吸血鬼と僕

 突然ですが、僕の家には吸血鬼が住んでいます。名前はミチルさんと言って、見た目は高校生だけど実はとっても長生きです。
 ミチルさんから聞いた話では、ミチルさんは江戸の末期、明治が始まるちょっと前から僕の家にいるそうです。全然知らなかったけど、昔々の僕の家は名家だったんだって。大きなお屋敷に何人も召使いや女中さんを雇っていたんだって。ミチルさんはその女中さんの一人として僕の家で働いていたそうです。
 そんなに大きなお屋敷だったなんてちょっと信じられません。今の家は五年前にローンで買った待望の一戸建てです。パパは毎日一時間半かけてお仕事に行っています。前は社宅に住んでいて、三十分で行けました。そのほうが近くていいのに、って言ったら、パパは「自分の家がいいんだ」とか言っていました。この家になってからママも働くようになりました。前に勤めていた会社のお手伝いをしているそうです。
 だから昼間は、僕は妹のエイコとミチルさんと三人になります。ミチルさんはママの代わりにご飯を作ったり洗濯をしたり掃除をしたりしてくれます。今も、ほら。僕とエイコが遊んでる居間の隣から掃除機の音がしています。


 どこの家にでもミチルさんのような人がいるんだと思っていました。でも、小学校で隣の席のりっちゃんはそれはおかしいと言います。普通のご家庭というやつには、ミチルさんみたいな人はいないんだって。自分と兄弟とパパとママと、おばあちゃんみたいな人はいる。でも吸血鬼のお手伝いさんはいないそうです。りっちゃんに言われたその日、僕はミチルさんに聞いてみました。
「どうしてミチルさんは僕の家にいるの?」
 ミチルさんは細い花瓶を拭きながら答えてくれました。
「このおうちのお父さんのおじいちゃんのおじいちゃんのお父さんにとてもお世話になったんです。ですから、その恩返しとしてずっとずっとお仕えしたいんです」
 答えてくれた後、ミチルさんは花瓶を割ってしまいました。
 吸血鬼は普通の人よりも力が強いので、うっかり物を壊してしまうことがあります。でも、僕が知っている限りでは、ミチルさんがドジなだけだと思います。目玉焼きをひっくり返そうとして天井に張りつけたり、パパのネクタイを絞めようとして首まで絞めてしまったり。ミチルさんの失敗は日常茶飯事です。つくづく、僕の一族の人たちは心が広いんだなぁと思います。


 そんな吸血鬼なミチルさんですが、死んでいるも同然なのに、人並にお腹を空かせます。一日に一回、トマトジュースを飲んだり野菜を食べたりして空腹をごまかしています。動物性タンパク質は好き嫌いが激しいので、がんばって植物だけでなんとかしようとしているそうです。
 それでも月に一回は身体の維持のために血を飲みます。定期的に補給しないと吸血鬼としての本質が薄れて存在が消えてしまうらしいです。血を飲む時は、ママと二人でトイレに入ります。トイレなんて変な場所なのは、ご飯の風景を見られたくないからで、相手がママなのは「一族の人以外の血を吸ってはいけない」とご先祖様に言われたからだって。パパは婿だからダメなんだって。
 ミチルさんのご飯が終わると、ママはほうれん草とレバーをいっぱい食べます。いっぱい食べていっぱい血を作ればミチルさんも安心します。


