雨が降れば
(2)
梅雨はまだ明けていないはずなのに、一向に雨降る様子がない。道路では、タイヤに押し潰されたナメクジがカラカラに干からびていた。
期末考査が終わった。皆とうに帰ってしまい、教室には僕だけがいた。進学のことでまた先生に呼び出されたため、やむなく残っていた。僕だけがテスト終了の解放感を存分に満喫できていない。
ランニングの掛け声、合唱部のハーモニー、プールの水音――部活動の音がここまで聞こえてくる。廊下に出るともっとよく聞こえる。
僕は家から持ってきた原稿用紙をしばらくの間眺めていたが、どうも書き出す気になれない。気分を変えようと便所に行って帰ってきたら、教室には彼女――三浦梗子がいた。僕の机の辺りに佇立していて、戸を開けたらぱっとこちらを見た。一瞬見えたのは不安と悲しみと虚無と――いくつかの感情が入り混じった、複雑な表情だった。一度として見せたことのないような弱々しい顔。だが、彼女はすぐにそれを消し、いつものように微笑を浮かべた。
「君もこんな時間まで残っていたのか」
「うん、ちょっとね」
微笑が少しだけ曇る。
「呼び出されたとか?」
「あなたと一緒にしないでよ」
彼女は僕の肩を軽く押した。もう、顔に翳りの表情はない。ただ柔らかな笑みだけがある。そのアルカイックスマイルを見ながら、僕は彼女に問いたかった。どうしてそんな弱い顔をしていたんだ? 悩み事があるならば、ひとりで抱え込まないほうがいい。悩みすぎると、僕のように身体に影響する。
でも、訊けるわけがない。僕には彼女の心に土足で踏み込む資格などないのだから。
僕の心の内など知る由もない彼女は僕の机の上を指す。
「本当に小説を書いていたのね」
指の先には、原稿用紙。買ってきた時よりも薄くなっていた。横から見れば一目瞭然、半分ほどにまで減っている。
「書こうとしている、と言っただろう? 信用してなかったんだな」
「だって、聞いただけではいまいち信じられなかったんだもの。小説が好きな人にも見えなかったし」
「ふむ」それも一理ある。「別に見ても構わないよ。見れば信じるだろうからね」
「本当?」
「うん」
彼女は僕の席に座り、原稿用紙をペラペラとめくった。僕は理学部数学科志望の彼の席に横を向いて座る。背の高い彼の椅子は僕のものより少し高い。かかとが数センチ浮いた。
「何これ」一ページ目を僕に向けて、彼女は不服そうに言った。「真っ白。本当に書いているの?」
原稿用紙には緑色の桝目が並んでいるばかりで、一文字もない。
「何度も書こうとはしたよ。だからだいぶ薄くなっているんだ。書いては破り捨てていたから」
用紙を雑に剥がした跡がはっきり判る。背の内側には剥がれなかった用紙の切れ端がこびりついていた。彼女はそれを丁寧に剥がしながら、
「苦労しているのね」
そう、それは僕の苦悩と胃痛の痕跡。不意に妙なことを思いついた。ノートサイズのたった五十枚の紙が僕をクノッソスの迷宮へと誘った。暗く、複雑怪奇な迷宮は一度入れば迷うしかない。僕はヘラクレスじゃないから姫の助力なんかない。独りで迷っていつしか牛頭の怪物に食われてしまうのだろう。光の差さない、闇の迷宮の中で――
古い時代の異国の神話と自分を重ね合わせる。その馬鹿馬鹿しさに自嘲気味に笑った。
「何、変なことでも言った?」
安心していい。僕は君を笑ったのではない。
「僕は馬鹿だよ。言葉という形のないもので創られる、小説というやはり形のないものに翻弄されているんだから」
「言葉には文字という形があるわ」
「記号にしかすぎないよ。形と言えるほど具体的なものじゃない。素晴らしい言葉を文字で表現しても、その言語を知らない人には羅列する奇妙な記号でしかない。例えば、アラビア文字で君の素晴らしさを称えた手紙がきたとする。どう思う?」
「手紙とすら思わないかもね。変な手紙って言って捨てちゃう」
「そうだろう。そして書き手の思いは君に伝わらない。文字はただの記号だ」
彼女は原稿用紙の一番上の一枚を剥ぎ取った。
「あなたはその文字に降り回されているじゃないの。――もしかして、左利き?」
「書く時と箸を使う時以外はそうだけど、それが?」
自分の頭を指差して彼女は、
