02/15

■雨の日の塩素

 塩素は雨の日が嫌いだ。
 温められたコンクリートが湿るにおい、むせるような青臭い植物のにおい、べたべたして肌に張り付く髪。
 雨が嫌いな塩素はとても雨に敏感だった。
 雨の香りがすると急いで家に帰り、窓を全部閉めようとする。
 二階から順番に閉めていく。トイレも台所も風呂場も全部、鍵までかける。
 一通り終わると、最後に居間に来る。ふかふかのソファにのって、彼が洗濯物を取りこみ終わるのを見る。
 大きなガラス戸が居間と中庭を隔てている。
 少しだけ空いた隙間越しに塩素は彼を見る。
 真っ白いシーツが、淡い色のバスタオルが、お気に入りのブラウスが、彼の持つ籠に吸い込まれていく。

 はやくしないと あめがふるよ

 雨が降れば、せっかく洗った洗濯物が濡れる。彼も濡れる。
 濡れると冷たいことを塩素は知っている。ぴったりと服が肌に吸いついて気持ち悪いのを知っている。
 塩素は彼を急かすけれど、彼はそれでも急がない。のんびりと、靴下を籠に放りこむ。
 籐の洗濯籠は大きい。塩素がすっぽりと収まるくらい大きい。
 乾いた洗濯物が入っている籠の中に収まって遊んだことがある。柔らかいタオルやシャツからおひさまのにおいがした。
 その後は彼に見つかって怒られた。今はもうしない。塩素は物分かりのいいこどもだった。

 はやく はやく

 大きな籠を抱えて彼が居間に上がってくる。両足がフローリングについたところで、塩素は大きなガラス戸を閉めた。背伸びして銀色の錠を下ろす。

 かちん

 下ろすと同時に、犬走りに黒い点ができた。ぽつ、ぽつ、と点は増えていく。
 雨の時間が始まった。
 ガラス戸に背を向けて塩素はソファに座る。大きな画面のテレビをつけて、膝を抱える。
 雨音とニュースの乾燥した音が重なる。テレビの中のおじさんが難しい言葉で喋っていた。
 眉根を寄せた、精一杯のしかつめらしい表情で画面を見つめる。
 外は暗い。塩素の白い顔の上を、テレビが放つとりどりの色が滑っていく。
 煙みたいな雲が空一面を覆っていて、おひさまの光が届かない。
 なぜかそれが悲しかった。

 たべる?

 塩素の前に透明な器が現れた。ちょっと黄色いバニラアイスがこんもりと盛られている。てっぺんには薄いアーモンドの欠片。
 見上げると、彼の顔。柔らかな髪の下の目が、笑っていた。
 塩素は銀色のスプーンでそっとアイスをすくう。スプーンまで冷えていた。冷たくてちょっとだけびっくりする。
 口に入れれば、冷たさと甘さが広がる。アーモンドはしゃきしゃきして香ばしい。

 はやく やまないかな

 塩素の隣に彼が座る。やはり、塩素と同じ器を持っていた。スプーンをくわえ、空いた手で塩素の頭を撫でる。

 おひさま みたいの

 塩素は雨の日が嫌いだ。湿った土のにおいと、街が濡れていくにおい。
 みんなさみしそうで、みんな寒そう。景色がしょんぼりとして見える。元気がない街はいつもの街じゃない。塩素が知らない別の街だ。

 きらきらひかるから

 だけど、雨上がりは好きだった。濡れた景色が太陽の光を浴びてきらきらと光る。
 どんな宝石よりもきれい。どんな絵よりもきれい。
 雨の日は嫌いだけど、ちょっとだけ、待ち遠しい。
 ソファに足を投げ出して、塩素は彼と雨上がりを待つ。

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