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■塩素が風邪を引いた日

 僕は塩素という少女とともに生活している。
 塩素と僕には特別な血のつながりはない。多忙な塩素の両親に代わり、塩素の身の回りの世話をしている。彼女が生まれたときから、僕の生活は塩素とともにある。
 塩素というのはもちろん本名じゃない。塩素は塩素が好きだから塩素と呼ばれるようになった。
 僕が掃除した後の風呂が彼女のお気に入りだった。しっかりとカビ取りをした風呂場に湯を溜め、鼻までつかるのが好きだった。
 そんな塩素が風邪を引いた。
 熱もあり、咳も出る。
 塩素は病院が嫌いだった。塩素の香りは好きだけど、あの消毒薬のにおいは好きじゃない。入り口に立つだけでもだめだった。足がすくんで、そこから先にはすすめない。
 だから、医者を呼んだ。
 塩素はそれですらいやがった。医者の白衣に染み込んでいる微かなにおいにも敏感に反応した。

 だめだよ このくらいがまんしなくちゃ

 そう優しく言い聞かせて、はじめて彼女は首を縦に振った。
 受話器を手に取り、医者を呼んだ。少し神経質な顔をした医者だった。丁寧な診察だったけれど、物言いが高飛車で、僕はむっとした。
 医者がカルテを書いているとき、塩素が僕の耳にささやいた。

 かおがこわいの

 小さな塩素の手が僕の袖を握っていた。

 ぼくもだよ

   素直にそうささやき返すと、少しだけ塩素が微笑んだ。
 栄養を取って、暖かくして、とありきたりのことを言い、処方箋を置いて医者は帰っていった。処方箋にはよくわからないカタカナの名詞が並んでいた。薬の名前だろうというのは見当がつくけれど、実際何の薬なのかはわからない。
 近所の薬局に行って薬を取ってくることにした。早く塩素に薬をあげたかった。一日も早く治ってほしかった。
 塩素をベッドに寝かせた。涙がたまった目で僕を見上げる。僕が出かけることに不安を感じているのか、袖を離そうとしない。

 おくすりとってこなきゃ すきなものもかってきてあげる

 優しく頭をなでてあげる。塩素の細い髪が僕の指に絡み、するりと抜けていった。まだ熱が引かないのか、広いひたいに髪がはりついていた。うっすらと頬が上気し、細かい汗が浮いている。かたく絞ったタオルでひたいをふく。塩素の大きな目が猫のように細くなった。
 塩素がやっと落ち着いた頃、袖を握っている手をそっと離して外に出た。処方箋と財布と鍵をポケットに入れて、街に出た。
 薬局で薬を待っている間も、買い物をしている間も、塩素のことが心配だった。塩素はまだ小さな女の子だ。幼い頃から病気がちで、誰かがそばにいないとすぐ風邪を引いてしまうような女の子だった。それに、あの家に住んでいるのは僕と塩素だけ。広い家に彼女ひとりを残してきたことになる。ひどい罪悪感。いつもそうだ。
 走って帰った。息を切らせて、玄関の前に立つ。鍵を開けるのももどかしい。鍵穴にうまく入らない。焦るとうまくいかないって知っているのに、どうしても焦ってしまう。

 がちゃ

 やっと鍵が開く。玄関を大きく開いてただいま、と言う。靴を脱ぎながらもう一度、ただいま、と言う。
 ぱたぱたと廊下の向こうから足音がする。バスタオルを身体に巻きつけた塩素が走ってくる。また風呂に入っていたらしい。僕が風呂掃除していたのをどこかで見ていたのかもしれない。

 かぜがひどくなるからだめっていっただろ

 そうたしなめると、塩素は半ベソをかきながら僕に抱きついてきた。腰のあたりに細い腕を巻きつける。ぐすぐす、と鼻を鳴らしながら、僕に抱きつく。

 ごめんなさい おかえりなさい

 本当はわかっていた。塩素はさみしかったから風呂に入っていたんだ。落ち着く塩素の香りに包まれていないと不安だったんだ。

 ごめんね かえってきたよ

 濡れた塩素の髪をなでる。抱きつかれたまま、脱衣所まで彼女をうながす。ぱたぱたと二つの足音が玄関から続く。脱衣所も風呂場も扉は開けっぱなし。ほんのりとした塩素の香りが鼻についた。
 泣きやんだ塩素の身体をタオルで包む。身体はすっかり冷えていた。くしゅん、と小さなくしゃみが聞こえる。

 もういちど おふろだね

 こくん、と塩素がうなずく。よし、と僕は塩素に微笑みかけた。塩素も僕に微笑み返す。
 手に持ったままの買い物袋から小さな包みを取り出した。薬のような包みを、塩素が猫のようにのぞきこむ。僕の腕に絡みつき、みせて、みせて、とさかんにひっぱる。

 ごほうび

 小さな塩素の口に白いタブレットを放り込む。驚いた塩素の顔が、喜びに変わる。しゅわしゅわと舌の上で溶けるラムネが嬉しかった。
 塩素は僕が心配しているのを知っている。僕は塩素が不安なのを知っている。お互いをよく知っているからこそ、僕は塩素が大好きだし、塩素は僕が大好きだ。

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