06/04
■円環都市 - RingCity
ぐるりとめぐらされた塀の中で僕たちは生きている。
踏みしめた地面は灰色で、本当はこの下に茶色の土があるんだよ、と教えられたところでピンとこない。いくら偽物の地面だと言われても、生まれた時から見てきた石畳が僕にとっての地面だった。
僕はこの上を走ることを商売としている。
無限に膨れ続ける街。家の上に家が重なり、地面の下に地面をつくる。誰かが誰かの家の窓に橋をかければ、屋上からさらに別の屋上へと梯子がかけられた。幾重にも重なるフロアーはそれだけで一つの建築物を形成していた。
とりあえず、地上と呼ばれている地面には石畳が敷き詰められている。この街が出来たときからあったこの石畳。城壁とともに、唯一、『中央』がつくったものだ。
プラスチックを配合した特殊素材の靴。僕のもう一つの足の皮膚は、あることを感じさせないほど軽かった。当たり前だ。この仕事に就く時、ありったけの財産をはたいて買ったんだ。
その靴で地面を叩いた。赤い果実を売る店の、張り出した軒に上がる。薄板の屋根がたわんだ。
「アル! またお前か!」
頭に布を巻いた親父が下からわめく。
「悪ぃね。急ぎなんだ」
片目をつぶって見せて、さらに上の屋根へと上がった。そこから向かいのテラスへ飛ぶ。建物と建物の感覚はとても狭い。隙間としか言いようがないほどの幅で隣接している。慣れた街、慣れた道。テラスの奥の窓から、老婦人が手を振っていた。手を振り返し、傍らの梯子に足をかける。
ジェイの事務所まではこれが一番の近道だった。ついでに一番気持ちのいい場所も通ることができる。
梯子を昇りきると、三角屋根の上に出た。もう使われていない煙突に片足をかけ、一息ついた。瓶の蓋を空けて水を飲み、首をめぐらす。
ぐるりと街が見渡せる。頭の上には本物の空がある。青い空の下、ところどころ針のような細長い塔が突き出している。四方八方に棒を伸ばした、とんでもなく高いアンテナも見えた。足元には、混沌とした街の塊。突き出した塔やアンテナをひっぱれば、ごちゃごちゃした街がそのまま一緒に釣れてしまいそうな気がした。
そして、それらを挟むように緩いカーブを描く二本の黒い線。
城壁だ。ぐるりと、僕たちの住む街を囲んでいる。これが街を細長くしていた。
僕から見て左手の壁の向こうはより暗く、右手の壁の向こうはより整然としている。壁一つ越えるだけでも随分違う。この壁と壁の間はラインと呼ばれていた。
その壁一つがまた大変だった。住民は生まれたラインにしか住んではならないと決められている。壁一枚越えるには何らかの理由が必要だし、もちろん通行証も必要だった。
内側にあたる右手のラインは七番目。ここよりも上級の人々が住み、ここよりも綺麗に整備されている。それだけ『中央』の力が届いているということだ。
外側にあたる左手のラインは九番目。ここよりも下級の人々が住み、ここよりも混沌としている。おそらく、それより内側の住民は外側のラインの実情を知らないだろうし、知ろうとも思わないだろう。
内側の住民はより外側を疎んじ、外側の住民はより内側に憧れる。
この都市はそんなところだった。
二、三度体を上下に揺らし、背中に負った鞄の確かな重みを確認する。瓶を腰につけ直すと、隣の屋根に飛んだ。いつまでも油売ってたら指定の時間に間に合わない。それだけはメッセンジャーとしてのプライドが許さない。
ジェイの事務所は下から行くと迷うけど、上から行けばわかりやすい。何しろ、アンテナに布をくくりつけているんだもん。それも、ネズミだか猫だかわからない、変な動物のマークが描いてあるやつ。
決して青い空には溶け込まない、蛍光ピンクの旗を目標に屋根を伝っていく。屋根から屋根へ。屋根から屋上へ。そしてまた屋根へ。眼下にはバザールの色とりどりのテント。
跳ぶ瞬間の空気を切る感覚がたまらなく好きだった。
「お届けもんでーす」
窓から顔を出す。両手に持った黒いボックスを差し出した。
「アルフ、危ないから降りてきなさい」
