入れる。いつもなら薬品臭いだけの医療用血液が今回ばかりはチョコレートのように甘く感じた。空腹が最高のスパイスであるのは人も化物も変わらないようだ。

 ひとまずの栄養補給を終えて一息ついた。唇についた血を拭う。生気がない土気色の顔の中で唇だけが赤く染まっていた。白かったはずのシャツはとっくに泥と埃にまみれ、乾いた血が点々と茶色の染みをつくる。
 指先まで新しい血が行き渡るのを待ち、愛銃を拾い上げた。これもまた埃に煤けていた。
 銀色のデザートイーグル。女子供が撃てば肩が外れるとまで言われる地上最大の大型拳銃。セスはそれを吸血鬼の膂力で豆鉄砲のごとく軽々と扱う。
 弾倉を抜き出して確認する。神父とのやり取りの間に一度だけ弾を放ったきりだ。残り九発。装填しなおしてスライドを引く。
 そういえばと思い出して尻ポケットの封筒を取り出した。
 そこに人影が落ちる。

「あんたが吸血鬼か?」

 送られてきた封筒には写真が添えてあった。かなり古いものなのか、モノクロだったであろう写真はセピア色に変色していた。
 どこかの街角、雑多な煙草屋の前に並ぶ二人の人間が写っている。一人は頬がこけた青年で、煙草を咥えたままそっぽを向いている。もう一人はワンピースの女性なのだが顔の部分が削り取られていた。軽く巻いたロングヘアーが清楚な女性を思わせる。
 レイはもう一度目の前の男と写真の男を見比べた。実物はかなり薄汚れているが間違いない。
 写真を見た時は随分古いものだと思った。色褪せた写真の古さもさながら、写っている人物と背景がやけに時代がかっていたからだ。知らない街並なのでさすがに年代の見当はつかないが、十年二十年前程度ではなさそうさ。
 しかしどうだろう。男はまったく顔が変わっていないではないか。落ち窪んで濁った目と、肋が浮くくらい痩せた身体。それくらいしか外見の特徴が無く、陰鬱な佇まいは男の印象を更に薄くする。そんなところまでが同じだ。これが人の常識を遥かに超える時を生きる、人にあらざる物。
「これ、あんただろ」
 座っている男に写真を向けた。白か銀か灰か、汚れすぎていて色も判別できない髪の間から紅い目がレイを見た。光もなく生気もない平板な色をしている。焦点が合っているのかすらわからない視線がレイと写真の表面を滑り、再び伏せる。
「だからどうした。俺は見世物じゃねぇ。用が無いなら失せろ」
 気だるげに振る空の手には乾いた血がこびりついていた。鋭い爪の間も赤茶に染まっている。
「用も無くあんたのような奴に声をかけるかね」
 半分独り言のように言ってレイは嘆息した。手にした一式を男の頭の上に落とす。

