雨が降れば
(1)

 小説を書こうと思い立ち、五十枚綴りの原稿用紙を二冊買った。幼いころからの知り合いである文房具店の店員は、清算しながら「これ、どうするの?」と訊いてきた。僕はペンやノートくらいしか買ったことがなかったから不思議に思ったのだろう。
「小論文の練習をするんです」
 人生四十八回目の嘘をついた。
 帰宅してから真新しい原稿用紙を机の上に出した。黒ボールペンを握ったものの、腕は全く動かなかった。何を書いたらいいのか判らなくなってしまった。帰り道ではあれを書こうか、これを書こうかと悩んでいたのだが、今は言葉ひとつ出てこない。いざ書かんとするも、ペンは一文字も書こうとしない。僕は一番上の一枚にグチャグチャと不恰好で奇妙な図形を描くとそれを破り取り、丸めて屑篭へ放った。反故は篭の縁に当たってフローリングに転がった。


 雨が、降っている。
 気象台が入梅を宣言してから一週間目になる。雨音しか聞こえない進路指導室で、先生と向かい合っていた。僕との隔てとなっているテーブルの上には何も書き込まれていない進路希望調査書が載っている。
 腕を組んでいる先生と、ただ椅子に座っている僕の視線は交わることなく、ただ一点――その調査書に注がれている。ザァザァという雨の音が耳の奥にまで響いている。これほどに静かな校舎は初めてだ。人の声がしない。
 ザァザァ、ザァザァ。
 雨粒が屋上にたたきつける音が場を支配する。
「梶原」沈黙が破れ、僕の名前が呼ばれる。「これからどうしたいんだ」
「――判りません」僕の声は他人のもののように遠く、掠れていた。「今何をしたいのか、将来何をしたいのか、全く判りません」
 イメージの中の僕の目の前には常に靄がかかっている。音もなく霧雨が降り、見通しが悪い。遥か向こうに見える筈の数年後の僕の姿は見えない。膝にまで立ち込めるスモークが僕の足元を覆い隠している。進むべき道すらも見当たらない。地図もないし、道もない。ただ、立ち往生している。今の僕はそんな世界を彷徨っている。
「勉強ばかりが大切だとは言わない。若い君にはやりたいことがたくさんあるだろう。だが、今、迷いすぎているから勉強だけでもしろと言うんだ。勉強は進むべき道を示してくれるだろう。私はあまりにもふらふらしているお前が心配なんだ」
「――」
「まぁ、私はゴールとも言える場所にいるからこんなことが言えるんだけどな。君にはわからないかもしれない。方向だけでも決めておかないと、あとから苦しむことになるぞ。勿論、今すぐにみつけだすことは無理だろうが。ご両親とは相談したか?」
「親は、大学へ行け、と――」
「君は?」
「僕は──」判らない。そこで口をつぐんでしまう。
「あと一週間」先生は右の人差し指を立てる。「一週間だ。時間をやろう。それまでこの調査書の提出を待つ。来週までよく考えておけよ」
 先生は溜息をつき、テーブルの上の資料をまとめてファイルに放り込んだ。僕は立ち上がって一礼し、退室した。何も言わない。──いや、言いたくなどない。やむ気配などなく、むしろ雨は激しくなっている。不快な湿気が僕にまとわりついていた。不快さに苛立って前髪をかきあげようとした時、じっとりと額が濡れていた。
 いつもよりも滑りやすくなっている廊下を注意深く、歩いていく。ゴム底の上履きと廊下が擦れあって、決して良くは聞こえない音を発した。
 無人の教室。濡れる窓ガラスをぼんやりと眺める。自らの重みで流れ落ちてゆく滴がそれにつれて段々と大きくなっていく。その通過した後を指でなぞってみた。油がくっきりと浮いた。
 ガラリと戸が開いた。
「また先生に呼び出されていたみたいね」
 艶やかな黒髪の同級生が僕に微笑みかける。彼女は周囲の何倍も大人びて見える。僕のクラスメートであったはずなのだが、名前が思い出せない。何という名だっただろうか?
