11/13
■サクラ
昨日で申し込んだすべて試験が終わった。あとは祈っているしかない。
家にいるのもなんだか落ちつかなくて外に出た。三月の中旬、暦の上では春だというのに吐く息はまだ白い。道路の日陰部分にはまだ少し雪が残っている。泥をかぶってすっかり汚くなっている雪が、意地を張っているように見えた。
俺もこうやって意地張ってるように見えるのかね。
平日の昼間。薄灰色の雲が空を覆い、閑静な住宅街が更に寂しく感じられる。風が吹き、乾いた音を立てて落ち葉がどこかへ飛んでいった。
知らず知らずのうちに足が駅前への道を選んでいた。やはり人恋しいのか。三年間、毎朝歩き続けた道を辿っていく。駅前の商店街ならいつも賑わっている。人が多い方が気がまぎれるだろう。
人通りの少ない道。俺の家からまっすぐ歩き、二つ目の四つ角を右へ曲がる。少し進んだら次は左。
左に折れるところで、何気なくその反対、右側を見た。
塀の上を黒い猫が歩いていた。俺に気付くと猫は目を細めてこちらを見る。歩みも遅くなる。俺が一歩踏み出すと、飛び降りようとしていた塀の先で方向転換。猫はもと来た道を戻っていった。
その先に赤い鳥居が見えた。
神社なんてあったっけかな。
そんなことを口の中でつぶやく。誰も答えてくれない。俺には答えられない。
どうせ暇だし、これも何かの縁だ。
そう決めて、鳥居のほうに行ってみた。自動車一台分も幅がない細い道が緩やかな坂になって続いている。そう長くはない。すぐに入口についた。数段の石段を上ったところに朱塗りの鳥居が構えていた。辺りは鬱蒼とした森、といきたいところだが、住宅街のど真ん中ではまばらに木々がある程度がせいぜいか。ここもだいぶ閑散としていた。
鳥居をくぐると小さな広場、狛犬、そして社殿があった。賽銭箱に紐がついた鈴もある。
何の神様かはわからないけどとりあえず、と俺は財布から五十円玉を出して賽銭箱に入れた。鈴を鳴らし、柏手を二回。願い事は決まっている。自分の運を信じて祈るしかないんだ。
気が済むまで神様にお願いした。これでダメだったら燃やしてやるぞ。そんな不穏なことも脳裏をよぎったが、結果を待つしかない身の上では贅沢は言えない。力一杯お願いしたから大丈夫だ。うん。多分。少しだけ気楽になった。結構俺も単純なのかもしれない。
さて帰るか、と振り向いた。
「参拝の方ですか?」
「はい、そうです」
反射的に答えてしまってからその人に気付いた。白衣に緋袴姿の女性である。おまけに竹箒を持っている。いわゆる巫女さんという人だ。俺と同じか少し年上の若い女性だった。
「何やら熱心にお願いしていたようですね。ご近所の方ですか?」
「あ、はい、一応。大学受験の結果待ちなんで、ちょっと頼んでみようかなー、とか思って」
「あら。合格祈願ですか。残念ながら、うちの神様は学問の神様ではないんですよ」
巫女さんはごめんなさいね、と言いながら優しく微笑む。どう答えたらいいかわからず、俺は顔を上げられないでいた。
「知恵の神様ではあるんですけどね。でも、学業成就のお守りはあるんですよ」
ちょっと待っててね。
そう言って、巫女さんは社務所らしきほうに小走りで行った。竹箒と袴が走るのを邪魔しているようで、途中何度も足にひっかけては転びそうになっていた。その姿が面白くて、ずっと巫女さんを観察していた。
「はい、これ。ちょっと遅いかもしれないけど、あげます」
帰ってきた巫女さんは俺の手に小さな袋を載せた。赤い布地に金文字で『学業成就』とある。どこの神社でも売っているような、ありふれたお守りだった。
「いいんですか?」
「ええ。小さな神社だからお守りがいっぱい余っているんです」
「でも、俺、五十円しかお賽銭入れてませんけど」
「五十円も入れたんですか」
五十円入れたことになぜか驚かれた。初詣で一万円を入れる人に比べれば、まだ庶民的だろう。まあ、参拝に行っても普段五円しか入れない俺が十倍の五十円も出した。それは俺の切羽詰った状況のあらわれでもあったのだが。
「いや、その、充分ご縁があるように、って」
「あ、そう考えることもできますね。うん。それも面白いですね」
素直に感心されているような気がする。
五十円なんて、ただの縁担ぎなだけ。千円入れてもダメな時はダメなんだし、だったら縁起良さそうなほうがいいかと思った。もっとも、財布は小銭ばかりで千円なんて入っていなかった。
「俺、これで合格しなかったら後がないんです。だから毎日一生懸命勉強した。寝る時間も遊ぶ時間も削って勉強しました。それでもずっと不安だったんです。昨日、最後の大学を受験して、その後も落ちるかもしれない、ってそればっかり考えていたんです。だけど、ここでお参りしたら少し気持ちが軽くなりました」
「信じる心というのは大切なんですよ。大丈夫。自信を持って合格を信じれば望む結果が出ます」
その一言が止めだった。一気に心が軽くなる。根拠はないけど、巫女さんが言う通り大丈夫だろう。今までの自分を振りかえればどれだけ頑張ってきたのかわかる。やってきた分の結果は必ず出る。
「これ、ありがたくいただいておきます。合格したら必ず報告にきます。その時にはお守りもいっぱい買います。友達にもここのおかげだって言っておきます」
「気にしなくていいですよ。私が好きでやっていることですもの。ただ、誰にも言わないでくださいね。勝手にお守りあげたなんてばれたら、お父さんに叱られちゃう」
お父さんとは、おそらくこの神社の神主なのだろう。神主もいて、お守りもあって、見た目よりはちゃんとした神社なのかもしれない。
「また来てくださいね」
巫女さんに見送られて鳥居をくぐった。ブルゾンのポケットに手を入れ、赤いお守りを軽く握る。
来た道を戻り、角に着く。まっすぐ行けば駅、左に曲がれば家。どうしようかと悩んでいると、黒い猫が前を横切っていった。
つい先程までだったらそれだけで俺はうろたえたに違いない。不吉なものには過剰に反応し、何事も恐れていた。今はもう大丈夫。もう一度お守りを軽く握り、声に出さずつぶやいた。