07/22
■礼儀正しい銀行強盗
「こんにちわ。銀行強盗です」
男は極めて冷静に、そして明るい声でそう言ったのさ。
「すみませんけど、この鞄にありったけ詰めてもらえませんか」
手にした黒い塊を、受話器を持ったままの窓口の若いお姉さんの頭にごりっと押しつける。可哀想に、表情が恐怖でひん曲がっていた。一分前まで綺麗だった顔はとんでもなく醜い顔に変貌していた。僕は心の中で軽い失望の溜息をついた。
窓口のお姉さんは挙げていた両手をそろそろと下げて鞄を受け取った。
「できるだけ早急に。綺麗に揃えてくださいね」
頭の後ろで手を組んだまま、僕はそろそろと首を伸ばした。カウンターの上には、でんと男の鞄が乗っかっている。ドラマで良く見る銀行強盗の鞄と言えば、くたびれた皮のバッグ。だけど、カウンターの上にあるのは銀色のジュラルミンケースだった。
この人、本当に銀行強盗ですか。
預金を降ろすための順番待ちをしていて、貧乏揺すりしていて、こんなことに巻き込まれるなんて、普通誰も考えないだろう? 店に入ってきたときは、男は強盗に見えなかったんだ。黒スーツに黒ネクタイ、黒いサングラスにジュラルミンケース。後ろに撫でつけた黒髪はプラスチックで成形したんじゃないかと思うほど。たしかにちょっとやそっとでは見ない格好だけど、映画の影響で最近こういうのが流行ってるから不思議に思わなかったんだ。この前の日曜の渋谷みたいに、補聴器つけて「Hello, Mr.Anderson(やあ、アンダーソン君)」って言い出すのかと思ったんだ。
「はい、そこ」
どうでもいいこと考えていた頭にでかい音が響き渡った。一瞬、何が起きたのかわかんなくて、辺りを見回してしまった。
「非常ボタンは押さないでくださいね」
穴の空いたカウンターの奥で、もう一人の窓口のお姉さんは怯えた顔で何度も何度もうなずいた。こっちのお姉さんは見るからにちょっと歳を食いすぎていていただけない。
男は銃口でカウンターの奥のデスクを指した。そこでは行員総出で万札を綺麗に綺麗に整えている。金庫から金を運んでくる係、数えて束にする係、束に帯を巻きつける係。万札のブロックがケースに敷き詰められて行く。金庫から何百枚と運ばれてくるが、それでもケースは満たされることを知らない。底なしのようにどんどんブロックを飲み込んでいった。
歳のいったお姉さんは引けたままの腰を奮い立たせて、作業に加わる。さすがは銀行員。震えた指でも鮮やかな手つきで札をさばく。
男は満足そうにうなずいた。口元には柔和な笑みすら浮かべている。足を揃えて立ち、カウンターに軽く手をかけて行員たちを見守っていた。いや、この場合は監視かな。
僕たち罪のない客も見守っている他にない。隣に座っていたおばあさんなんて、どこかから数珠を取り出して念仏を唱え始めた。まったく、僕も何かにすがりたいよ。
「これは誰のでしょう?」
と、男が空いた手で通帳を開いた。カウンターに出しっぱなしになっていた通帳だった。印鑑を親指と人差し指で挟み、とんとん、と二回カウンターを叩いた。
「定期預金ですね。関口……」
「僕のです」反射的に僕は手を挙げていた。「僕のです」
男の顔がこっちを向いた。
「本当に君のなんですか? 関口……」
「僕のです」
目を落として通帳の名前を確認するより先に、僕は前に進み出る。隣のおばあさんが驚いて念仏を中断した。念仏が中断した代わりに、男が通帳の数字を読み上げた。唇を吊り上げて皮肉っぽく、
「随分としみったれた貯金ですね」
正直に感想を言ってくれた。
「僕もそう思っています」
正直に同意を示した。
「こっちに来てくれませんか」
銃口はいまだ行員たちのほうを向いていた。チャンスさえあれば飛びかかって武器を奪ってやるところだけど、残念ながら男にはまったく隙がなかった。狭いフロア全てが男のテリトリーと化していた。譲りようのない事実だ。僕に勇気がないわけではないからな。
様子をうかがいながら、そろそろと男のほうへと踏み出す。
「歩かないでください。匍匐前進でお願いします」
言うことを聞くしかない。ちょっとでも逆らえばズドンだ。カウンターの穴を見ただろう? 手を動かしたのもわからなかった。あんな早撃ちできるなんて、素人じゃない。