「左脳は言語を、右脳は芸術表現・感覚を司っているの」
「成程ね。僕は左利きだから右脳のほうが発達しているということか」
「多分、思っていることを言葉として表現しきれない、なんてことがよくあるはずよ。小論文とか苦手でしょう?」
彼女が原稿用紙で何をやっているのかというと、折り紙をしていた。白く細長い指で几帳面に、紙がずれないように慎重に、丁寧に折り畳んでいく。しばらく眺めていると、紙は先が鋭く、細長い飛行機になった。
「どうしてそんな形がないと判っているものに執着しているの」
飛行機を持った手が綺麗な弧を描いて振り下ろされた。飛行機はさしたる空気抵抗も受けず、緩やかな放物線上を飛んでいく。僕の頭を越え、幾つかの机の上を渡り、消し跡一つない黒板に向かって飛ぶ。鼻先を無様に黒板上に押し付けて飛行機は失墜した。
何故僕はこんなに執着しているのだろう。小説を書きたいという思いはあるけれど、理由はあったのだろうか。小説を書くことは現実逃避につながっているのか。受験、受験と周りがうるさいがために僕は己の世界にこもってしまいたがっているのか。
文章表現が好きというわけではない。憧れている作家がいるわけでもない。想像ない人間はただの猿だ――たしかに僕はそれに固執しているし、その考えを捨てるつもりなどない。だが、想像の方法は無数にあるのに僕は小説を選んだ。絵画でも彫刻でも音楽でもなく、小説を――。医学的に見て右脳人間である僕には、文章を綴ることなど向かないのかもしれないのにも関わらず。
一般的に文章が上手いと言われる人々の文章には、どこかで見たような単調さがあるという。上手いがゆえに判りやすい表現をする。判りやすいというのは良く使われる表現であるということだ。読んだことがある表現が延々と続く文章など、面白くもない。つまらない論文は大抵表現が陳腐だ。
上手い文章が書けない僕の言い訳にしか聞こえないかもしれないが、小説にそのような文章の巧拙は無関係だと思う。どんなに使い古された言葉であっても、人の心を揺さぶる時は揺さぶるのだろう。まあ、僕にはそれだけの技量もないのだけれど。
僕が一行も書けない、書いても捨ててしまうというのは、書くということに気後れを感じているからではないのだろうと思う。もっと別の何か――別のものが僕を留まらせている。
こんなことを考えながら一人、家路を歩んだ。梅雨の合間の晴天はからっとした暑さではない。じっとりと湿気が多くて不快だ。汗で額に張りついた前髪をかき上げて、彼女のことを思い出した。いつも豊かな黒髪を下ろしているけれど、暑くないのだろうか。どんなに記憶を探っても、汗を拭う彼女の姿は見当たらなかった。余裕のある涼しげな笑みばかり。そして今日の見せたことがなかった暗い表情。
『もう帰るね。さようなら』
家は同じ方向だから一緒に帰ろうと誘ってみたけれど、やんわりと断られた。
別れ際の微風に揺れる黒髪が、また目の前に現れて翻ったように見えた。実際は青柳がなびいただけだった。アスファルトの上の逃げ水を凝視しながら歩く。頭が熱くてグラグラする。胃には重い痛みがあった。
その翌日、僕は学校を休んだ。胃痛がひどくて朝から三回ほど、吐いた。何も食べられなくて胃は空っぽだったから、吐いたって胃液しか出てこない。洗面台が近い、風通しのいい部屋で僕は虚ろに一日を過ごした。熱も少しあって、氷嚢を額に押しつけていた。
母親が心配して会社を休むとまで言ってくれたが、僕は大丈夫だから、と半ば無理矢理出勤してもらった。今日は大切な会議があるということくらい、息子は知っている。
全ての戸を開け放してもあまり風は入ってこなかった。本当に時々、涼しい風が軒先に吊るしてある風鈴を揺らしていった。誰もいない家に涼やかな音が響き渡る。
何も考えず、うつらうつらとしているといつの間にか夕方だった。冷やしたトマトジュースを少しだけ飲んでから胃薬を飲み、両親の帰宅を待った。
昨日、一昨日の晴天はどこかへ行ってしまった。また、雨の降りそうな天気だ。テレビの天気予報では、この地方の降水確率は八十パーセントということだ。安いビニール傘を携えて学校へ行った。
