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■家族
幼い頃に交通事故で両親が死に、頼れる血縁もなく、養ってくれた祖父は五年くらい前に心臓発作で逝ってしまった。久々に友人に会えば、「独りで寂しくないか?」と聞かれる。世間的には『可哀想』な天涯孤独の身の上。それが私だ。
別に寂しくなんかない。ひとりだけの生活、ひとりだけの家にも慣れてきて、食っていける程度には仕事も順調。特に家族を必要と思ったこともないし、家族がほしいとも思ったことはなかった。小さい頃にはそのくらい思ったかもしれないが、もう子供じゃない。自分のことくらいは自分でできる。このままひとりで生きていくのも気楽かもしれない。
そう思うようになってきたある日、私は家の前で少年を拾った。小雨に街が煙る朝、コンクリートの軒下で少年は震えていた。膝を抱え、顔を隠し、湿った黒髪が首筋に張りついていた。薄いシャツは半分透け、細い身体の線が見える。シャツからのびた腕には鳥肌が立っていた。いつからいたのだろうか。そこでは充分に雨を凌ぐことができないのに、少年は身体をできるだけ小さくして軒下にうずくまっていた。
「おい」
私の声に、少年の頭が跳ね上がった。緊張は容易に見てとれる。恐る恐る私のほうを向く。細い目が私を捕らえ、怯えの色を見せた。
「そこで何してる」
少年は答えない。
「お前がそこにいると商売にならないんだ。どいてもらおうか」
扉の横の看板を指し示した。少年の視線がそちらに移る。古臭い木の看板に読める程度の達筆で『矢部医院』と書いてある。
看板を見ても少年は動こうとしない。何も言わない。目の下に隈が浮いた、やけに白い顔だけが私を見ている。
「そろそろ開業時間なんだ。とにかくうちに入れ」
少年の細い腕を取って中へ促した。疲弊しているのか、抵抗もしない。力なく立ち上がり、素直に中に入ってきた。私は少年の腕をとったまま、待合室を抜け、診察室を抜け、母屋に上がった。茶の間から猫の額程度の小さな庭が見える。しとしとと降る雨が樹の葉に当たり、音もなく落ちる。今日はそうでなくとも肌寒い。着ていた白衣を脱ぎ、少年にかけた。
「着るものと食べるものを持ってくる。そこで待ってろ」
少年は従順に、ちゃぶ台の前に座った。白衣にくるまり、斜め下の畳に視線を向けている。しかし、その瞳には何も映っていなかった。全てを飲み込む虚無の黒がそこにあるばかりだった。
そのまま少年は私の家にいることになった。素性は知れないが行くところのない少年と、ひとり暮らしの私。受け入れることなど造作もない。同情か、興味か、何の気まぐれか。私は彼を家に住まわせることにした。
物静かな少年は、喋ることをしなかった。口数が少ないのではない。まるで言葉を忘れてしまったかのように、硬く口を閉ざしていた。私が話しかけても、小さく頷くか左右に頭を振るくらいだ。だから名前も歳も私は知らない。歳は知らなくても構わないが、名前はないと不便だった。私は少年に「秀一」とつけた。それは唯一の理解者だった祖父の名だった。
名前をつけた時から、私と少年は家族になった。
普段、私は仕事で秀一に構ってやることができなかった。小さな町医者でもそれなりに需要はある。秀一はそんな私の邪魔をしてはならないと思っているのか、昼間は家の奥で静かに遊んでいた。今までは私ひとりで暮らしていた家だ。子供用のおもちゃなどはない。秀一の遊びといえば、専ら書斎での読書だった。秀一はとても物覚えがいい。単純な記憶力もそうだが、理解力が優れていた。学習漢字は勿論のこと、常用漢字も覚え、すぐに私の蔵書を容易に読めるようになった。仕事柄、蔵書は娯楽となるような書籍よりは医学の専門書が多い。秀一はそんな本も読む。理解しているのかどうかはわからない。子供にとって面白くない本だと思うのだが、気がつけば本棚の中の半数以上の本は読破していた。
秀一はそのような点では優れている。しかし、感情表現はとても下手だった。笑わなければ、泣くことも怒ることもない。いつもあるのかないのかわからない表情でいる。一度試しに、
「笑ってごらん」
と言ってみた。
秀一から反応が返ってくるまで少々間が合った。彼なりに困っていたのかもしれない。黙ったまま、私の顔を見、床を見、庭を見た。やがて、決心したのか、私に顔を向け、顔の筋肉を動かして表情らしきものを作った。