腹這いになり、身体をくねらす。トカゲのようにずりずりと進むさまはとんでもなく惨めだったに違いない。もう、モップにでもなった気分だよ。今日はちょっとだけいい服で来たのに。
ゴールポストの代わりは目の前の黒靴だった。ピカピカに磨き上げられ、埃ひとつ付いてやしない。金の飾りが、庶民が買えるような靴ではないことを主張していた。僕の安っぽいシャツなんて何十枚も買えそうだった。ちくしょう、こんな靴持ってるんなら強盗なんかするなよ。
足元までたどりつくと男は僕を立たせた。カウンターの上にはジュラルミンケースが載っていた。くすんだ紙に印刷された福沢諭吉が整然と並んでいた。痩せた眼鏡の中年男が、これでよろしいでしょうか、と引きつった笑みを浮かべている。額には銃口が押し当てられていた。こんな時でも営業用の笑顔は忘れない。銀行員の鏡だと思う。
男がケースを閉じた。右の親指がハンドルの横のダイヤルを回した。
「ありがとうございました。ここは良い銀行ですね」
にこりと笑う。中年男に定められていた照準が僕の胸に移動した。
「外に出てください。君は人質です」
まったく穏やかな声で言われると、従わなくてもいいような気がしてくる。強盗さんに命令されているとは思えない。ああ、それでも僕は従わなければならない。何しろ、現実は命の危機なんだ。
背中に鉄の感触を張りつけて僕と強盗さんは外に出た。後ろで、ありがとうございましたの唱和を聞いた。きっと馬鹿丁寧にお辞儀もしてるんだろう。
通りがかったおばちゃんがギョッとした顔で僕たちを見ていた。シーズーらしい毛むくじゃらの犬がキャンキャンと吠え、勇敢にも強盗に立ち向かう。背中の銃口がピクリと動いた。おばちゃんは暴れる犬を抱き上げ、慌てて道の向こうへ行ってしまった。僕は助けての一言も伝えられなかった。
銀行の前に車が止めてあった。黒塗りのセドリックだった。この強盗には国産車よりもベンツのほうが相応しい気がした。
押しやられて車に乗る。キーを捻ったと思ったら唐突に車がスタートした。重力がかかってシートに押しつけられる。
「シートベルト、忘れないでくださいね」
走り出す前に言えよ、と唾を吐く。もちろん心の中で。ハンドルを握りながらも銃は僕のこめかみを捕らえて離さない。速度を落とさずに角を曲がった時も、赤信号で交差点に突っ込んだ時も、銃口はぶれることがなかった。オートマチック車って便利だなぁ、とまたどうでもいいことを考えていたら、けたたましいサイレンとすれ違った。
「今の、警察」
「黙ってないと舌噛みますよ」
その忠告も手遅れ。とっくに舌を噛んでいた。
男の運転技術はそうとうなものだった。免許持ってない僕にだってわかる。ジェットコースターなんか比にならないほどのスピード感。窓の外を流れていく街並み、前を走る車をすれすれで避け、通行人なんか気にしないで歩道に突っ込む。事故が起きないのが不思議なくらい。後を引く女の悲鳴がサイレンにかき消された。リュック・ベッソンの映画みたいだ。
タイヤが金切り声を上げて交差点を右折した。後部座席のジュラルミンケースが跳ね上がってバックミラーに映った。
「突破します」
何を、と聞くまでもなかった。真っ直ぐな道路の向こう側、道を塞ぐ柵と横一列に並んだ警察官。検問なんて生易しいものじゃない。噂には聞く非常線が張られていた。実物を見るのは初めてだ。
男の身体が前のめりになった。同時に、ぐん、とスピードが増した。アクセルが強く踏みこまれ、空気が僕を押さえつける。ますますシートから動けなくなった。
この時初めて気付いたんだけど、この車はオートマチックじゃなかった。ハンドルのところにスイッチがいくつかついていて、それでギアチェンジできるようだった。似たような仕掛けをF1のレースで見たような憶えがある。たしかに、オートマチックじゃこんなにスピードは出ない。逃走用にしっかり改造してあったわけだ。ますます映画のようだ。
豆粒のように見えていた警察官たちが、消しゴム大になって、人形サイズになって、人間の大きさになった。警笛が鳴り、警棒が何本も振られている。口が動いているのはわかるけれど、唸りを上げるモーターで全然聞こえない。
男の顔は涼しいまま。
職務に忠実なのはいいけど、このままじゃ轢いちゃうよ。頼むから逃げてくれ。
