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■人格分離器
あるところにAくんという青年がいました。Aくんは少し短気で怒りっぽい性格でしたが、その一方、とても我慢強い性格でもありました。
Aくんが我慢強いのには理由がありました。とても嫌なことがあった時、誰かにけなされた時、Aくんは頭に血が上ります。血が上って、今にも殴りかかりそうになります。しかし、そんな時、Aくんは怒っている自分とは別に、とても冷静な自分を感じます。自分の中で、もう一人の自分が冷静にAくんの感情、行動を観察しているのです。それを感じると、Aくんはもう一度自分を見なおし、何とか踏みとどまることができるのです。
Aくんはそんな自分が不思議でした。多重人格、なんてものではありませんが、自分がもう一人自分の中にいるように感じるのです。どっちもAくんであり、どっちも自分ではありますが、その二つの自分は正反対の性格をしているように思えます。
ある日、Aくんはそれを博士に相談しました。博士は近所に住んでいる有名な科学者で、Aくんは小さな頃からこの博士の家に出入りしていました。Aくんの疑問を聞くと博士は、「じゃあ、私の実験台になってくれないか」とAくんに言いました。
博士は、性格について研究していました。その研究は実験の段階にまで進んでいました。これが世に発表されれば画期的だ、と博士は言いました。Aくんは怪しいなぁ、と思いましたが、相手は博士です。博士号をいくつももらい、立派な研究をいっぱいしている博士です。それに、自分の長年の疑問も解けるのです。Aくんは、少し悩んでから、「協力します」と答えました。
博士はすぐに実験に移そうとはしませんでした。Aくんの髪の毛と爪の先、そして血液を採取すると、その日は帰るように言いました。実験の準備には長い時間がかかるとのことでした。それでもAくんは待ちました。博士はずっと研究所にこもっていて、誰とも会おうとしませんでした。
実験をはじめよう、と博士から連絡があったのは三か月後でした。研究所に行くと、Aくんは頭に黒いヘルメットのようなものをつけさせられました。そのヘルメットには、何本もコードがついていて、そのもう片方の端は大きい箱につながっていました。博士が何やら赤いスイッチを押しました。そのとたん、Aくんの身体がびりびりとしびれてきました。特に頭がびりびりとしびれます。髪の毛が全部引っ張られて、その表面を虫でも動いてるような、そんな感触でした。でも、痛いとは思いませんでした。びりびりに慣れてくると、だんだんと眠くなってきました。とてもまぶたが重たくて、我慢できません。ついに、Aくんは眠ってしまいました。
目が醒めました。何十年も眠っていたかのようで、とても身体が重いです。Aくんは目だけ開けて、頭を動かしてあたりを見てみました。Aくんはベッドの上に寝かされていました。部屋は、何もない、殺風景な部屋です。右隣には、もう一台、ベッドがあり、そこにも誰かが寝ていました。誰だろう、と考えていると、部屋の入口から博士が入ってきました。
隣の人がまだ眠っていることを確認すると、博士は説明してくれました。
Aくんが実験台になった研究とは、一人の人間の人格を分離する研究であること。Aくんの中にいる、主観者としてのAくんと傍観者としてのAくんを別々にしたこと。Aくんのクローンをつくり、もう一つの傍観者としての人格をその身体に入れたこと。右隣で寝ている人間がそのクローンのAくんであること。
こうしてAくんは、AくんとBくんという二人の人間になりました。Aくんは以前よりも短気になり、感情を素直に表すようになりました。Bくんは、以前よりも冷静になり、何事に対しても考えてから行動するようになりました。
AくんとBくんはいつも一緒にいたわけではありません。元々は同じ一人の人間です。もう一人の自分と一緒にいるなんて嫌だ、とどちらからともなく言い出し、それぞれ別の道を歩むようになりました。Aくんはその素直で感情的な文章を買われ、新人作家となりました。Bくんは的確な分析と冷静な判断力を買われ、出版社に就職しました。
二人は全く違う職に就き、連絡も取らないようにしていました。しかし、所詮文学の業界は狭いものです。ある日、BくんはAくんの担当編集になってしまいました。Aくんの思いのままに書いた文章を、Bくんは適切に読み解いてアドバイスを送ります。同じ人間だっただけに、趣味は同じだし、お互いの性格も知っている。癖も知っています。ケンカしながらもそんな関係が数年続き、二人は出版業界でも有名なコンビになっていました。
ある初夏の日、唐突にBくんがAくんのところに女の人を連れてきました。Aくんが原稿を渡しながら目で「誰?」と聞くと、Bくんは「新人の編集。私が教育係になったんだ」と答えました。ふーん、とAくんは女の人を見ました。女の人はCさんといいました。大学を出たばっかりなのか、まだ少し幼さが残る、でもきれいな顔立ちをしています。Aくんたちとは頭一つ分も背丈が低く、かわいい人でした。Aくんは一瞬で恋に落ちました。
しかし、AくんとBくんは同じ人間でした。趣味も同じなら、好みも同じです。Aくんが好きになったCさんは、Bくんが好きな人でもありました。Aくんが臆面もなく「Cさんが好きだ」と言いますと、少し考えた後、Bくんも「私も好きだ」と言いました。いいコンビだった二人に、決別の危機が訪れました。
Aくんは恋煩いで恋愛小説ばかり書くようになり、Bくんはそれを読むのを拒否しました。これでは仕事になりません。二人は決着を着けることにしました。二人はCさんを呼び出しました。Cさんは妙に殺気立っている二人に怯えました。二人はドキドキしていてあまり喋れませんでしたが、ふと、同じに「好きです」と告白しました。
結果、OKを貰えたのはBくんでした。Cさんも、以前から先輩だったBくんを気にしていたのです。Bくんは珍しく大喜びし、Cさんに抱きついてしまいました。一方、Aくんは落胆どころの話ではありませんでした。その日から家に閉じこもり、人を追い返し、誰かと話したと思ったら「死にたい」ともらすようになりました。ごはんも食べなくなりました。日に日に衰弱していくAくんを見て、Bくんは不安になりました。たしかにBくんは今幸せですが、そのせいでAくんが不幸になってしまったのです。このままではAくんは死んでしまう、と考えたのです。
Bくんは博士のところに相談に行きました。双子よりも近い、同じ人間とも言えるAくんが死んでしまうのは嫌だったからです。博士ならAくんを何とかできるのではないか、と助けを求めました。博士はあのBくんが生まれた日と同じ姿で、同じ場所に住んでいました。博士は久しぶりに見るBくんに懐かしさを感じ、優しく挨拶してくれました。しかし、Bくんにはそんな余裕はありません。Bくんが今のAくんのことを話すと、博士はヒゲをなでながら、「なるほど、感情に歯止めがかからなくなるとこうなるのか」と遠い目をして言いました。「何とかならないんですか」とBくんは博士に詰め寄ります。静かながらも、怒っていました。何に対してかわからないけど、おこっていました。
Bくんの迫力に押された博士は、ある提案をしました。二人が一人に戻ってはどうか、と。分離できたのだから、元の一つにすることも可能だというのです。
二人は一人に戻りました。AくんとBくんは、Aくんになりました。Aくんは早速Cさんのところに行き、事情を説明しました。そして改めて、Cさんが好きだ、と告白しました。
Cさんの返事はこうでした。
「私は、クールで物静かで、客観的に物を見るBさんが好きだったの。Aさんでもないし、Bさんと一緒になったAさんでもないの」