 彼女は持っていたプリントを机の上に置くと、僕の隣に並んで窓の外を眺めた。
「聞いていたのか」
「ううん」頭を振る。「偶然進路指導室から出てくるところを見たの。どうせまだ調査書を提出していないんでしょう?」
「どうして知ってるんだよ──」
 彼女は思わせぶりに、「秘密」片目をつぶって見せる。
 窓の外へと視線を転じ、さっき僕がやっていたのと全く同じ事をした。流れた滴の跡を指で辿る。窓ガラスに二筋の指跡が残った。
「雨、やみそうにないね」
 ザァザァ、ザァザァ。雨が降っている。前庭の芝生も、桜の樹も、創立記念碑も、全てが何も言わずに雨に濡れている。人の姿は見当たらない。皆、帰ってしまったか。
「うん、やみそうにないね」
 ガラス窓の、僕が触れていた部分が白く曇った。手を離すと、僕の手と同じ大きさの形が残った。
「学校が好きなの?」
「どうして?」
「いつまでも調査書を出していないから」
「まさか」と僕は笑う。「好き、というわけではないよ。嫌いでもないけれどね」
「でも、きっと潜在的には好きなのよ。こうやって放課後になっても残っているのが、その証拠」
「違うよ。好きで残っているんじゃない」
「他に理由があるの?」自信に満ちた彼女の言動が可笑しくて、つい僕は声に出して笑ってしまった。
「何よ。笑うなんて失礼ね」
「君は一番簡単な理由を見落としているよ」
 腕を組み、背を窓に預けた。ワイシャツが濡れる。ひんやりとして心地好い。
「傘を忘れたんだ」
「何だ」
 さもつまらなそうに彼女は言う。
「好きだから、と答えたほうが君を満足させられたかな?」
「別に。どんな理由であれ、あなたが残っているのは事実だもの」
 誰が持ってきたのか、教卓の上に生けた紫陽花が置いてあった。鮮やかな薄青が、湿気をたっぷりと含んだ空気を緩和している。紫陽花はじめじめしたこの季節にこそ相応しい。
「君こそ、学校が好きだから残っているんだろう?」
「違うわよ」
 彼女は紫陽花を眺めながらそう言っただけで、理由は言わなかった。僕もあえて訊こうとはしない。少し不公平だ、とは感じたけれど。
「やっぱり傘を忘れた──とか?」
「あなたじゃないわ。ちゃんと持ってきたもの。置き傘もある。──そうだ、一本貸してあげる。そうすれば帰れるでしょう?」
「いいのかい?」
「構わないわよ。今日中にはやみそうにもないしね」
 僕は外を見た。向こうに見えるビル群がぼんやりと霞んでいる。雨足は限りなく遅い。夏至も近いというのに、激しい雨のせいで早く夕闇が訪れそうだ。
「助かるよ」
 彼女は微笑で応えてくれた。


 ベッドの上にバッグを投げ出し、着替えもせずに制服のまま、机の引出しからクラス写真と名簿を引っ張り出した。四月始めに撮ったもので、あまり気に入っていない。僕は元々写真写りがよくない上、がちがちに緊張した顔になっている。口元が引きつって奇妙な形に歪んでいた。
 クラス写真では生徒は出席番号順に並んでいる。僕は最前列の左から六番目。つまり、出席番号は六番だ。いや、自分の顔などどうでもいい。彼女の姿を捜す。二十一人目からが女子となる。一人一人指で辿りながら、記憶の中の彼女の姿と照らし合わせる。早く見つけないと忘れてしまう。──いた。三十六番目。黒い瞳で真正面を見据えている。本人を前にしているような錯覚を覚え、思わず目を逸らした。
 クラス名簿の三十六番目──三浦梗子。そんな名前だった。思い出せなかったのは、今まで接点というものがひとかけらもなかったからだ。今年同じクラスになり、そこで初めて彼女の存在を知ったくらいだ。それまでは同じ校舎にいても、顔を合わせたことなどなかった。
