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■悪魔と呼ばれる猫
そいつの首筋をつかみ、持ち上げた。思っていたより柔らかくて、長めの毛がくすぐったい。
鳴きながらそいつは暴れる。暗くて狭い駐車場に潰れた猫の声が反響。私に向かって手足をばたつかせる。私の目の前で鋭い爪が宙を掻いた。そいつに逃れる術はない。
下では猫たちが優雅に食事を楽しんでいる。
「お前猫じゃないな」
外見は完全に黒猫なそいつにそう言ってやる。
「にゃーん」
まさしく猫撫で声でそいつは答えた。声も猫。しかし明らかに他の猫とは違う。猫は口の端を吊り上げ、歯を剥き出しにして笑わない。ヒゲにはエサがくっついている。
「自分が猫じゃないってわかってんのか?」
「にゃーん」
にこにこにこにこ。
そいつが笑う。
「あのな。猫ってのはそんな風に笑わないの。両手を使ってエサ食わないの」
そう。そいつは野良猫に混ざりエサを食べていた。後ろ足で立って。両手で。私がいるその目の前で、だ。
「にゃあにゃあ」
「猫のフリしてエサ食おうなんざ甘いんだよ」
こっちだって少ない給料から野良たちのエサ代を捻出しているんだ。大好きな猫のためであって『猫のような何か』のためではない。
野良たちが私を見上げている。見ればアルミのトレイはきれいになっていた。いつもなら食べ終わればさっさと帰る野良たち。ガラス玉のような透き通った瞳が『エサをくれ』と言っている。どうやらこの『猫のような何か』はだいぶガツガツと食べていたようだ。
「あー、悪ぃ。今日はもうない」
そうは言っても野良には通じない。放っておけばそのうち帰るだろう。それまで視線に耐えられるかどうかはわからないが。
「にゃぁーにゃぁー」
吊り上げている『猫のような何か』がまた両手足を振り回す。
「お前は本当は何なんだ?」
「にゃあ」
「……食っちまうぞ」
「それはやめてやめてやめてやめてやめてっ!」
そいつが叫んだ。
「しょうがないじゃん! 腹減ってたんだもん! 夢中になって悪いかっ!」
逆ギレされてもなぁ。
「吾輩だって好きで猫やってるわけじゃないっ! これには海より深く空より高い理由があるんだっ!
「いや、猫は嫌いじゃないけど猫になるのはどうかと思うであります、少将殿!
「っていうか少将殿ここにいない、じゃん!」
小さい両手で眉間?に手を当て天を仰ぐ。ちなみに『いない』と『じゃん』の間はちょっと溜めが入った。
「いいじゃん、いいじゃん! 吾輩育ち盛りなのよ。人よりちょーっといっぱい食ってもいいじゃん!
「というわけでっ! 吾輩いい加減猫生活は飽きたっ! 寒いし! 腹減るし! ケンカ売られるし!
「猫で悪いかっ! 悪いっ! 悪いんだっ! あああああ〜 帰りたいぃ〜」
一通り勝手に叫んでのたうち回って、ついにはメソメソと泣き出した。その間私は呆気に取られて見ているしかなかった。唐突に日本語で喋りだしたこともそうだが、その表情が人間と同じようにコロコロと変わる。
「あー、とりあえず黙れ」
まさに猫の額であるそいつの額を指先で弾く。
「叩いた〜 叩いた〜」
またメソメソと泣き出す。しかたなくそいつを下に降ろした。二本足で立ちながらもまだ泣き続ける。よくよく見れば全身が真っ黒ではない。足の先が少しだけ茶が混じっている。
「泣くな!」
私の声に茶トラの子猫が逃げていった。他の野良たちはとっくに帰ってしまった。日がかげり始めた駐車場に私と『猫のような何か』だけが残る。
そいつはピタリと泣くのをやめ、大きな金色の瞳で私を見る。
「そんなわけで吾輩と同居してはいかがか」
「は?」
そいつは腰と思われる部分に手を当てて胸を張る。胸の毛だけが少し長い。
「吾輩の名は」
猫口から出てきたその音は日本語でなければ英語でもない。人間が発音するには難しい音だった。
「こう見えても大悪魔! わけあって人間界で猫をやっている。具体的に言えば魔界軍の少将殿の大事な缶詰をツマミ食いして怒られたのである! 今は罰を受けている最中ってこと
「これでもいい家柄の生まれなのだぞ。野良生活なんて耐えられないのよ。住む所もご飯もなくて困り中〜
「それでだ。君は猫好きと見た! ぜひとも吾輩に君の住居を提供していただきたい」
あー……よく喋るなぁ……
「吾輩、大飯ぐらいは自覚している。しかし、そんな吾輩でも役に立つぞ」
胸の長い毛を撫でる。人で言えば髭を撫でつける行為を思わせる。
「猫だから一緒にいると和む! さあ、吾輩とレッツ同棲生活!」
「お断りします」
即答。アルミトレイを回収して私は立ち上がる。わきゃわきゃと妙ななまりを含んだ日本語でそいつは喋り続ける。本当に良く喋るな。聞いているほうがうんざりする。日も暮れたしもう帰ろう。帰りたい。
「ダメー。吾輩と君はもはや運命共同体。はあと」
平仮名で『はあと』とか言われても。
全力疾走で駐車場を後にする。
「捨てないでぇ〜」
そいつは猫っぽいけど走りまでは猫っぽくない。私を追っては来るけれど、二本足で走っているからどうにも遅い。よろよろと今にも倒れそうになりながら走っている。走るというよりは歩いている。そしてついには小石につまづいて頭から地面にキスをした。
チャンスだった。一気にそいつとの距離が開く。立ちあがれなくてもがいているそいつを横目で確認しながらも走る。
間もなく家に辿りつき、肩を上下させながら鍵を開けた。
「遅かったにゃ」
『猫のような何か』がのんきに私を迎える。吊戸棚に入っていたはずのドライフードは次から次へとそいつの口に吸いこまれていた。
「いつ来たんだよ! お前転んでもがいて……」
「吾輩ってば大悪魔なんだもん」
いつでも笑い目にしか見えない猫目をさらに細めてそいつは笑った。
こうして私と『猫のような何か』の生活が始まった。