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■糸
歴史がある病院、と言えば聞こえはいいけど、結局のところは薄汚れた感があるだけの古臭い病院だ。
病院の廊下はリノリウム、というのが相場。
だけど、この病院の廊下はところどころ剥げていて、コンクリートが剥き出しになっている。
貼りなおすなり、隠すなりしないのか。
そう思って見ていると、看護婦がひょい、と目の前の浅い穴を飛び越えた。
そんなことを思うのは、私だけらしい。
私も看護婦にならって穴を飛び越えながら廊下を進んだ。
第3病棟3階の南端、ドアを軽く三回叩く。
「はい」と男の声が返ってくる。
そっとドアを横にスライドさせ、できた隙間から身体を滑りこませた。
三人分のベッドが横1列に並んでいる、狭い病室だ。
その奥に、彼がいる。
きっちり閉ざされたカーテンが、時々揺れる。
シルエットから見ると、彼はベッドの上であぐらをかき、何やらもがいている。
また発作でも起こしたのかな?
不安を胸に、カーテンをめくってみる。
たしかに彼はそこにいた。ハサミを片手に、見えない何かと格闘していた。
少なくとも、私にはそう見えた。
「何、してるの?」
そう聞いても、「糸が、糸が」としか言わない。
糸が、どうしたのだろう。
空中をしきりにハサミで切っている。
しゃきん、しゃきん、という鋭い金属音が耳に障る。
「糸なんてないよ」
「ある。俺には見える。白い、細い糸が俺の身体に絡みついているんだ!」
しゃきん。
しゃきん。
「ハサミ、貸して。私が切ってあげる」
糸なんて、見えなかった。だけど、彼には糸が見えていて、彼には切れない。
ならば、私が糸を切ろう。
彼は素直に私にハサミを渡す。洋裁用の大きなハサミだった。
黒い持ち手が私の手にしっくりとなじむ。まるで、長年使い続けたものであろうかのようだ。
「糸、どこ」
彼が人差し指と親指で何かをつまんだ。つまんだ指先を私に突きつける。
手を差し出すと、彼はその掌の上に、ふわり、と幻影の糸を落とした。
幻影の糸には触感があった。もちろん、私には糸は見えない。だが、たしかに掌の上に糸があった。細いが、しっかりとした、固い糸だ。
彼の手から糸を受け取ると、それを指でつまみ、そのすぐそばを、
しゃきん
と、切った。
手応えはなかった。
「切れた」と彼がつぶやいた。
「切れたの」と私が聞き返した。
すると、すぅ、っと私のつまんだ指先に、白い糸の先端が現れた。
「糸だ」
先端から、段々と白く染まっていった。糸はたしかに彼に絡まっていた。
糸が白くなるごとに、彼の姿は見えなくなっていった。白い糸が彼を覆い尽くす。長い、長い糸が、 彼に絡みついている。さながら、彼は人間糸巻きだった。
私はそれを引いた。彼も、もう片方の切れ端を持って引いた。
夢中になって、糸を手繰り寄せる。抵抗なく糸はするすると抜けていくけれど、いつまでも終わらない。私の足下に大量の糸が積もり、彼のベッドの上にも積もった。
引いて、引いて、引いて、
くい、と手が抵抗を感じた。
最後だった。
糸は、彼の脇腹、あばらの少し下から飛び出ていた。
「引いていい?」と彼に聞く。
うん、といううなずきが返答だった。
両手で持って、力一杯引いた。
ぷつん
という音がした。
「あれ?」
身体がぐらりと揺れる。眩暈のような、そうでないような、変な感覚。糸が手の中からスルリと落ちた。
ジワジワと視界を黒が侵食していく。
彼の身体が崩れ落ちるのが、見えた。
ブラックアウト。