「三浦、梗子」
 声に出してみる。全く馴染んでいないが、どこかで聞いた名前ではある。人の名を憶えることは少し苦手だ。今日は失態を見せずに済んで良かった。
 名前の次の住所の欄を見ると、僕と同じ地区に住んでいることが判った。そのうち、登下校の時にでも会う機会があるかもしれない。
 

 原稿用紙にはまだ何も書いていない。書きたいものも決まっていない。本当に小説なのか──?僕は何を書こうとしているんだ? 文芸作品という枠に入るものであることは確定しているものの、どう書いたらいいのか、迷っている。
 書こうとする理由は何か──この問題に突き当たった。答えの出そうにない問題を考え続けた。朝も、昼も、夜も、勿論学校にいる時も。僕は迷い、悩み、苦しみ──まさかここまで影響がでるとは思わなかった──とうとう胃を壊してしまった。


「馬鹿」
 夢うつつの僕の上に声が降ってきた。聞き覚えのある声。うっすらと目を開けると、三浦梗子が僕を見下ろしていた。彼女の頭の更に上に蛍光灯があって、顔の輪郭がぼやけて見える。
 白い。天井が白い。僕と周囲を遮断しているカーテンが白い。胸の辺りまでかけられている毛布が白い。シーツが白い。ああ、とそこで思い出す。この白い部屋は保健室だ。
 鳩尾の辺りに痛みを感じ、僕は顔をしかめる。はっきりと目が醒めた。
「本当に馬鹿よ」
 彼女は隣のベッドにどさりと僕のバッグを置いた。重そうにベッドのスプリングが短い悲鳴を上げる。いつの間にか昼休みになっていた。
「どうして君がいるんだ?」
「保健委員だもの。クラスメートの様子を見てくるのも仕事の一つ」
 僕の額と自分の額とに交互に手を当てる。体温の低い、ひんやりとした手の感触は寝起きの僕には心地好かった。このままでいるのも悪くないよな、と思っていたら唐突に手を引いた。
「熱なんてないじゃない」
「風邪じゃないんだよ」
 病床に伏せっている者は皆、熱があると彼女は思いこんでいるらしい。
「ここ」と僕は身体に手を当てる。
「腸?」彼女が訊く。
 僕は首を横に振る。「その上」
「胃?」彼女に向かって頷いた。
 大きく息を吐き、彼女は僕の腿の近くに腰掛けた。「呆れた」
「何に」
「あなたに。どうせ進路のことで悩みすぎたんでしょう?」
 忘れていた。今日は希望調査書の提出締切日だった。この一週間、あの問題のことで頭が一杯で、考えている余地がなかった。あとで、先生のところへ行かなければ──
「それとも勉強のしすぎ?」
 からかいの言葉が僕に向けられる。僕は苦笑するばかりで何とも言い返せない。ここに来た時も校医の先生に同じようなことを言われた。受験生、というと皆一様にそう思うものだろうか。
「だいぶ顔色が悪いわ。無理はしないほうがいいわね」
「そんなにひどい顔してる?」
「してる。人の限界に挑戦してみましたという感じね。青白いし、目の周りが黒くなってる。見てみたい? 鏡なら貸すけど」
 スカートのポケットから水色の小さなコンパクトを取り出した。僕の手の平ほどもないそれを受け取って開くと、中には小さな櫛が収まっていた。小さすぎて、本当にその役割を果たすのかと疑問が湧いた。
 蓋の裏側の鏡を覗きこんだ。本当に人の限界に挑戦してきたような顔だった。青白いだけでなく、少し頬がこけている。隈も大きく広がっていた。愛着の持てない自分の顔がますます厭になる。
「ありがとう」コンパクトを返す。「自分の顔を見ても面白くもないことを思い出した」
「嫌い?」
「嫌いだよ。身体の一部と認識できないから」
