第7話

 壱哉は手元の地図を広げた。地図といっても別段何が書いてあるわけでもない。だだっ広い空白に「草原」と一言載っており、どう見ても適当に書いたと思しき赤丸が中央やや右寄りにあるだけだ。当然目印があるはずもなく、とりあえず時計と太陽だけを頼りに方角を割り出し、どこかに着くことだけを願って歩いていた。
「これってどうなんだろう」
 ひとりごちる。
「あの手紙が言ってることが本当かどうか確証もないのに、素直に従うなんて、ねえ?」
 誰ともなく語りかける。その声に応えるかのように、壱哉の周囲が蜃気楼のように揺れた。うっすらと人型を象り、またすぐに背景に溶ける。
「僕は馬鹿なのかな」
 応えるものはあっても応える人はいない。壱哉は去来した一抹の虚しさを胸の隅に追いやり、それ以上は考えないことにした。
 太陽が空高く壱哉を照らす。朝からずっと歩き通しで、そろそろ飽きてきたと思った頃にようやくそれが見えてきた。新緑の短い下生えの中にぽつんとある白いもの。それは落ち着きなくそわそわと動き、腰を据えて落ち着いたかと思えばまた動き出す。頭頂から伸びる二本の板状のものがぱたぱたと開いては閉じてを繰り返す。
「こんにちは、うさぎさん」
「わっ!」
 声をかけると驚いたようにのけぞった。白い耳――頭から生えていたのは兎の耳だった――の幼い少女だった。とても小柄で、白い髪に白い肌。そこにきらきらと輝く赤い瞳はまさに兎だ。
 兎少女は視線が合うようにとしゃがんだ壱哉をまじまじと見下ろし、
「おじさん、誰?」
 警戒心あらわに問い掛けてくる。いつの間にか両手に巨大な経木のようなものを携えている。
「僕は零のお父さんだよ」
「零ちゃんの?」
 ぱっと顔が明るくなる。
「零ちゃんならおともだちよー。いつもおせわになってます」
 ぴょこんと下げた頭の耳が壱哉の顔に直撃した。悪気はない。少女に悪気はないはずだと自分自身に言い聞かせる。そんな狭い心では父親はやっていけない。
「君がメイファちゃんだね?」
「うん! メイって呼んで」
 経木だと思っていたそれが扇型に開いた。薄い鉄冊の先端は鋭利に研ぎ澄まされている。なるほど、少女の得物は鉄扇のようだ。あれで殴られたらと思うとぞっとする。
 メイファは開いた扇をすぐに閉じ、小柄な体のどこへしまったものか、手の中から消えた。
「ねえねえ、おじさん」
「まだ若いからお兄さんって呼んでほしいな」
 二十代でおじさんと呼ばれてはたまらない、と苦笑まじりに訂正する。
「それじゃおにーさん」メイファは言い直し、「なんでここにいるの?」
 至極もっともな質問だった。
 壱哉は懐の中の封筒を思いだしながら、なんと答えたものかと考える。封筒にはここを示す役に立たない地図と、メイファの名が書かれたカードが同封されていた。まさかこの幼い少女をぶちのめしに来ましたとは言えず、さりとて何もしないで二人で草原に座り込んでいるわけにもいかない。平和主義を自認する壱哉はどうすればいいのか頭を悩ませていた。ここでメイファを挑発して鉄扇でズタボロにやられてしまえば簡単な話だったが、壱哉は痛いのも嫌だった。それに、壱哉を守るものたちが黙っているとは思えない。主の意思に逆らって反撃されては今度はメイファが傷ついてしまう。
「メイちゃんは何してたのかな?」
 咄嗟の嘘も出なかったので聞き返すことにした。
「メイ? メイはねー、ケーキさんを食べていいのかどうかで困ってるの」
 なるほど、メイファの前の白い箱の中身はケーキであるらしい。
「開けてみてもいいかな」
「いいよ。でも食べちゃわないでね」
 たしかに中には生クリームのショートケーキとチョコレートケーキであろう物が仲良く並んでいた。だが、それを見て壱哉は顔をしかめる。甘いケーキには黒い蟻が集まっていて、どうがんばっても食べられそうにない。メイファはどうしてこんなになるまで放っておいたのだろう。苦い笑みが口の端にこぼれる。
 箱の中にカードが入っているのも見つけてつまみあげた。文面を読んでこれまでのことを悟る。
「これ、食べてもいいと思うよ」
「そうなの!? 落とし物なのに交番に届けなくてもいいんだ!」
 名刺よりも少し大きいくらいのカードをメイファに向ける。
「これ、なんて書いてあるかわかる?」
「わかんない」
 気持ちいいくらいあっけらかんと答えた少女の頭に無意識に手を置いていた。耳の間を撫でられてメイファは目を細める。
「残念だけどこのケーキ、もう食べられそうにないよ」
 ほら、と中を見せる。胡麻のようにまぶされた蟻にメイファの顔が引きつった。
「お腹壊す! メイはいらないからあげる!」
「僕も貰っても困るんだけど」
 甘い物は嫌いじゃないけど、と言い足す。並の人間よりも貧弱な体なのに、拾い食いして腹を下しては娘に何と言われるだろうか。
 しかしながら、しょげているメイファをこのまま放置して帰ってしまうのも忍びない。ましてやこの少女は娘の友人なのだ。
「うん、だったらお兄さんとケーキ食べに行こうか。ずっとこんなところにいてもつまらないでしょ」
「ホント!?」
 明るく顔が転じたメイファに娘がまだ幼かった頃を思い出し、壱哉も顔を綻ばせる。少女は壱哉の腕に自分の腕を絡みつかせるが、身長差があるのでほとんどぶら下がっているようなものだ。
「えへへ。おにーちゃんだいすき」
 だけどこの警戒心の無さはどうかな、と少し心配になった。

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