書物机に向かっていたジェイがこめかみを揉んだ。
「なんでー? どこが危ないのさ」
と、体を前後に揺すった。今の僕は屋上の柵に足を引っ掛け、逆さまになった宙ぶらりんの格好。ぶらぶらと振り子のように揺れる。
「危ないったら危ないの。普通に入ってきなさい」
「ジェイみたいに無難過ぎる人生なんて、つまんないよ」
言いながらも僕は体を起こし、屋上のハッチから室内に降りた。ジェイは机の上で何やらしていたらしい。紙の上には文字だか記号だかわからないものが書き散らしてあった。
「じゃ、これにサインよろしく」
紙の上に箱を置き、更にその上に伝票を置いた。ジェイはめんどくさそうに左手で名前を書いた。利き腕じゃないものだから、ジェイの署名はのたくった子供のラクガキにしか見えなかった。
「ちゃんと書いてよ」
「別にいいでしょ。こうやってちゃんと届いてるんだから」
はい、と伝票の左半分を切り取って僕の胸ポケットに押し込んだ。右半分は机の上の状差しに突っ込む。確認伝票と受け取り人控えが分割されて、契約終了。僕の仕事はここでおしまい。
「それじゃ、ありがとうございましたー。またのご利用よろしくー」
さあ、帰ろうか、と窓から身を乗り出したところで腕をつかまれた。
「腹見せろ」
「何だよぅ。そんなの見る必要ないだろ。エッチー」
「アホ。お前の体は普通じゃないんだ。おとなしく言うこと聞け」
渋々室内に戻り、会社から支給されたベストを脱いだ。ズボンからシャツの裾を引っ張り出し、たくし上げた。
あらわになる体。外を走りまわる仕事だから手足は日に焼けて黒いけど、中の肌は白い。少し痩せすぎのような気もする。あばらが浮き出る脇腹には『9』の刻印。不自然なまでにくっきりと見える。
ジェイは僕の肌の上に、手袋をつけたままの手を滑らせた。くすぐったいけど、我慢する。自分のすることを妨げられると、ジェイはすこぶる機嫌が悪くなるのだ。
あばらを一本一本たどり、鳩尾に掌を当てる。へそから背骨まで、綿密に点検した。僕はジェイの指の動きをじっと見つめていた。
「大丈夫みたいだな。骨も内臓もしっかり定着している。飛んだり跳ねたりしてるから心配だったんだが、思った以上の回復力だな」
「まあね。あっちにいる頃から丈夫なだけが取柄だったもん」
「まあ、でも気を使うに越したことはない。普通、あれだけの怪我をしたら何かしら後遺症が残るもんだ」
「ん。わかった」
ジェイの手が離れると、シャツをズボンにたくしこもうとした。
「ちょっと待て」
と、止められる。
「念のためな」
手にインク壷と絵画用の平筆を持っている。
「えー。別に書かなくていいよぅ。裸になんてならないもん」
「いいの。誰が見てるかわかんないでしょ」
またシャツをめくる。ジェイは筆に黒いインクをつけると、『9』の刻印に線を重ねた。『9』が『8』になった。
「九番生まれだってバレたら強制送還なんだからね。くれぐれも注意しなさい」
「はーい」
よいこはよいお返事から。そんな僕の返事に、ジェイは満足そうにうなずいた。インク壷の蓋をしめ、元の通りに机の上に置く。そしてまた机にかじりついた。
僕は僕でシャツでばさばさと仰いでインクが早く乾くように風を送る。
「ねえねえ。これ何?」
受け取っただけで手をつけていない黒箱を指す。箱の表面はのっぺりとしていて、溝も何もない。どこが蓋なのか、どうやって開けていいのか。サイコロのような、さっぱり天地のわからない立方体。
ジェイは紙にペンを走らせながら、
「大したもんじゃないよ」
「大したもんでしょ。配達を僕に指定するくらいだもん」
それはつまり、僕への信頼の証。そして荷物が重要指定配達物だということ。現実に、黒箱には重要物を示す赤テープが貼られていた。
「これ何なの? すっごく気になる」
「メッセンジャーが配達物品に興味示すんじゃない」
「だってさ、他ならともかくジェイ行きでしょ? いつもの紙束じゃないんだもん。絶対普通じゃない!」