一言でいえば、奇妙、だった。
口の端をつりあげて頬の筋肉を持ち上げ、目蓋は半開きで眉間にしわを寄せる。笑顔には程遠く、表情と言えるようなものでもなかった。秀一はその顔を寄せてくる。自分なりに必死で考えた、笑う、という表情を私に見せている。
我慢できなかった。
一通り笑ってすっきりした私だったが、秀一の機嫌は損ねてしまった。秀一は奇妙な笑顔からいつもの表情に戻り、頬をさすったりつまんだりしていた。顔の筋肉が強張ったのか。それとも表情というものが何か考えていたのか。顔に出ずとも、明らかに漂う雰囲気は険悪になっていた。笑えといわれて笑い、挙句顔を見て笑われた。気分を害するには充分な理由だ。そして、笑い転げる私を尻目に、秀一は家を出ていってしまったのだった。
「あーあ……」自分で自分に呆れた。笑わせようとしたのは私だったのに。秀一はそれに応えてくれたのに。「やっぱ、笑っちゃまずかったかな」
秀一が感情表現に乏しいと言っても、感情がないわけではない。自己の意思はあるし、こちらから話しかければ応えてくれる。それは一緒に暮らした数年間でわかっていたはずだった。
少し経ったら帰ってきてくれるよな。そう思い、後を追うことはしなかった。歩いて行ける距離なんてたかが知れている。日もまだ高い。急いで探さずともいいだろう。腹が空けば帰ってくる。それに、秀一が帰ってこれる場所はここしかないはずだ。
勝手にそう決めつける。
茶の間の真ん中に寝転がり、煙草をふかした。秀一がいるから、とやめていた煙草だった。暗い色の天井に紫煙が昇っていく。静かな部屋の中でただそれだけを見つめている。灰が長くなってきた頃に、灰皿を探すために立ち上がった。紙巻煙草を灰が落ちないように垂直に持ち、台所に行く。アルミの小さな灰皿はいつもの場所にある。いつもの、食卓の上。
しかし、いつもの場所にはなかった。そう、灰皿を見ていると我慢できなくなるから、どこかへしまったのだった。やむなく、シンクの中に灰を落とす。銀色のシンクの中に黒い点が広がった。
静かな家は日常だった。秀一が来る前も、来てからも家の中は静かだった。静かな室内は私にとって当たり前の空間であり、最も落ち着く場所だった。
なのに、気が気でないのはどうしてだろう。
煙草をシンクの底に押し付けた。じゅ、と小さな音がして、歪み縮んだ煙草が平らな底に横になった。
火が消えたのを確認してから玄関へ。廊下を歩く自分の足音がやけに大きく響く。足音が静けさを引き立てる。静寂が耳について離れない。頭を振ってそれを払おうとしたが、髪が揺れただけで、すぐに静寂は戻ってくる。庭の木々は風に揺れ、さわさわと鳴っていた。濃い色の雲が出ている。少しだけ、雨のにおいがした。
ひとりでいる静けさと秀一がいる静けさは違う。
玄関は無人ではなかった。半分だけ開いた引き戸から秀一が顔を出している。
「秀一」
いつの間にか私は孤独を恐れるようになっていたらしい。秀一の顔を見るなり、胸に温かいものが広がる。安堵と、そして嬉しさが込み上げてきた。私はその感情を隠そうと厳しい表情を努めていたが、声まではごまかせなかった。知らず、秀一の名が柔らかい響きになる。
おずおずと玄関に姿を現わした秀一はひとりではなかった。小学校に入るか入らないかくらいの小さな少年を抱えていた。
少年は身体のあちこちにかすり傷をつくり、膝は広い範囲を擦りむいていた。長めの髪はぐしゃぐしゃにからまり、白い衣服には乾いた泥がついている。身体を完全に秀一に預け、肩に顔を埋めていた。半泣きになった顔が少しだけ見える。秀一の白い首から背にかけて少年の腕が回っているが、力はなかった。
「この子。駄目かな」
秀一の唇が動いた。まだ声変わりしていない少年の高い声だった。初めて聞く声だった。
とても嬉しかった。秀一が口をきいてくれたことと、私を頼ってくれたこと。今度こそ隠さずに喜びを顔に出す。
「いいよ、おいで。まずその子の手当てをしよう」
私は秀一から少年を受け取ろうと手を伸ばした。しかし、秀一は首を振る。その顔に、今までなかった瞳があった。いつものような抜け殻のような目ではない。輝きが違う。ひとりの人間として存在する者の目になっていた。そして秀一は決して少年を離さなかった。
「まあ、いいさ。ちゃんと着いてきな」
そう促して診察室へと歩いていく。ちらりと振り向くと、少年を気遣いながら着いてくる秀一の姿があった。