ひびが入ったフロントガラスに飛び散る赤い血。そんなものを思い浮かべちゃって、顔から血の気が引いた。祈るように目を閉じる。
生まれて初めて「生きた心地がしない」という気分を味わったよ。
セドリックはドイツ車に負けないほどの頑丈さを持っていた。助手席から見えるボンネットの上には柵の破片が散らばっている。だけどつるつるのピカピカ。力任せに柵に突っ込んでへこみひとつないんだ。
サイドミラーの中には何台ものパトカー。頑張って追いかけてくるみたいだけど、男がハンドルのスイッチを切り替えたら豆粒のようになった。スピードメーターなんて怖くて見られないよ。
男と僕は恐ろしい速度でドライブしている。走っている国道はやがて山に入り、くねくねと曲がる坂道を登って行った。ここまでくるともう対向車もないし、後続車もない。車は少しづつスピードを緩め、慎重に山を登る。時々急カーブを警告する標識や、猿の絵の動物注意の看板を通りすぎた。
「ひとつ聞いていいですか?」
こめかみに当たる感触を気にしながら、僕は聞いた。男は前を向いたまま、どうぞ、と言った。
「僕をどこまで連れて行くんですか」
「君は」
と、言いながら男がシフトダウンした。道の傾斜が下へ向き、わずかにきつくなった。
「人質です。私が安全に逃げるための道具です。道具は使い終わったら捨てる。そういうものでしょう」
言葉も出なかった。淡々とした男の喋りと拳銃の硬さが、心臓に杭のように突き立っている。
「ですから、計画では山に入ったところで崖の下に捨てて行くつもりでした。しかし、君に少々興味を持ちましてね。こうやってご同行願っているわけです」
これがご同行願う態度か。
「私の背広には先程の君の通帳が入っています。この通帳について説明していただきたい。君は男なのに、どうして女性名義なんですか」
***
重い重いジュラルミンケースを引っ張り出す。ハンドル横のダイヤルを回して数字を合わせる。曖昧な記憶だったけど、数字は一発で当たった。男がケースを受け取った時の数字を覚えていたんだ。まさかこれで合うとは思ってなかったけど。
ロックを外して蓋を開けると、諭吉さんが何人も僕を見上げていた。適当に何枚も抜き出して上着の内ポケットに放りこむ。尻ポケットにも入れた。財布にも詰め込んだ。全部で二百万は入れただろうか。通帳の中身よりよっぽどいい稼ぎだ。
ジュラルミンケースを戻し、ハンドルやダイヤルを袖口で拭く。ついでに運転席に身を乗り出して、男の背広から通帳と印鑑をを引っ張り出した。関口法子名義の定期預金。僕とは面識もない赤の他人のものだ。中身は百万にも届いていない。捨てて行くのも危険だから、こいつも札束と一緒にポケットにねじ込む。
男はしぼんだエアバッグに赤い血を撒き散らし、両腕はだらりと垂れ下がっていた。握っていた拳銃はブレーキペダルのそばに転がっている。割れたサングラスの下からのぞく顔は、男のイメージにそぐわず、貧相だった。
生きてるかな? 即死かな?
見たところ、息はしてる様子はない。
蜘蛛の巣状にひび割れたフロントガラスの向こうにひん曲がったガードレールが見える。さらに向こうには広大な大自然と覗くのも怖い谷。
たしかに横から手を出してボタンを一つ押したのは僕だけど。
いきなりスピードが上がり、とっさのことに男はハンドルを切れなかった。あの時ばかりはクールだった男も顔色が変わり、狼狽した。引き金を引くのも忘れて拳銃を放り出し、両手でハンドルを支える。下り道で速度を増したセドリックはそのままガードレールに突っ込んだ。ドイツ車並の強度を誇っていた鼻先が思いっきり歪んでいる。おまけにひしゃげたボンネットの隙間から白煙が上がっていた。
額の赤い血を拭いながら、僕は自分の運の良さに感謝した。生きてるってことはまだまだ死んじゃいけないってことだ。銀行で関口法子さんに問い合わせされかけて、ケチな泥棒稼業もついにお縄かと思ったが、この男が強盗に入ってくれてよかった。こうやって無事逃げられるし、実入りもよくなった。
礼儀正しい銀行強盗さんには本当に感謝だよ。好奇心は猫を殺すって言葉、知ってたのだろうか。こんな山の中ってのはちょっと予想外だけど、歩いてれば町に着くだろう。
僕は男に手を合わせ、長い長い山道をのんびりと下っていく。道路沿いのガードレールが行く道を指し示すかのように、延々と連なっていた。