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■May

 そう。
 それはとても些細で、どうでも良くて、時が経てば忘れ去られてしまうものだった。
 小さな小さな眠り姫と、王子と呼ぶには歳月を重ねすぎた男。
 いばらに覆われた城で二人は出会う。
 姫に魔法をかけた魔法使いは城の中で動けるただ一人の人間。
 何度も何度も自身に若返りの秘術を重ねながら来るべき時を待っていた。
 姫が目覚める日を。
 身に起きた異変を解明してくれる誰かを。

 魔法使いは数ある王の寝室の一つを勝手に占拠していた。
 椅子にもたれかかり、うなだれ、薄く埃が積もった絨毯のただ一点を見つめている。
 大時計の針はすでに止まり、今がいつなのかもわからない。窓から射す陽光が朝と夜を分けるのみ。
 最後に時計のねじを巻いたのはいつだったか。
 一昨日なのか。去年なのか。百年前なのか。
 ゆっくりとした呼吸が悠久の只中を流れる。
 停滞した空間がたまらなく心地良い。いずれは時だけでなく自身のことも忘れゆくのだろう。
 刻まれるべき時はここにはない。

 開け放したままの扉。いばらが絡みつき本来の機能を失っている。それどころか自由に出入りできない。
 まるで天然の牢獄。
 囚人に出ようという意欲はない。術者が封印の中心にいるべきなのは当然だが、それ以上に現況がとても気に入っていた。
 憂鬱な仕事もわずらわしい人間関係もない。
 このままここで朽ち果てるも良かろう。浪費することなく生きていくのも良かろう。

 牢獄が開け放たれる。
 無遠慮に室内に押し入った男の顔は、初めて見るが知っていた。魔法使いが戯れに先を読んだ折、推奨に浮き出た顔だ。
 不精髭と細かく刻まれた皺、浅黒い肌。お世辞にも美男とは言いがたい。威厳もなければ風格もなく、どこにでもいるような平凡な顔付きだった。
 疲労の見える男は抜き身の剣を持ったまま、魔法使いに言い放つ。
 ***

「五月病なんだよ」

 ***
 電話口で男が言った。
「いいからとっとと会社に来い。もう有給は残ってねぇんだ」
 あっさりと肯定した同僚は励ますよりも先に仕事のことを口にする。
 メモ帳の上に螺旋を描きながら私は文句を垂れる。
 連休が明けてからこっち、どうにも気が乗らず、苦しい言い訳を捻り出して会社を休んでいた。
 こうやって電話が来た以上、もう限界なのかもしれない。
「お前担当の新人が困ってるんだからな」
 相手の後ろから聞こえる若い声。茶が入ったことを告げる彼の声は弾んでいる。
 私がいないほうが伸び伸びしてていいんじゃないか?
 わざとらしく聞こえるように大きな溜息をついて受話器を置いた。
 メモ帳を埋め尽くすのは螺旋と罵声。
 ひとまず極彩色の画面を映すテレビの電源を切り、ぬいぐるみのウサギを抱いてベッドに身体を投げ出した。

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