「そういう考え方も胃痛の原因かもね」彼女は立ち上がる。「そろそろ行くわ。予鈴が鳴るから」
 言い終えると同時にやけに間延びしたチャイムが鳴った。くぐもったその音は、すっかり弱ってしまった胃に響く。だが、僕は耐えた。露骨に痛覚を表情へと変えれば、彼女に要らぬ心配をさせてしまう。
 ──痛い。きりきりと締めつけられるような痛み。
 チャイムの余韻を聞きながら、「早退するなら早く帰ったほうがいいわよ。雨が降りそうだから」彼女が言った。カーテンを分けて窓の外を見ると、どんよりと濁った色の雲が空を覆っていた。
「そうすることにするよ」微笑したつもりが、苦虫を噛み潰したような顔にしかならなかった。
「お大事に」
 スカートを翻して彼女はカーテンを割ってその外へ出た。薄いカーテン越しに、うっすらと紺色のブレザーが見える。紺色のシルエットだけの彼女が出ていってすぐ、授業開始のチャイムが鳴った。
 結局その日は放課後を待たずに早退した。痛みを堪えてバスに乗り、家へは帰らずにそのまま病院へ向かった。「一度検査してもらったら?」という校医の先生の言葉に従ったのだ。
 受付を済ませ、規模の割にはさして広くない待合室に来てみれば、その人の多いことにいささかうんざりとしてしまった。


 土曜日。忘れていた数学の予習をやりながら、左腕を掻いていた。手首から十五センチメートルばかりのところを、早くも蚊に食われてしまった。薬を塗ってもかゆみは治まらず、ずっと掻き続けている。掻けば掻くほど痒みは増すが、どうにも掻かずにはいられない。
「梶原君。胃の調子はどう?」
「おかげさまで、上々だよ」
「何よ、それ」イチゴ牛乳のパックを持った彼女は隣の席の椅子に斜めに腰掛けた。「調子がいいってこと?」
「まぁ、痛みは治まったけどね。今日、検査なんだ」
 だから、昨日から何も食べていない。今は朝食代わりに紙パックのウーロン茶を飲んでいた。苦味が口の中に残っている。
 言いながらも僕の手は数式を解いていた。機械的に、ではなく人間らしく時折動きが止まり、悩みながら。
「ここ、判らないんだけど」と彼女に訊くと、「こうやって因数分解するの」と手を伸ばして僕のノートに書き込んでいく。解くスピードが僕とは段違いに速い。
「すごいね」
 数学が苦手なだけに素直に感心してしまう。早くて、しかも綺麗。整然と並ぶ数字と記号を見て唸っていると、彼女はさもつまらなそうに、
「全然すごくないわよ。こんな、将来役にも立たなそうなものができたって何にもならない」
「いや、すごいと思うよ。それだけ数理的な考え方が出来るということだろう?」
「数理的? そんな冷たい思考は要らない。大っ嫌い」
 誰もいない空間に向かって、何かを追い払うかのように強く右手を振った。偶然、その先を通りかかったクラスメートがぎょっとして自分の顔を指した。「俺?」
「ううん。あなたじゃなくて世の数学者全てに向かって」
 どんな時でも彼女は冷静だ。臨機応変がきく。
 クラスメートは変な顔をしながらも教室を出ていった。
 何がおかしかったのだろうか。僕と彼女は顔を見合わせると、笑い出してしまった。互いの紙パックの角と角を軽くぶつけ、
「全ての数学嫌いの幸せを願って!」
「お前ら何で笑ってんの?」
 僕の前の席の奴がいぶかしんで振り向いた。けれど、理学部数学科志望の彼には僕らの気持ちは理解できまい。
「変な奴らだな」彼は正面に向き直る。そんな些細なことが余計におかしく思えた。
 ひとしきり笑うと、始業は目の前だった。笑い涙を拭きながら彼女が、
「検査に行くならついていってもいい?」
「どうして」