「理由はこれだ」

 木の葉のように紙切れが落ちてきた。ふわりと待って頭に着地する。それを乱暴に掴み、セスは青年を火と睨みしてから目を落とした。
 白封筒には誰とも知らない名前が、白便箋には赤色のインクでセスの名が綴られていた。筆跡に見覚えがあるのも当然か。今セスが持っている封書の表書きと同じなのだ。
 人差し指の長い爪を封書の隙間に差し入れて一息に切り、中から便箋を取り出す。広げたそこにはやはり赤字で見知らぬ名前。誰のものかわからない花押もある。
「レイ?」
 名前を読み上げると青年が屈託なく笑った。
「俺だ」
「そういうことか」
「そういうことだ」
 緩慢にセスは立ち上がった。腕を回して肩周りの調子を見る。次の相手はレイという名のこの青年だ。
 左手を背に回し、腰骨の辺りに下げたもう一挺の拳銃を抜いた。やはり銀のデザートイーグル。しかしこちらは改造してあって若干銃身が長い。両手に銃を握ると安心感が違う。片手よりも重心のバランスがいいこともあるが、精神的なもののほうが大きい。
 煙草が欲しいと思った。軽く開いた唇が寂しい。血で腹を満たした後には煙が恋しくなる。
「フォールゥンという苗字には心当たりがある。その赤髪と赤目もだ。貴様、あのクロエ・フォールゥンの息子だな」
「へぇ、おふくろのこと知ってるのか」
 それなら話が早いかな、と独り言のようにレイが言った。
「あのさ、悪ぃんだけど棄権してくんねぇかな。俺さ、おふくろと違ってあんま無駄な戦いって好きじゃないんだ」
 人懐こく笑む顔に悪意はない。そして闘争に臨もうとする気概も窺えない。青年の真意が計れず、セスは両手の銃をどうすべきか判断に迷う。あの封筒を持っている以上敵であるには間違いないが、戦う前から負けている奴に銃口を向けるほど外道でもない。
「本当にあの狂戦士の息子か? ここまで来ておきながら今更怖気づいたのか」
「まさか。腐っても戦士だぜ。血を見て泣き出すような女々しいガキじゃないさ」
 笑う顔は母親と同じだ。ただ、狂暴さに欠けるだけで。
「怪我して帰るとさ、泣く子がいるんだよ。それだけ」
 平和主義を自称する青年は、しかし丸腰ではなかった。丹色の鞘に納まった大きな太刀を肩に担いでいる。セスが迷っている理由はそこにあった。戦意が無ければ丸腰であるはずだ。
「理由としては薄弱だな。残念ながらその申し出は却下させてもらう。俺にとっては仕事と同じでな、契約もしているし報酬もある。仕事の現場では私情や気持ちがどうのという考えは通用せん。その甘い感情が命取りになる」
 ふむ、とレイがうなずいた。
「交渉は決裂だな」
「最初から交渉しているつもりはない」
 報酬。それはセスを動かすためのたったひとつの理由。セスに情はない。守るべき物もない。待っている人もいない。
 これはビジネスだ。契約を遂行するためならば敵の殲滅は必須であり、義務なのだ。
 摂取した血液が身体を循環していく。たかだか輸血パック一個で万全の状態にまで持っていくのは難しいが、わがままを言えるような状況でもない。初対面であるレイの力量は計りかねるものの、あのクロエ・フォールゥンの息子であること、大太刀を軽々と持っていることを加味すれば一筋縄でいくような相手でないことは知れる。
「随分とドライだね。友達いないだろ」
「貴様には関係ない」
 短く息を吐き銃口を向けるが青年はリラックスしたままだ。どうにも緊張感に欠ける。
「こいつは親父からの受け売りだが」
 レイが肩に担いだ大太刀の鞘を抜いた。銀色の刀身が光を受け、氷のごとく冷ややかに輝く。
「一般的にはてめぇら吸血鬼はニンニクが苦手だとされている。臭いがきっついからだとか諸説色々あるみてぇだけど、うちの親父は硫化アリルってやつの効果じゃないかと推理している」
 セスは眉根を寄せた。口上どころか薀蓄をたれ始めた青年を不審に思いながらも今はまだ攻撃の意志がないと判断し、手元の拳銃の弾倉を抜いた。きっちり弾が詰めてあることを確認する。
「伝承では銀の弾丸も苦手ってことになってるな。もっとも弾丸なんぞ打ち込まれたらどんな生物でも一発でお陀仏だわな」
 青年にはやはり殺意がない。本当にやる気があるのかどうか疑わしいが、最低限、今がどういう状況であるかは理解しているはずだ。刀を携えて来ており、ましてや抜刀したのだ。セスは黙ったまま、手にした自動拳銃二挺の安全装置を外す。
「さて、この硫化アリルと銀の共通点、何だかわかるよな」
 考えるまでもない。セスの頭に埋め込まれたデータベースは瞬時に答えを弾き出した。ため息交じりに一言だけ返してやる。
「殺菌作用」
「正解。吸血鬼は何らかのウィルスの保菌者で、ウィルスが感染すると他の生物も吸血生物化する。その理論が正しいなら銀や硫化アリルに弱いのも納得できるよな」
「まるで俺が雑菌だらけの身体してるみてぇな言い草じゃねぇか。阿呆か。硫化アリルや銀の殺菌作用なんざ大したもんじゃねぇ。そんなもんが効くんなら、酒飲めば一発で昇天できるぜ」
 嘲るように鼻を鳴らし、セスは拳銃を構えた。手首を交差させ、照準をレイの眉間に合わせる。あとはトリガーを引くだけで穴が空く。それでも青年は動じず、
「なんだ。親父に頼んで銀でコーティングしてきたのによ」
 つまらなそうに言って太刀を片手で斜めに振った。鋭い音が空気を切る。
「まあいいや。再生する暇もないくらい叩き潰せばいいんだもんな」
「違いない」
 セスはトリガーに指をかける。赤い瞳孔が更に細くなり、青年の動向を見る。レイは太刀を八相に構える。
「手加減は無用だ」
「そっちこそ手ぇ抜くなよ」
 セスは頭の回路を切り替えた。外部から入力される情報の処理を、生体の脳ではなく、頭の片隅に埋め込んだコンピュータに委ねる。思うだけでシナプスを行き来する電気信号の流れが変わる。
 途端に感じるもの全てが緩慢になった。
 空気の流れ、音の流れ、時間の流れ、全てだ。今、彼の目には呼吸で上下するレイの肩すらスローモーションで見える。マトリックスの緑線が展開し、網膜に映る現在の画像と重なる。視覚から得られる情報をコンピュータが勝手に片っ端から分析し、結果を網膜に映していく。
 息を吐く。レイから見れば短い息だろうが、セスには長い長いため息に感じた。