 だけど、一回だけ、僕はミチルさんに血をあげたことがあります。
 ある日、ミチルさんは掃除中に倒れてしまいました。空腹を我慢していたら身体の具合が悪くなってしまったそうです。こんな時に限ってママはいませんでした。社員旅行で何日か出かけていました。どうやら旅行に行く前にミチルさんに血をあげるのを忘れてしまったようです。
 布団の中で頭の下に氷枕を置いてミチルさんは苦しんでいました。見た目は風邪のようでした。白い顔をもっと真っ白にして、鋭い犬歯をむき出しにしてうなされていました。それどころか、足の先がちょこっとだけなくなっていました。指が途中から切れたみたいに透明になっていました。
 僕は「ミチルさんが消えちゃう!」と思いました。
 実際、ゆっくりと時間もかけて足は消え始めていました。くるぶしまで消えちゃった時、僕はミチルさんを起こしました。
「僕の血を飲んで」
 ミチルさんは荒く息を吐きながら、首を横に振りました。
「ダメです。奥様と……カエコさんと約束したんです。お兄ちゃんが大きくなるまでは、カエコさんが元気なうちはお兄ちゃんの血は飲まないって」
「そんなこと言ってる場合じゃないよ。ミチルさん、このままじゃ消えちゃうよ」
「いいんです。私は元々存在してはいけない存在ですから。人を食い物にする卑しい化物ですから」
 そして、苦しそうなのにミチルさんは笑いました。
「一族の方はみんな、こんな私に優しくしてくださいました。それに、とても楽しかった。私はとても満足です」
「ダメだよ、ミチルさん! いなくなっちゃいやだよ。ママもパパも、エイコだっていやだよ。みんなミチルさんが大好きなんだ。だから、僕の血を飲んで」
 蒼白だったミチルさんの顔色が青くなりました。汗をいっぱい額に浮かべて、急に歳とったかのように深いしわが何本も刻まれました。
 僕は泣いていました。目を真っ赤にして泣きました。生まれた頃にはもう家にいたミチルさん。お姉さんのような、二人目のお母さんのような感じがするミチルさん。何年経っても変わらないミチルさん。最近、掃除機の使い方を覚えて嬉しそうでした。掃除機使えるようになったのに、いなくなっちゃうの?
「ミチルさん」
 いつもは化粧でごまかしている唇は紫色になっていました。いつも以上に血色が悪いです。
 ミチルさんの緊急事態だから遠慮しなくてもいいのに。それとも、こういうのは頑固というのかもしれません。
 僕はミチルさんの額をしぼったタオルで拭きました。パパは北海道に住んでいるママの弟に電話しています。少し前にはママの旅行先に電話していました。
 仮におじさんが来ても、ママが帰ってきても、間に合うとは思えません、どちらかが着く前にミチルさんが消えてしまいます。
 拭いても拭いてもミチルさんの汗はすぐに出てきます。僕は大好きなミチルさんのために、何度も汗を拭きました。
「ミチルさん」
 もう腰まで消えてしまった時でした。汗を拭いていたミチルさんの唇に紅い点が出現しました。インクを落としたような紅い点はあっという間に増えていって、次々と唇の間に入っていきました。
 僕の鼻血でした。
 鼻を押さえると手が真っ赤に染まりました。泣きすぎて鼻水の代わりに鼻血が出ちゃったようでした。
 あわててちり紙を丸めて鼻に詰めました。とても人には見せられない、情けない姿です。ミチルさんには助かってほしいけど、今は見られたくないなあ、とか自分勝手なことを考えていました。
 と、その時です。僕の意に反してミチルさんは目を開けてしまいました。
 苦しんでいたのが嘘であるかのように顔色はすっかり元に戻っていました。目だけを動かして見回しています。チリ紙の箱を抱えた僕に首を向け、ミチルさんは、
「大丈夫ですか?」
 と聞いてきました。それはこっちのセリフでした。


 その後ミチルさんの消えていた足も戻り、いつものように家事を始めました。心配してわざわざ北海道から来たおじさんも、宴会を放り出してあわてて帰ってきたお母さんも徒労に終わりました。
 おじさんが空港で買ってきた白い恋人を食べながら、ささやかにミチルさんの無事をお祝いしました。僕たちは全部食べちゃうけど、ミチルさんはクッキーをはがしてチョコレートの部分だけを食べていました。どうしてミチルさんが助かったのか、僕は正直に答えましたが、当の本人はとても恥ずかしそうに柱の陰に隠れてしまいました。
 普通の家には吸血鬼はいないらしいけど、いるととても楽しいです。それもテレビに出てくるような恐いのじゃなくて、ミチルさんのように優しい人だから家が楽しくなるのです。

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