「だって、何か面白そうなんだもの」
「物好き」
 僕は呆れた。彼女は僕の言葉を鼻で笑って一蹴する。それだけの仕草がやたらと眩しく思えた。


 風は強いのに灰色の雲は一向に途切れる気配すらない。上空を見上げていると、さっと黒いものが鋭く横切った。燕、と気付いた頃にはすでに遅く、何処へ行ったのか判らなくなっていた。
 道の向こう側にいた女の子が母親の手を引いて、一点を指差している。ちょうど燕が向かったのであろう方角だ。その小さな鳥を気に留めたのは女の子と僕だけだったようだ。周囲の人間はせかせかと動いている。女の子の母親も、娘に注意を促されるも、「ええ、そうね」と言っただけで取り合おうとしない。
「どうしたの?」
 前を歩いていた彼女が、突然立ち止まった僕に声を掛けた。どこか楽しげなのは気のせいなのだろうか。僕はと言えば、憂鬱だ。
「燕がいたんだ」
 ズボンのポケットに突っ込んでいた手を出した。そして女の子と同じ方角を指す。
「あっちへ飛んでいったらしい」
「いないじゃない」
 しばらくは伸び上がったりして黒い影を探しているようだったが、諦めたようだ。
「本当にいたんだよ。すぐ上を通ったんだ」
 僕はどこか幼い少年のように、むきになっていた。こんなふうに自分の主張を強く押し出すというのは実に久し振りだった。反発せず、周囲の流れに逆らわなければ全ては穏便に、事無く進む。そう信じているから、余程のことがないと僕は自分の強調することはない。幼い頃からのことなので慣れている。黙っていてもストレスなど溜まらない。――いや、無意識の奥には溜まっているのだろう。小説を書こうとしているのも、それらを全て吐き出したいがためか。自問しても答えなど出てくるはずはなく、また胃がきりりと痛む。
「いたのよ」
「え?」
「燕はいたのよ。低く飛んでいたのも、雨が近いから」
総合病院なので受付は愛想のないコンピューター。緑色のカードを差し込むと、合成された女性の声で受付確認の旨が告げられ、カードが排出される。
 検査はすでに予約してある。内科を経由して三階、内視室へ。六つの小部屋から成る内視鏡室は建物の北側にあるせいか、昼間なのに薄暗い。日光も差さないのにブラインドは中途半端に下ろされ、蛍光灯はぼんやりとぼけた光で辺りを照らす。
 患者は壮年から老年オ人々ばかり。僕のような若者など、場違いなことはなはだしい。まして、付き添いはこれまた若い女の子。制服姿の僕たちは、やたらと場から浮いているように思えた。だが、僕たちに興味を示そうとした者はいなかった。皆押し黙り、うつむいている。これからのことを考えれば憂鬱にならざるをえない。僕も、気が重い。
「では、これを飲んでくださいね」
 もたれている薄い壁を通して、麻酔室での声が聞き取れる。陰気のなかで医師たちは不必要なほどに陽気だ。僕たちと同じくらい、ここにそぐわない。患者の暗い心を打ち消すためなのだろうが、わざとらしい明るさに逆に怖くなる。目の前をカルテを持って行ったり来たりしている看護婦も何が楽しいのか、絶えず笑みを浮かべている。僕たち患者は――これから裁かれる咎人か。
「ここは世界の終末の縮図ね」
 長い髪をいじりながら、正面の人体解剖図のポスターを眺めている。長い間貼りっぱなしであるらしい。縁が茶色に染まってきて、セロファンテープの跡がくっきりと残っていそうだ。鮮やかであったはずの臓物の赤は長い時を経て色褪せている。
「じゃあ、世界の終焉にはこうやって、身体の中に内視鏡を入れられるのを待っているのかい?」
「それはそれで楽しいかもしれないわよ」
「僕は遠慮するよ」
