06/11

■理緒 - the sword

「ちょっと出かけてくる」
 奥にそう声をかけ、ビニール袋を携えて天海は家を出た。
 枝豆を茹でていた母親は慌てて台所から顔を出す。
「もう少しでできるから待ちなさいよ」
 だが時すでに遅く息子の姿は消えていた。濡れたままの手を腰に当て母親は大きく息をつく。
「まったく。何しに行ったのかしら」
「母さん、今日は6月20日だよ」
 居間から出てきたもう一人の息子に言われ、母親は少し考える。
「ああ」宙にさまよわせてた視線を息子に戻す。「もうそんな季節なのね」
「そういうこと」
 母親は開け放された玄関を見る。揃えられた革靴の上に脱ぎ散らかされたスニーカーの幻影が見えた気がした。開いたままの扉の外に空が広がっている。梅雨の合間の青空には飛行機雲が白線を引いていた。


 花屋にはもう向日葵があった。まだ小ぶりではあるが、明るいオレンジは締めっぽい心の中も晴れやかにしてくれる。
 いつもの花屋の店員は天海の顔を見ただけで、
「花束ですね」
 と言ってきた。
 うなずいて千円札を数枚渡し、花束を頼む。季節の花々が店員の手の中で一つにまとまっていく。
 今年で五回目。
 鼻の頭をくすぐる甘い香りはなかなか馴染めない。
 通りを挟んで向こう側のショーウィンドウに自分の姿が映っていた。
 スーツで花屋の前に立つ自分の姿にも馴染めない。
 あれから五年。
 背も随分伸びたし顔立ちも大人びてきた。かつて中学生だった自分は高校生になった。高校もあと一年もしないで卒業する。
 空を見上げれば雲ひとつ無い空に白いラインが引いてある。今日はとてもいい天気だ。ポケットからしわくちゃのハンカチを出して汗を拭う。真夏が出張してきたみたいだ。
 天海はもう一枚、千円札を出した。
「その向日葵も入れてくれませんか?」
「ええ、いいですよ」
 店員は微笑む。
「今年初めての向日葵なんです。綺麗でしょう?」
 子供の自慢でもするように嬉しそうに言いながらバケツから一本抜き取った。
「この分のお代は結構ですよ。サービスです」
 言われてしまうと差出した千円札のやりどころがない。耳の裏を掻きながらどうしようかと考えて、
「ありがとうございます」
 と小さく言い、結局スラックスのポケットに突っ込んだ。


