隙間

 スキマってのはどこにでもある。人と人の間、本と本の間、壁と柱の間、わずかに開いた扉の間、物を詰め込んだ押入れにできたどうしようもない小さな空間。みんなあまり気にかけない。だけど確実に生活のどこかに存在している、スキマ。知らないはずはない。必ずどこかにあるものだ。
 スキマが嫌いだって人間もいる。性格が几帳面なんだろう。どうしてもスキマを埋めたがる。そうそう、部屋中の、家中のスキマを埋めてしまった人間がいるんだ。中途半端に開いてしまった空間がイヤでイヤでしょうがない。見ているだけで悪寒がする、熱が出る、頭が痛い。身体はフラフラ、歩くのもままならない。スキマを見ればスキマに当たる、人に当たる。ティッシュボックスを持ち歩き、見つけたスキマにティッシュペーパーを詰め込む。詰め込んで、満足して、手に持ったティッシュボックスを見て、ティッシュペーパーが減ったスキマに戦慄する。叫び出して、暴れて、失神する。そんな人間が外の世界で生きられるはずがない。彼は家に閉じこもりきりだ。家にこもってスキマをティッシュペーパーで埋めて倒れて。そんな毎日の繰り返し。友達なんていない。近所付き合いもない。血縁はおろか、家族ですら彼を狂人扱いして近寄らない。とても孤独だった。いや、孤独とは言わないかな。そんなことは微塵も感じていないんだから。いつも感じているのはスキマに対する恐怖。他には何もない。あとは真っ白だ。平和や平穏なんて言葉は知らない。
 そんな彼にも楽しみがあった。病気だ。彼はすでに病気なんだけど、風邪や腹痛といった些細で一般的な病気にかかると医者が来た。スキマが怖い病気はいつものことだから、そんなことじゃ医者は来てくれなかった。その医者も昔は嫌いだった。眉間に皺を寄せた渋い顔の中年の医者が嫌いだった。だけど、今は違う。半年前の年の終わり頃から別の医者が来るようになったんだ。キレイな女のセンセイ。柔らかい声で笑い、優しい顔をする、女のセンセイ。閉じこもりきりの人生だったから、外の世界の人間、ましてや女の人なんて知らなかった。単純に感動した。女のセンセイは優しい。優しくしてくれた人なんていなかったからね。彼に与えた衝撃は馬鹿デカかった。想像なんてできないよ。普通の人には推し測れないほど、デカかった。女のセンセイの前ではスキマが見えても我慢した。扉にティッシュペーパーを詰め込みたくても、本棚を押し倒したくても、我慢した。我慢して、センセイが帰ってから暴れて失神した。センセイに会うのがとても楽しみだった。
 季節の変わり目の、ある暑い日。風邪をひいた。体調を崩した。スキマのことしか考えられないヤツだ。自分の身体なんて気にしていられない。だから、風邪をひいた。病気になればセンセイがやってくる。優しい優しい、女のセンセイ。その日のセンセイはいつもと違った。大きく胸の開いた涼しそうな半袖のカットソーを白衣の下に着ていた。淡い青がセンセイの白い肌に映える。こんなセンセイは見たことなかった。当たり前だね。半年くらいの付き合いでしかないんだから。玄関に出迎えに出た彼を、センセイは柔らかく、女神のような声と微笑で、寝ていなさい、といった。そして、前屈みになって靴を脱いだ。
 見てしまった。スキマ。屈み込んだ服の間から見える、胸と胸の、スキマ。普通は谷間って言うよね。だけど、彼にとってはスキマなんだ。物と物との間の狭い空間。それがスキマ。
 センセイに襲いかかった。センセイを押し倒した。センセイは驚いていた。短い悲鳴を上げた。鈍い音がした。センセイのスキマにセンセイの靴を詰め込んだ。鞄を詰め込んだ。ティッシュペーパーを詰め込んだ。
 スキマは邪悪。スキマは醜い。神聖な、女神のようなセンセイにスキマがある。汚らわしいスキマ。スキマは埋める。埋めるべきだ。センセイのスキマを埋めなきゃ。埋めないと。穢れたセンセイをジョウカするんだ。キレイなセンセイを取り戻すんだ。  スキマが埋まったセンセイは、キレイだった、玄関で仰向けになったまま、何故か動いてくれなかったけど、キレイだった。キレイなセンセイが帰ってきた。満足して、彼は部屋に戻って少し眠った。少し眠って起きればセンセイはいつものように診察してくれる。
 だけど、センセイは診察してくれなかった。玄関でいつまでも同じ姿勢で眠ったまま。一日経っても二日経っても、そのまま。三日目に彼はセンセイを風呂に入れることにした。風呂に湯を張った。センセイは喜んでくれるだろうと信じていた。玄関で、寝たままのセンセイを抱え上げた。抱え上げようとして、頭が持ち上がらない。おかしい。まるで地面に張り付いてしまったみたいだ。実際、張り付いていたんだ。頭から流れ出た大量の血液でね。彼は理解した。センセイは死んでいる。死んでいるから動かない。息をしない。脈もない。誰のせいで。彼のせいで。センセイの中にぽっかりとスキマができた。魂が入っていたところが空いて、スキマになった。叫んだ。叫んで、泣いて、センセイの体を投げ出して、部屋に欠け戻った。部屋中のスキマを埋めた。ティッシュペーパーだけじゃ我慢できなくてガムテープで埋めた。粘土を持ってきて埋めた。それでもまだスキマはある。風が吹けばティッシュペーパーは飛んでいってしまうかもしれない。雨が降れば粘土は溶けてしまうかもしれない。またスキマが出てくる。スキマは嫌い。セメントで塗りつぶす。全部、全部塗りつぶす。彼の作業は何日も続いた。内側から全てセメントを塗っていったんだ。何十にも厚くなっていくセメントの壁。扉なんてもう開かない。窓も開かない。湿度の高い密閉空間で喘ぎながらも作業を続ける。病身で、何も口にせず、一滴の水も飲まず、ただ無心にスキマを埋める。
 発見されたのは数ヵ月後。センセイと出会って一年が経つ頃だった。玄関の腐乱死体と密閉された部屋。乾いてガチガチのセメント製の箱をぶち破ると、ここにも腐乱死体。そう、彼は窒息して死んじゃった。空気が入ってこない密室じゃ、当たり前。せめてスキマがあれば良かったのにね。
 スキマが嫌いな人間の話はここで終わり。馬鹿みたいな話だね。そう思わない人間はいないだろう。スキマが嫌いな馬鹿な男。スキマがあるから好きな人を殺して自分も死んだ。最期の最期までスキマに怯えて死んだ。だけどこいつは一つだけ、馬鹿じゃなかった。だって、スキマの怖さを知っていたんだからね。きっと恐怖という感情だけで、何故スキマが怖いのかはわからなかったのだろうけど。
 スキマってのはどこにでもある。どこにでもあるからその怖さがわからない。そんな怖さは忘れてしまった。本当のスキマの恐ろしさは見てしまったヤツだけが知っているんだ。

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