理学部数学科志望の彼から昨日の分のノートを借りて、自分のノートに写していた。字は読みにくいものの、そんなことは許せてしまうほどに判りやすい。昨日の授業の全てが彼のノートに凝縮されている。
「梶原」
「ん?」
僕は手を動かしながら、答えた。彼は椅子に後ろ向きに腰掛け、僕の様子を見ていた。
「三浦の引越しのこと、知ってたか?」
「何だって?」
我が耳を疑った。信じられないわまり、僕には彼が言っていることを理解することができない。
「三浦梗子が、転校したんだよ」
さっきよりもゆっくりと言う。僕はゆるやかに言葉を咀嚼し、意味を吸収してから顔を上げた。ノートを写す手はすでに止まっている。
「冗談だろう?」
眼鏡の奥の彼の瞳にはいつもと同じ理知的な光がある。
「冗談だと思うか?」
判っている。真面目な彼にはこんな嘘を言うだけの理由などない。理性的には判っていても、否定したがっている僕がいた。
「知らなかったようだな」
「初耳だよ」
「お前にも秘密にしていたのか。三浦らしいな。誰にも言わずにひっそりと行った――ということだな」
「――そうか」
「昨日の朝のホームルームで突然担任が言ったんだよ。三浦の転校のこと」
「じゃあ、もうこの街には――」
「ああ、いないだろうな」
予想していたはずの答えでも聞くと気が抜けた。その落胆振りが自分でもよく判る。悲しみすらも通り越えてしまった。手は、黙々とノートを写す作業を再開する。そんな僕をやはり彼は冷淡と思うか。何も言わないでいると、眉根を寄せて、「早く返せよ」と言ってきた。僕の返事はこうだ。「努力するよ」
手は動けども、心はこもっていなかった、抜けた魂は天井の蛍光灯の辺りを漂っているのだろう。
郵便受けを覗くと葉書が二葉、封筒が五通入っていた。封筒のうち、二通が僕宛だ。片方は予備校のダイレクトメールで、片方は裏に『三浦梗子』とある。
「ただいま」
返事などなくとも、帰ってくるたびに僕は言う。誰かを求めているかのように声は玄関ホールに響いた。
部屋にバッグを置き、着替えてから台所へ入る。冷蔵庫には少し濃くなっている麦茶があった。製氷機はガチガチに凍っていて、触れると指にくっつく。剥がすと痛いけれど、冷たさを伴った痛みだから、悪い気はしない。八角形のグラスに氷を入れて、麦茶を注ぐと氷が弾けた。
今にあるペーパーナイフはデザインがシンプルで実用性が高く、気に入っている。それを彼女からの封筒の隙間に潜り込ませ、封を開けた。やたらと重いなとは思っていたけど、何枚もの便箋が入っているのにはいささか驚いた。うっすらと紫陽花がプリントされた、淡いブルーの便箋。数えてみると全部で八枚。いずれも丁寧な彼女の文字で埋められていた。
居間で雨音を聞きながら、僕は手紙を読んだ。
『梶原祐一様
突然の手紙であなたは驚いているでしょうか。いいえ、怒っているのかもしれませんね。今回の引越しは春から決まっていましたが、私は先生以外には全くお知らせしていませんでした。幼い頃から転校の多い私は、いつもそうしています。別れる際にみんなの顔を見てしまうと、どうにも発ちがたくなってしまうからです。
しかし、どうしてこうやってペンを取っているのかというと、別れの挨拶のためではありません。以前お約束した私の冗談をお話するためです。憶えていますよね? 『弟を殺そうとした』という話です、小学校五年生の時の、今から七年も前のことです。
私と家族は三回目の引越しで、山が近い小さな町にやってきました。本当に小さな町なんです。人口はやっと五千人を超えたところだと聞いていました、面白いことに、その五千人目は私たち家族でした。
町のメインストリートであるらしい通りに沿っては家が密集していましたが、その周囲には畑と田圃が広がっていました。山裾から向こうに見える隣町まで、ずうっと田畑なんです。ビルなんて建っていません。ところどころに一、二本樹木が生えていたり、町よりも小さな集落が見えます。こんな風景はその時の私はみたことがありませんでしたから、素直にその景観に見とれていました。
