恋なんて知らない
玄関口。靴を履きながら鏡に向かって口を開ける。
歯磨きオッケー、髪オッケー。
ブレザーの襟をきちんとただして今度は笑顔をつくる。
服装オッケー、笑顔花マル。
いつもの行事を済ませて鞄をつかみ、元気に玄関を出る。さあ、今日も学校です。
外に出ると小豆をゆでる甘い香りが鼻をくすぐる。
お隣の和菓子屋さんはもうシャッターが開いていた。白い服を来たおばさんが植木鉢を抱えて外に出てきた。
「おはようございます!」
元気な朝のご挨拶。おばさんも明るい笑顔で返してくれる。
「おはよう。うちのそろそろ来るから」
と、おばさんは軒先に植木鉢を置いた。淡いブルーのアイリスがゆらゆらと揺れた。
待つこともなく、佑くんは出てきた。眠そうに目をこすり、大きなあくびをひとつ。学生服の襟を外し、真っ青なシャツをのぞかせていた。
「おはよ」
とびっきりの笑顔で言うと、
「おはよ」
優しい笑顔で答えてくれた。
そしてわたしたちは学校までの道を一緒に歩く。
朝のこの時間は大人も子供もみんないる。急いでいる人もいればのんびりとした人もいる。わたしと佑くんは今日の世界史ミニテストのヤマを張りながら歩いていた。
早足でわたしたちを追い抜いたOLさんが振り向いた。
視線はもちろん、佑くんの上。
自慢じゃないけど、佑くんはその辺のモデルじゃ太刀打ちできないくらい端正な顔立ちをしている。
鳶色の目にすらりとした身体。さらさらの茶色い髪はもちろん天然物。全然手を入れていない。きめ細かい肌は赤ちゃんみたい。幼さを残す顔は、笑うとますます幼く見える。お人形さんのように黙っていてもかっこいいけど、笑顔が一番いい顔だと思う。佑くんの魅力を全部引き出す。
だから、OLさんが振り向いてもおかしくないわけ。
自分じゃないけどちょっとだけ優越感。
幼馴染のわたしが言うのもなんだけど、お隣の佑くんは完璧な男の子だと思う。
顔はもちろんのこと、いつも余裕があって、大らかな性格には誰もがひかれる。懐が深いって言うのかな。誰にでも優しくて、明るくて、ユーモアのセンスもばっちりで、一緒にいると楽しい。
音楽はオアシスが好きで、さっぱりとした爽やか系のファッションが好み。特にスポーツはやってないけど、走るのとビリヤードが好き。ボウリングもたまにやる。テレビゲームにだって夢中になる。
学校の成績がいいわけじゃないけど、頭は悪くない。先生たちの評判も上々だし、要領がいいんだと思う。頭でっかちなガリ勉なんかよりは何倍も利発な高校生。
集団の中にいても、いつの間にか輪の中心に立っている。街角で友達と話しているだけでも目立つ。存在が華やかだけど、嫌味じゃない。作り出す雰囲気がとても自然。おひさまにあてた布団のような心地よさ。場の空気を浄化してしまう男の子。それが佑くんだ。
佑くんが下駄箱を開けると、バサバサと何かが落ちてきた。
足元を見ると封筒が五枚。ファンシーなのからシックなのから、あるいは真っ白な封筒まで。全部表に丸っこい字で佑くんの名前が書いてあった。
「もてる男はつらいね」
からかい半分に言う。
落とした手紙を拾いながら佑くんは、
「ああ、まったくだ」
と、苦笑した。
どうせ断られるってわかってても、はかない希望を持つんだろうね。恋する乙女って。
憧れる気持ちはわからなくないよ。見てくれがいい男だけならその辺に転がってるけど、佑くんみたいな完璧な男の子はそうそういないもん。
後で断る面倒を考えてるのか、佑くんはこめかみを揉んだ。
やっぱり苦笑した顔もかっこいい。
並んで開けた教室はやたらと騒がしかった。みんな手に手に紙を持っている。
「……何やってんの?」