見せてよー、見たい見たい、とジェイの背中にはりつく。のしかかった途端、ペンがあらぬ方向へ蛇行した。書いてあった計算式の上を曲線が這う。
「お前な」
怒ったかな。そろそろと顔を覗きこむ。眉間に皺。
「見せたら帰るか?」
ペンを置き、呆れた声で書き損じた紙を丸める。幸い、怒ってはいないみたい。
「帰る帰る。約束する」
僕はジェイの首にぶら下がったまま。
「本当に大したもんじゃないんだけど」
右の手袋を脱ぐ。黒い布地の下から、雪のように白い甲が現われた。親指の付け根には、小さく刻印された数字。
白く長い指で黒箱の表面をなぞる。僕には適当になでているようにしか見えなかったけど、ジェイにとっては規則性があるようだった。途中で「あ、間違えた」と言ってなぞり直していた。
短い歌のような言葉をジェイがつむぐ。
言葉が箱の表面に貼りついていく。発した言葉がそのまま、ジェイの指の下から文字となって現われた。文字列が一本の光る線を描く。ぐるりと箱の周囲をめぐり、始点に終点を重ねる。
箱の、天を向いた面から光が出て、天井に光点をつくった。ジェイが短く、口の中で唱える。すると、光線が扇状に開いた。光が拡散する。
「すごい」
自然と僕の口から言葉が漏れた。
拡散した光の中に、幾重にも重ねられた円が現われた。薄い青色の輪は十六本。円の色は外側に向かうにつれ、暗く、濃くなっていく。
「これ、もしかして」
「そう、この都市だ。模型の代わりに使うホログラフィだよ」
ジェイがペンの尻で、内側から数えて八番目と九番目の輪の間を示す。
「ここが僕たちが住んでいる八番目」
十五層のグラデーションの中、薄いとも濃いとも言えない微妙な色合いの青。黒くもなれず、白くもなれない中途半端な色に思えた。
「この円の外側はどうなってるの?」
十六本目の輪の外を指す。
「何もない。荒野が広がっているだけだ。生物がいるかどうかもわからない、死の荒野だ。ナンバーエックスの巣窟という説もある」
ナンバーエックス。誰もが持っている数字の刻印にバツを重ねられた人々のことを言う。大罪を犯したものだけが得られる称号だ。バツをエックスと見たて、一般にそう呼ばれている。ナンバーエックスは最も外側の十五番目送りになるか、一生牢獄の中だと聞いていたんだけど。
「都市から追放されるんだよ」
僕の思考を補足するようにジェイが言った。あまりにもいいタイミングなものだから、心を読まれたのかと思った。
「じゃあ、ここは?」
僕が指した先には、小さな白円があった。指を突っ込むと、ホログラフィがわずかにぶれた。円に指が突き刺さる。
「そこは」ジェイが言い淀む。「よくわからない。『中央』であるということぐらいだ」
この都市を統括する『中央』。『中央』と言うくらいだから、真ん中にあることぐらいは子供にでも想像がつく。
「何があるんだろう」
僕が言うと、
「何があるんだろうね」
ジェイも言った。ジェイにも知らないことがあるんだ、と僕は少し驚いた。人間、知らないことがあるのは当たり前。だけど、ジェイは博識だから何でも知っていると思いこんでいた。
ぼんやりと十六本の輪を見上げる。青のグラデーションが透けて、窓の向こうがいつもと違う景色に見えた。
「さあ、これでいいだろう」
ジェイがぱん、と両手を合わせた。同時に都市が消える。光の線をのたくらせた箱は、ただの黒箱に戻った。
「ええー。もう終わりなのー? ケチー」
「何がケチだ。充分だよ。普通、届けたもん見せろなんて言う配達人はいないし、見せてやる受け取り人もいないんだぞ」
早く行け、とジェイがベストを投げてよこした。
ベストを引っ掛け、僕は口を尖らせて窓枠に足をかけた。
「窓から出るな。帰るならちゃんと出入り口を使え」
ジェイが言い終わる前に、僕は窓から跳んだ。壁から生えたパイプにつかまり、地上へ一気に降りる。手袋が熱を持って焼けてしまう前に、足が石畳につく。これまた支給品の厚い皮手袋はこのくらいじゃ破れない。
「じゃ、またねー」
見上げた窓から見える黒いもの。ジェイの手袋がひらひらと舞っていた。