小学校も小さなものです。町と共有される体育館は出来たばかりで、新しいペンキが光を反射して眩しかったことを憶えています。でも、校舎のほうは木造で、二階までしかありません。廊下は歩くとぎしぎしときしみ、隙間風がひどい。夜ともなればお化けが出そう。そんな建物でした。校庭だけはやけに広かったですけどね。一つの学年につき一クラスだけだったのでみんな仲が良かったです。私と弟も当然、その学校に入りました。小さな社会は余所者に厳しい、ということを母が言っていましたけれど、そんなこともなく、私たち姉弟は学校での生活、町での生活に少しづつ馴染んでいきました。
転校してから三か月――暑い夏の季節となりました。ある日、学校から帰ってきた私に、先に帰っていた弟が泣きついてきました。顔中ぐしゃぐしゃで、お世辞にもきれいとは言えません。二年生の弟は小さくて、私の腰ほどまでしか背がありませんでした。私のオレンジ色のTシャツは弟の汗と涙で濡れてしまい、着替えの必要がありました。私は弟の顔を絞ったタオルで拭いてやりながら、できるだけ優しく「どうしたの?」と訊きました。なかなか泣き止まない弟でしたが、落ち着いてくると、嗚咽混じりながらもようやく理由を言いました。どうやら学校でいじめられたようなのです。身体が小さいとか町の人間でないからといったことではなく、泳げないかららしいのです。弟はどちらかというと内向的な性格で、運動よりも読書を好みました。決してスポーツは得意ではありません。水に入ることはできても泳げない、ということが弟の悩みでした。私は頷きながら、繰り返される弟の言い分を聞き、その背を柔らかにさすってあげました。
「じゃあ、練習しよう、ね?」
私も運動は得意ではありませんが、水泳だけは大好きでして、毎日のように泳いでいました。そのせいか、夏だけは体育の成績が良かったんですよ。当然、弟もそれを知っていましたから、何度も何度も頷きました。
次の日から練習を始めました。人に見られたくない、という弟の要望で学校のプールや川は避け、地元の人には丸池と呼ばれている池を利用しました。こんもりとした森林の仲にある神社が所有していましたが、一般にも開放されていました。泳ぐことも出来ます。直径は十メートルくらいで、無愛想なコンクリートで塗り固められた円形の池です。中央には直径一メートルもない円形の台があります。そこからは鈍い色の細長い棒が突き出していました。当時はあれが何なのか、不思議でした。ただの飾りにしては愛想がなさすぎたのです。思い出している今は、あれは噴水ではなかったのかと推測しています。水が出ているところなど一度として見たことはありませんでしたが。
森閑とした木々の間に水を跳ねる音が響きます。池は私と弟の貸切でした。ただ、一時間ごとに神主さんが来ては励ましや注意の言葉を掛けてくださいました。
水に顔をつけることから始まり、三日目には頭の先まで浸かることができるようになりました。ですが、池は弟の身長よりも深いので、私につかまりながら、です。腕につかまる弟の小さな手は柔らかく、実に頼りないものです。それでも力一杯、私の腕にすがっているので、練習を終えて水から上がると、腕にはピンク色の手形が残っていました。
水泳のテストが近いからか、弟は焦っていました。これは後から聞いたことなのですが、クラスの友達と賭けをしていたらしいのです。テストで五メートルも泳げなければ、一週間、登下校で荷物持ちということでした。だけれど、潜ることはできても、それ以上の進歩もなく、テストの日は一日、また一日と近付いてきます。バタ足は不恰好で前に進めず、身体は半分くらい沈んでしまいます。
いらいらしていたのは私も同じでした。弟の手を取り、叱咤激励の毎日にうんざりとしていました。
全く進歩の見られないまま、明日はテストという日になりました。木漏れ日の中、小一時間ほども練習したでしょうか。弟がついに弱音を吐き出しました。池から上がって草むらに座り込むと、「もう無理だ」と泣くのです。足は土で汚れ、長めの前髪から水が滴り落ち、弟は泣き続けました。わずかに差す陽の光で身体についた水は蒸発しているのに、顔を伏せた腕は濡れたまま。
私はしばらく水の中でその様子を眺めていました。泣き声と、蝉の声だけが聞こえていました。揺れる水の上を気の早いトンボが低く飛んでいきます。そうしていてもどうなるわけでもないのに、随分長い時間を費やしました。私の唇は紫色に変色していたでしょう。鳥肌が足元からじわじわと這い上がってきていました。