 その時、看護婦の陽気な声が僕の名を呼んだ。
「じゃあ、行ってくる」
「頑張ってね」言って、小さくてを振る。
 この歳にして胃カメラを飲む羽目になるとは思わなかった。とても不安だったけど、彼女がいてくれたおかげで幾らかは不安が和らいだ。
 そして僕は麻酔室に入った。


 珍しく、夕方の河原は風が凪いでいた。対岸には無機質の灰色の街。段々と影が東へ伸びていく。僕と彼女はちょうど鉄橋の影が落ちるところに座っていた。少し湿った芝生も気にしない。僕の座った位置は、何とも具合の悪いことに、顔の半分にきつい西日が当たってしまう。そこだけがじっとりと汗で濡れている。
 時折、家路を急ぐ人々を詰め込んだ電車が通り、錆びはじめた鉄橋はぎしぎしと不安を込めてきしんだ。
 陽光を反射する川面を眺めながら、僕はさっきから口を金魚のようにパクパクさせていた。
「どう。麻酔は切れた?」
 彼女が差し出した缶ジュースの表面一杯に水滴が浮いている。受け取り、陽光で火照った頬に当てると気持ちいい。プルタブを起こして一口飲んだ。きわめて濃度の薄いスポーツドリンクが食道を流れ落ちていく。
「まだちょっと喉の奥のほうが麻痺してる」
 喋ること自体にはそう支障はないが、少々舌足らずになってしまう。感覚を失っている喉は自分のものではないようだ。何かを飲み込みきれないような、奇妙な感じがする。スポーツドリンクだって、そのまますとんと胃に落ちてしまっているように感じる。
「ストレスが溜まって痛くなったんでしょう? 一体どうしたの。あなたらしくない」
「悩みなんてなさそうに見える?」ジュースを飲みきると、空のコンビニの袋に放り込んだ。食べるものは買ってこなかった。勿論、腹は空いている。昨日の夜から何も食べていない。だが、物は食べたくない。
「見える。物事を深く考えず、固執しないようにしている感じがする。ああ、何も考えていないというのとはまた別だからね」
「僕はそんなに器用じゃないよ」
 苦笑する僕を彼女はじっと黒い瞳で捕らえる。深淵のように、深い闇色。
「――笑わない?」
「笑える理由なの?」
 僕は首を振り、膝に顔を埋めた。
「考えていたんだ。僕の理由を」
「――理由?」
「小説を書こうかと思っているんだ――その理由」
 どうして僕は彼女にそんなことを話す気になったのだろう。誰に話すつもりもなく、これは僕個人の問題であったのに。恐らく、その時は彼女ならば答えを出してくれると、他力本願になっていたのだ。
「作家になりたいの?」
 また、首を振る。
「何かを表現したくなったのかもしれない。自分の手で何かを生み出したくなったのかもしれない」
 何の想像――それは創造でもある――もしない人生など実りがない。人が他の動物と一線を画しているのはその想像という人特有の行為のおかげだ。想像しない人間など、ただの喋る猿だ。
「はじめは何を書こうかと迷った。小説、と一口に言っても様々なジャンルや形式があるだろう? その中から一つのジャンル、一つの形式を選択することができなかったんだ。作り話ではどうも伝えたいことが十分に伝わらないような気がして。ならば僕自身を描けばいい。そして原稿用紙に向かったものの、今度は頭の中が真っ白になった。――ないんだよ。僕は文字に表現するに値するほどの出来事なんて、経験したことがないんだ。過去のどの部分を輪切りにしても、穏やかに毎日を過ごす冴えない僕がいるだけだ」
 そして僕は戸惑った。書くべきものがない僕には書く資格などないのか、と。
「どうして僕は書きたがっているのだろう。僕が書きたがっているものはどうやって定義付けたらいいんだろう――考えても深みにはまっていくばかりだ」