一番近くにいた真崎をつかまえて聞いてみた。真崎は手にしたわら半紙をひらひらとさせ、
「進路調査票、今日提出だろ? だから見せ合ってんの」
ほら俺の、と真崎はわたしたちに紙を向けた。佑くんと覗きこむ。
「第一希望、京都大学法学部。第二希望、長崎大学水産学部。第三希望、青年海外協力隊」
丁寧に読み上げてあげた。
「何だこれ。全部バラバラじゃんか」
佑くんは呆れてる。よくつるんでいる真崎は、法律にも魚にも、ましてやボランティア活動にも興味がないことを知っていたからだ。
「別に適当でいいんだよ。俺らまだ二年だし、別に特進クラスみたいにガツガツしてるわけでもないし。先のことはのんびり考えればいいさ」
本当にこういうところは真崎らしい。
「越野なんてもっと面白いこと書いてるぞ」
おーい、と真崎が声をかける。越野さんはクラスの中でも一二を争うくらいの可愛い子で、これがまた明るくて気さくで、男女分け隔てなく人気がある。わたしと佑くんを見つけると寄ってきた。二つに結った茶色の長い髪が揺れる。
誰とでも仲良くなれちゃう彼女だけど、一年の時には佑くんに告白したとかしないとか。そんな噂を聞いているものだから、正直わたしは心中穏やかではない。いえ、越野さん本人は嫌いじゃないよ。むしろ好き。これはホント。
「じゃーん」
腰に手を当てて、越野さんは自慢気に紙を差し出した。ちょうど「勝訴」の紙を出すような具合。
「およめさん」
「およめさん」
わたしと佑くんの声がハモった。越野さんの持つわら半紙にはたしかに、第一希望の枠の中に「およめさん」とある。あとは第二希望も第三希望も枠の中が空。
わたしも佑くんも空いた口が塞がらない。
「な? すげぇだろ? 笑えるだろ?」
真崎がゲラゲラと笑う。その横で、越野さんはいたって真面目に言った。
「彼氏がねー、卒業したら結婚しようって言ってくれてるの。だからあたしの進路はおよめさんしかないの。まっしぐらだから」
そう言えば、越野さんが今付き合っている彼氏が社会人だというのを聞いたことがある。それも一流の証券マンだとか。
「えへへ。ウェディングドレスも今から探してるの」
頬を赤く染めて笑う越野さん。さすが、大人の男は余裕が違う。
「マジで結婚すんのか?」
佑くんはためつすがめつ紙を見ながら聞く。わたしはまだ、いきなり目の前に出てきた「およめさん」の衝撃が大きくて口をきけない。
「本気だよ。本気で愛してるもん」
こっちが照れちゃいそうなことも惜しむことなく口にする。それが彼女のいいところなのかもしれない。
「おめでとう」
かろうじて喋ったわたしに向かって越野さんはありがと、と微笑んだ。別の誰かに呼ばれ、彼女は満面の笑みのまま、わたしたち三人の前から離れていった。
「佑は何にしたのさ。お前ならジャニーズだっていけるんじゃねぇ?」
軽い口調で真崎が言うと、違うよ、と佑くんはまた苦笑した。
モデルにスカウトされたことも何度もある。ちょっとしたバイトで雑誌に載ったこともある。存在感が他の人と全然違う。
芸能人としてやっていくなら、多分素質は充分なんだと思う。
だけどわたしは知っている。佑くんは絶対に芸能界には入らない。あの鞄に入っているわら半紙を見なくても、何が書いてあるか知っている。
朝のホームルームで、先生は今から進路を考えることの大切さを説いた。真崎のように冗談半分での提出者が多かったからだ。
しかし、まだ十六、七のわたしたちは、将来と言われてもピンとこない。
たかだか十数年生きただけで、自分の未来は見えてこない。決めなきゃいけないのはわかるけど、一生に関わることをこんな形で簡単に決めていいものかどうか迷っている。