ざばりと水から上がり、弟の身体を、脇の下を持って、持ち上げました。あまりにも軽く、私の力でもあっさりと持ち上がりました。私の突然の行動に虚を突かれ、弟は目を丸くして泣き止みました。そのまま反転し、私は弟を――池の中へ放り投げました。
飛び散った水が私の顔を濡らしましたが、拭いもしないでずっと、池を見ていました。弟は足もつかない、手も届かないところでもがいています。両腕で水を打ち、時折頭が潜ります。水面下では足も激しく動いていたことでしょう。目と手は明らかに私に助けを求めていました。「助けて、助けて」と繰り返される声が水音の間を縫って聞こえます。
だけれど、私はただその様子を眺めていました。不思議なことにその時の私には感情と言えるものは全くありませんでした。泣き叫ぶ肉親を前にして、一片の情のかけらも湧き起こらなかったのです。
泣き喚く弟。
冷ややかに見つめる私。
弟の声が弱々しくなってきた頃です。異変に気がついた神主さんがやってきて、服のまま、池に飛び込みました。弟はその袂にすがり、いくらか水を吐くと、先ほどよりも高い声で号泣しました。しかし、濡れたその目はしっかりと私を睨んでいました。
私は両親に頬を張られ、社務所でも、家でも怒鳴られました。当然ですね。「簡単に諦めるから」とか「死ぬ気になれば泳げるようになれると思ったから」といった私の言い訳など無意味でした。実はその言い訳にしても後から考えたものでした。何故弟を池に放ったのか、自分でもよく理由が判らなかったのです。頭の中は真っ白で、何事も判断しがたくなっていました。自分が自分でないような、そんな気持ちです。
「死んでしまうところだったのよ!」
甲高い母の怒鳴り声が私を目覚めさせました。麻痺したようだった私の感情に一気に火が点き、とめどなく涙が溢れてきました。そして弟を殺そうとした、という自分の残酷さにとてつもない恐怖を覚え、震えました。襲いかかる罪の意識に小学生の精神が耐えられるのでしょうか。両親の服を涙で湿しながら、私は嗚咽混じりに発狂したように謝罪し続けました。母の言葉は水の入ったガラス玉にヒビを入れたのです。
――私の話はここまでです。その後、私と私の家族がどうなったかについてはあなたの想像にお任せします。私の中ではこの物語はここでぷつりと途切れているので、これ以上を語ることはできません。ただ、これだけは言えます。このことは私に暗い闇をつくりだしました。今でも罪の意識にさいなまれることがあります。
梶原君、あなたとは二週間ばかりしかお話できなくて、残念です。短い期間ではあったものの、実に楽しい日々でした。貴重な体験にも付き合わせてくれましたしね。今回のことは黙っていて本当にごめんなさい。そして、ありがとう。
あなたの小説が無事に完成することを願っています。
三浦梗子』
消印は昨日の日付だった。彼女の新住所は全く書かれていなかった。
この手紙が創作なのか、真実なのか、僕には判定できない。彼女の言葉を判別できるほどに僕は老成していない。今ここに彼女が現れ、いつもの微笑とともに「嘘よ」と言ったとしても、素直に信じることができるのだろうか。
そういえば、雨が降ったら教えてくれると彼女は言っていた。今日はまだまだ止みそうにない。とめどなく窓を伝い流れていく。
あれからだいぶ経つ。不安を残しながらも志望の大学を決めた僕は、否応なく受験戦争に追われている。時間は冷徹で、人を待ってくれはしない。窓の外の景色は移り行く。冷たくなってきた風が部屋に吹き込んで、参考書のページをペラペラとめくった。
まだ、小説はできていない。本立ての薄い原稿用紙を開いても、相変わらずそこに文字はない。忙殺されていて、創作に頭を悩ませる時間すら奪われている。明日もまた、模擬試験だ。我知らず、溜息が漏れる。
久し振りに読み直した手紙を元通りに封筒に入れると、上から二番目の引き出しにしまった。わずかに切ない思いとともに――
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