 鋼と鋼が甲高い音とともに打ち合う。
 刀と拳銃が交差する。
 縮地とか縮歩と呼ばれる歩行術がある。目視できないほど素早く動き、一瞬で相手に詰め寄る。地を縮めて渡ったかのように相手に見せる術だ。今まさしくセスはそれをやってみせた。人間では習得が難しい縮地も、人を捨てた身では難なくこなせるのだ。
 距離を詰めるまでは予測の範囲だった。だが、予測できたのはそこまでだった。
 不意を打たれた。てっきり発砲するだろうと思っていたのが、セスはよりによって銃本体で殴りにきた。そんなことをすれば銃身が歪んで弾が詰まりやすくなり、暴発の危険性が高まるのだがセスはそんなのお構いなしだ。
 顔のすぐ前にある銃口が自分のほうに向かないよう、レイは必死に拳銃を押し戻す。
 細かった吸血鬼の瞳孔が丸くなっていた。これは脳内麻薬の作用なのだが、もちろんレイにはそんな知識はない。猫みたいだ、とまったく緊張感に欠ける感想を持ったものの、すぐに気を引き締め直した。
 同じ赤い瞳でもここまで違うものか。蒼白な顔の男の紅眼は濁っている。世捨て人のように何も見えない、何も見ようとしない目だ。なのに一点だけ、奥底に油断ならない暗い光が宿っている。常にだるそうに煙草を咥えている姿には不釣合いなほど野生的に、そして全てを見透かさんと冷えている。
 これがかつて人間だった物。人間の理性を残しながら異形へ身を落とした物。
 背筋が震えるのをこらえた。これまで異形の怪物と幾度も対峙したが、これだけ人間に近く、そして底の知れない暗さを持っている物は初めてだ。


 眼球が痛い。
 生身の眼球は改造された脳が送ってくる電気信号に耐えられない。普通の人間であれば五分ともたないであろう。その状態にセスが耐えられるのは、ひとえに彼が夜族(ミディアン)であるからだ。眼球細胞が破壊されては再生する。それを凄まじい早さで繰り返しているからこそセスはレイを見つめ続けられる。もっとも、再生を繰り返すからには代償がある。ゆっくりと血が下がっていく。
 視覚の拡張。情報処理機能の拡大。人間という容れ物の限界を超えた素晴らしい能力のように思えるが、間違っても気持ちのいいものではない。身体は常に悲鳴をあげている。永遠に近いはずの身体の耐用年数を削っていく。
 だからこそ、よほどのことがなければ機械の脳を使おうとはしなかった。あのうざったい神父だってこの機能を使うほどには値しない。そしてこの吸血鬼にそんな能力があると知る者もいなかった。
 そもそも人間よりはるかに感覚が優れている吸血鬼がそんなことをする必要はないはずだ。生身のままで十分人間を凌駕できる。それが夜族であり、吸血鬼という化物だ。
「提示された物は何だ」
 交差させた銃で刀を制したまま静かに問う。日本刀とまともに打ち合わせれば拳銃などたやすく斬られてしまう。しかし銃身で挟み込むように捕らえれば別だ。所詮人であるレイの力などおそれるに足りない。わざと時間をかけてゆっくりと押し込んでいく。
 レイを追い詰めていく。


 主導権はほぼセスにあった。刀を離すまいと限界まで膨れ上がったレイの筋肉が、吸血鬼の尋常でない腕力を示している。セスの生白い腕は細いまま、力がこもっている気配すら見せていない。
「提示された物は何だ」
 感情が消えた声が聞いてきた。金属のような声音が脳髄に冷水を浴びせかける。
「金か?」
 その一言に全ての音が消えた。踏ん張って赤くなっていた顔からも血の気が引いた。食い縛った歯がギリと軋んだ。
「てめぇのような俗物と一緒にすんじゃねぇ」凪いだと思った感情の原野に嵐が吹き荒れる。「簡単に教えられるほど軽いもんじゃねぇよ!」
 吐き捨てるように言い、レイは長い長い雄叫びをあげた。
 父が打った刀を持ち、母譲りの剣を腕を揮い、大切なあの子の笑顔を心に秘め。
 銀の光が疾駆する。破れるかと思うくらい強烈に鼓膜を叩くのは銃声。
 勝負は一瞬。


 刀を心臓に突き立てる。断末魔をあげることなく、吸血鬼は塵に還った。

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