わかるのはせいぜい数年後の自分だけ。それは今の延長で、このまま続けば誰もが辿りつける未来。
十年後の自分、二十年後の自分はあまりにも遠すぎる。五十年後なんて、南極に行くよりも遠く感じる。遠すぎて何も見えない。
見えないから、適当なことを書くより他がない。
越野さんのように今から未来への道が見えている人なんて、そうそういないんだから。
不覚にも、わたしは真面目に書いてしまった進路調査票をみんなに見られた。友人には現実見すぎと言われ、先生にはもう少し目標を高く持てと言われてしまった。
わたしの進路調査票は、すべての枠にこの付近の短大の名前が入っていた。
帰り道、佑くんが何気なく言った。
「越野ってすごいな。ああいうのが人生設計ができてるって言うんだろうな」
五人の女の子に自分の気持ちを伝えてきた後だから、とても疲れた顔をしていた。また泣かれたんだろうな。佑くん、涙には弱いから。
「佑くんだって進路決まってるじゃない。和菓子屋さんでしょ? 自分のうち継ぐんでしょ?」
幼稚園の頃から言ってた。ぼくはお父さんのお手伝いをするんだ、って。
積極的に家を手伝うのだって理由がある。ひとつは仕事を覚えるため。もうひとつは作業するお父さんとおじいちゃんの手元を見て、技を覚えるため。
高校に入ってからは、時々自分のオリジナルを作って試食させてくれることもある。和菓子は誰が作っても同じと言う人がいるけれど、本当はとっても繊細で、洋菓子に劣らずセンスを必要とされる。
お父さんやおじいちゃんの繊細な技には及ばないものの、佑くんのはトゲのない柔らかな味のするお菓子だった。優しい気持ちそのままだな、と思った。
佑くんはまさに現在進行形で夢に向かって進んでいる。
「俺は家を継ぐつもりだよ。だけどさ、それって俺の希望でしょ。具体的な人生設計にはなってないよ」
「人生設計の一部には変わりないじゃない」
「そうだけど。専門ガッコに行ってからその先は何も考えてないのと一緒。結婚とかそういうことなんてさっぱり。越野があんなこと言うまで、結婚なんて別世界のもんだと思ってた」
わたしも同じだった。越野さんの結婚宣言を聞くまで、それが自分の身の上にもあることだとは思っていなかった。
いつかわたしもウェディングドレスを着て誰かの隣に立つのだろう。
考えてみれば、いとこのお姉ちゃんは二十一で結婚したわけで、今のわたしとは四つしか離れていない。
急に具体性を帯びてきた結婚という二文字。
「結婚。俺もするのかな」
ぽつりと呟く。
「誰かと大恋愛して誰かと一生一緒にいるなんてな」
佑くんの視線は斜め前方に向いていた。そこは誰かの家の前で、紙袋を携えた老夫婦がインターフォンを押すところだった。
「考えられないし、信じられない。連れと一緒にいる自分のほうがずっと自然だ」
どうして五人の女の子は佑くんに自分たちの気持ちを伝えたんだろう。佑くんは恋愛に興味がない、って学校でも有名なのに。
誰とも付き合ったことがない。女嫌いってわけじゃないけど、誰かと付き合おうなんて考えたこともない。
友達と遊んでいるほうがずっと好きな佑くん。
初恋もまだだし、恋したいと思ったこともない。恋に憧れを持たない高校生。
「マジで恋とか愛とかわかんねぇ」
みんなが大好きな佑くん。心に住む、たった一人の特別な誰かはまだいない。
「そのままでいいよ」
立ち止まったわたしを佑くんが振り向く。
「何?」
「佑くんはそのままでいいの。恋も愛もゆっくり探していけばいいんだから。いつかわかる日がくるよ」
わたしはそのままの佑くんがいいんだよ。
心の中でそっと呟いた。
「そうだな」
笑った佑くんの横顔を夕日が赤く染めた。橙色の光を受けた鳶色の瞳は、しっかりと前を向いていた。