05/13
■顔
家に帰ったら母親の顔が変わっていた。
「あら、お帰りなさい」
にこにこと玄関で出迎えてくれた顔は、知らない顔だった。
靴を脱ぎかけていた私は一歩下がり、回れ右をして、狭い玄関から出ていった。
「由美ちゃん、どうしたの? 帰ってきたんじゃなかったの?」
後ろから聞こえる声はたしかに母の声。今日も昨日もその前も、生まれたときからずっと聞いてきたアルトの声だった。
ドアを閉めようとして思い直し、そっと、玄関ドアの隙間から中を覗く。
「由美ちゃん?」
つい先日にタイルが敷き詰められた三和土(たたき)から、一段上がった板張り廊下の始点。そこに立っているのはやっぱり知らない顔だった。
「お母さん?」
こわごわ声をかけてみる。
「なあに?」
返事した。
嘘だ、と思った。お母さんはもっと皺があったし、しみも多かったし、一重だし、目蓋は厚ぼったくて厚すぎて肉が垂れてたし、右頬のど真ん中に大きなほくろがあった。こんなきれいな顔の人は知らない。
「誰だ」
「失礼ね」
にこにこ笑顔が憤慨した。
「母親の顔を見忘れちゃったの? 親不孝な娘ね」
「お母さんの顔じゃないんだもん」
「そんなに変わったかしら。大していじってないのよ」
靴箱の上に張りついている鏡をまじまじと見る。右手で頬をさすってみたり、髪をかきあげたりしてみた挙句、
「まあ、綺麗」
「自分で言うな」
自画自賛。いつも無駄に自信がある母の悪い癖だ。
玄関に入り、靴を脱いだ。鏡を見つめたままの母を無視して階段を上がる。
「亮が見たら泣くかもよ? 『こんなのお母さんじゃない!』って」
「いいじゃないの。きれいなお母さんって嬉しいでしょ」
それは、と私は足を止めた。手すりにもたれて母を見下ろす。
「でもいきなり変わるなんて思わなかった」
母が美容整形に興味を持ち出したのは一年くらい前のこと。プチ整形という言葉が一般に受け入れられ始め、美容外科のCMが深夜ではなく、真っ昼間に流れるようになった頃だった。
テレビ番組でもよくやってる。顎を削るとか、鼻を高くするとか、そんな些細なことでも人の顔は随分と変わって見える。
ほくろにコンプレックスがあって、常日頃から顔を気にしていた母が興味を持つのも、まあ当然なんだろうけど。
変身願望っていうのかな。
それにしても、私たちに内緒で手術計画を立てていたなんて。
「お父さんには言ったの?」
「もちろん言ったわよ。診療にだってついていってもらったもの」
仲の良い夫婦ですこと。だけど、子供たちに内緒なんて、水臭いのではなかろうか。
「お母さんうれしいのよ。ほくろはなくなったし、待望の二重の目でしょ。もう十歳も若返ったみたい。エステの勧誘の人に歳間違えられちゃったのよ」
勧誘はわざと歳を間違えるのではないのだろうかと思ったが、思っただけで口にはしなかった。今とても浮かれている母の気分を害したくはなかった。
「やっぱりね、きれいになるって素敵なことよ。『おばさん』じゃなくて女性扱いしてくれるんだもの」
るんるん、と鼻歌混じりに玄関に飾られた花瓶の花を整える。
たしかに、恥らうことを忘れ、なりふり構わなくなったおばさんたちを女性と言うのは気が引ける。あんなおばさんたちを捕まえて『お嬢さん』とのたまうお昼番組の司会者はすごい。
そういえば、滅多にしない化粧をしている。髪型もいつもと違う。
「あまりにも嬉しかったから帰りにお父さんの会社に寄ったの。あの時の顔、あなたたちに見せてあげたかったわ」
きっとぽかんと口を開けて立ち尽くしたに違いない。ここまで大化けするなんて、毎日顔をあわせていた身内が驚かなくて誰が驚く。
「顔真っ赤にしてたのよー。でね、今夜デートしようって言ってくれたの。何年振りかしら。だから夕飯はあんたたち二人で食べてね」
「えー」
いそいそと準備のためだろうか家の中に戻って行く。なんと歩き方まで変わっていた。
外面が変わると振舞いまで変わってしまうものだろうか。
嫌そうに言いながらも、私は一人の女として生き生きとし始めた母が嬉しくもあり、羨ましくもあった。
「私もしたいなぁ」
ぷるぷるのほっぺをつかみながら、そんなことを呟いてみた。