 払った代金に見合わないほど大きな花束を抱え、天海は石段を昇っていく。ネクタイを少し緩め、背広の前のボタンを外した。蒸し暑いがまだ蝉は鳴いていない。山鳩が林の奥で野太い声を上げている。
 一段一段数えながら上がっていく。全部で三十段余りある。知っていてもつい数えてしまう。
 日に当たり、閉じていたつぼみが少しずつ開いている。着く頃には開き切ってしまうかもしれない。
 そんな心配をしながら天海は急いで足を運んだ。遠い昔に作られた石段はとても歩きにくい。
 鳴き続ける鳩の声。去年も一昨年もその前も聞いたただろうか。
 石段は長いようで短い。
 最後の一段まで上がれば、石畳と玉砂利が敷き詰められた広場に辿り着く。日に焼け、色を失ったモノクロームの寺が天海を迎えた。
 どこかへ経をあげに行くのか、袈裟姿の和尚が家から出てきたところだった。天海は無言で頭を下げる。和尚は両手を揃えそれに応える。
 そのまますれ違い天海は寺の奥へ、和尚は石段の下へ姿を消した。
 寺の裏の小道を歩く。林の中へと続く石畳の道は苔むしている。森と行ってもいいかもしれないほど鬱蒼とした林だ。直接日光を受けない分、涼しい。枝の間からさす光が地面に斑の模様を描いていた。
 鳩が鳴いている。
 文明社会の只中にいるはずなのに、ここはあまりにも静かだ。何百年も過去に戻ったかのような錯覚を覚える。
 草むらの間に石柱が見えた。熊笹の間を抜けると開けた場所に出る。
 文明の手が入りしっかりと整備されていた。きっちり石の小道で区切られた狭い土地の中に、それほど背の高くない直方体が並んでいる。石柱が背負っているのは細長い木の板。卒塔婆と呼ばれるものだ。
 何十と並ぶ墓石は静かに佇んでいた。
 もう場所は知っている。迷う事はない。天海は汗を拭い、ボタンをかけてネクタイを締めなおした。 背筋を伸ばして墓石の間を歩く。
 幼い頃から墓場は苦手だった。今はいない人々がそこにいるような気がするからだ。どうしても墓が嘆く人々に見えてしまう。そして生者である自分を恨めしそうに見ているように感じる。
 できるだけ視線を合わせないようにして進んでいく。亡き人々の幻影が見えそうだ。
 人々の中に少女が混ざっている。
 天海は少女に正面から向き合う。
『佐野家之墓』と刻まれた墓石の前で少女は正座し、うつむいている。小さな手を膝の上で強く握り、ただじっとしている。頭の後ろの白いリボンがありもしない風に吹かれて揺れた。
「理緒」
 少女に声をかける。応える者はいない。幻影はあっけなく消えた。
「今年初の向日葵だってさ」墓に花束を供える。「五回目の夏は近いみたいだ」
 天海は持ってきたビニール袋から線香とライターを出した。線香の束に火をつけ、崩れないようそっと香炉に置く。細長い白煙がゆるゆると漂う。白檀の香りが墓石を包み始める。
「あとこれ。いつもの」
 コンビニで買ったプリンをスプーンと一緒に墓の前に置いた。墓誌の影から少女が出てきて奪っていくような気がした。空想しておかしさに一人で笑う。
 手を合わせ、目を閉じた。
 鳩の声が聞こえる。
 長い間手を合わせていたがそれでも足りない。空いてしまったどうしようもなく空虚な心の隙間は埋まらない。
「理緒」
 墓誌の上の名をなぞる。生きていれば天海と同じ年だったはずの少女の名前。歳が12で止まっている。
 少女が短い生涯を終えたのは五年前の今日。同じように天気のいい日だった。
 あの日、あの場所を通らなければ。
 天海も少女の両親も何度も同じことを考えた。恨み事のように同じ言葉を繰り返した。

 人一倍正義感が強かった少女は、

「お前は本当に人がいいよ」

 落ちた子供を助けようとして、

「だけど後先考えないのは無謀だ」

 増水した川に飛び込んだのだ。

「残された俺たちは誰を恨んだらいい?」

 子供を岸に上げて少女は力尽き、奔流の中に姿を消した。

 少女が見つかったのは翌日。何百メートルも下流で変わり果てた姿となっていた。
 助かった子供を責める事もできず、運の悪さを嘆くより他はなかった。そう、めぐり合わせが悪かっただけなのだ。
 何度も何度も自分自身に言い聞かせた。納得できなくても無理矢理させた。
 まだ何十年も先があったはずの幼馴染はいない。少女がいなくなり、喪失感だけが残った。
「また言ってるって言われそうだな。今日で五回目だもんな」
 六月になれば嫌でも思い出す。花と、少女が好きだったプリンを持ってここに来る。
「もう五年目なんだよな」
 忘れたいと思ったこともある。忘れてしまえば哀しむこともない。苦しまなくてもいいし、寂しくもない。しかし忘れてしまうことは哀しいことだと思った。
「早いな」
 訃報を告げる母親の声はまだ鮮明に覚えている。つい昨日のことのようだ。自室でゲームをしていた天海は哀しむよりも驚くよりも先に疑った。
「俺は元気だよ。今年は受験勉強しなくちゃいけないから忙しいけど頑張ってる。これくらいで音を上げていたらお前に笑われそうだしな」
 墓石の前に白いリボンの少女が立っている。
「お前は元気か?」
 少女は何も言わない。光の無い虚ろな目で天海を見上げている。
 天海は苦笑した。
「それじゃあ、俺は帰る。今度はお前の誕生日に来るから」
 少女を後に残し、墓石に背を向けた。鳩の声に送られて元の道を辿る。纏わりつく白檀の香りを払いながらネクタイを緩めた。両手が空いて身軽になったが、気持ちも空っぽになった。
 熊笹の間を抜ける前に振り返る。
 降り注ぐ光の下に少女の姿はない。沈黙を守る墓の中に鮮やかな向日葵の花が残されていた。

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