05/12

■桜

 ひらひらと桜が舞った。
 もはや白と言ってもいい薄紅色のひとひらが、ベージュのスーツに付く。
 仕事帰りの黄昏時。足早に歩いていた私はうっかり見過ごすところだった。
 高いビルが立ち並ぶ間に、ひっそりとその樹は立っていた。仕事を終えた人々は、木にも目をくれず足早に駅へと向かう。立ち止まった私を避けるように群衆は流れていく。
 もう春か、と樹を仰ぐ。
 完全に調整されたこの居住空間は季節感に乏しい。くわえて忙しい日々が何年も続いている。四季の移ろいに気を配る余裕などなかった。
 幹には「ソメイヨシノ」と書かれたプレートがくくりつけられてある。
 この品種はまだ地球があった頃、ニホンという国で開発されたものだという。今から何百年も前、いよいよ地球を見捨てるうことになった時、この木は種族保存プログラムに選ばれなかった。理由は簡単。どんなに美しくても、人工的に造られたものだから。当時の実行委員会はあくまでも『自然の物』にこだわった。人工物は全て――豚や牛のような一部の家畜を除いては――皆地球に置き去られた。
 だから、そのソメイヨシノがこうやってあちこちに植えられるようになったのはある種の奇跡かもしれない。ソメイヨシノを開発した人の子孫が、地球離脱の折に一本だけ苗を持ち出した。だって、開発した人にとっては桜の木は子供同然のもの。つまり、彼等子孫とソメイヨシノは、言わば父を同じとする兄弟みたいなものだった。
 一株はとても大切に育てられた。どこまでも大きくなり、子供もたくさん生まれた。そして今、春を彩るものとして多くのコロニーの中に植えられている。
 天候を操作しているコロニー内で季節も何もないと思うんだけど。
 冬は申し訳程度の寒さで雪が降り、夏は半袖で生活できる程度の気温。
 まるで温室で飼われているかのようだ。
 連邦政府による完璧な環境、完璧な管理体制下での生活。
 不平を言うにも、もう私たちの母星はない。
 帰るべきふるさと、心の拠り所を失った私たち地球人はどこへ行こうと言うのか。どこまで行こうと言うのか。
 郷愁はこの桜へ寄せ、あとは忘れてしまおう。
 かつての地球の姿をうつす桜の樹。
 白色灯が映し出すその姿はほんのりと青みがかって見えた。

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