「見つからない答えを求めても空しいだけよ。解答の代わりに得られるものは胃痛だけ」
「はは……まったくその通りだ」
 無意味に僕は足元の草をむしり取っていく。雑草に混じって芝生も大地から剥がしてしまう。
 彼女はいつも冷静で的確だ。正確に痛いところを突いてくる。彼女の言葉の全てが真実ではない。時には嘘や見当外れなこともあるだろう。彼女だって完璧ではない。だが、その言葉は大きな現実味を伴って僕に迫ってくる。図星を射抜かれて、僕は言葉の重みを痛感する。
 花壇の陰にいた子猫が僕たちのそばに寄ってくる。「おいで」と彼女は手を伸ばす。小さな茶トラの猫は短めの尾のカーブを微妙に変えながら、その手に近寄った。しばらく彼女の手に鼻先を近づけていたけれど、手以外には何もない、と判ると顔を背けて別のほうへ行ってしまった。
「あ、待ってよ」
 彼女が立ち上がると猫の優雅な後ろ姿は走り出した。また花壇の陰に消える。
「何よ、あれ」
「頭がいいんだよ。食べ物をやらないとすり寄ってくれないんだ。いつもそうだよ」
「現金な猫ね」
 花壇を見つめたまま、悔しそうに言う。
 その時、にわかに風が吹いて彼女の髪を大きくなびかせた。
「……」
 視線はそのままで、彼女が何かを呟いた。風で声が流れて聞こえなかった。
「何?」
 訊き返す。
「弟を殺そうとしたことがあるの」
「――どうして?」
 驚きを押し隠し、できるだけ冷静に、と自分に言い聞かせる。僕の声はずいぶんと小さかった。
「理由を聞きたい?」
 振り向いた彼女の顔に鉄橋の影が落ちていた。出てきた風のせいで彼女の髪は顔にかかり、どんな表情をしているのか、判別できなかった。だが、口元は微笑んでいるように思えた。
「どうしても知りたい?」
 僕の鼓動は早くなっていた。驚愕と好奇が胸を満たす。平凡な過去、平凡な生活の平凡な僕には彼女の告白めいたものがどれだけ不思議な響きとして聞こえたことだろうか。
 また、一方では、人の闇、彼女の暗部に触れてしまいそうで恐ろしくもあった。彼女から言い出したこととはいえ、過去の暗い領域に踏み込むことが良いことであるはずがない。
「話してもらいたい?」
「君が言い出したんだろう? そんなことを聞かされて気にならない人間がいるかい?」
 彼女は髪をかきあげ、「やっぱりそうよね」微笑んでいた。
「何があったんだ」
 はやる気持ちは抑えがたい。それを悟られないようにと鉄橋を見上げたら、たまたま電車の乗客と目が合った。僕と同じような冴えない顔をした、サラリーマン。真意の知れない瞳には疲労が張りついていた。僕を一瞥すると折り畳んだ新聞に目を落とした。
 また僕と並んで座った。眼前に広がる灰色の街に目をやったまま、
「――嘘」
「ん? 何だって?」
「冗談よ、冗談。こういうことを小説にしたら面白いんじゃないかと思って」
 微笑はいつの間にかいたずらっ子の顔に変わっていた。
「性質(たち)が悪いよ」
 僕もまた、笑っていた。冷や冷やさせられたけど、一時の余興としては悪くない。つまらない笑い話と比べれば遥かにいい。
「本気にした?」
「したよ」呆れたような苦笑を見せた。「普通は冗談とは思わないさ。だけど、面白いよ。その冗談に続きがあるなら聞きたいな」
「あるわよ。あるけど――今は教えない」
「ケチ」
「ケチで結構。別の時に話してあげるわよ。――そう、雨が降ったときにでもね」


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