Lost Town

「ほら、夏だから」
 理由にならない理由を言って、あいつは立ち止まった。
 あたしは額の汗を拭う。風のない夏の午後は暑くってしょうがない。
 誰もいない街の誰もいない道路をあたしとあいつはただ歩いている。道路の終わり、街の終わり、夏の終わりを求めて、どこかへ行きたいと歩き続ける。その先にあるものが何なのか、ふたりとも知らない。
 寂れた商店街に入る手前で、前を歩いていたあいつが振り向いた。
「ねえねえ。ここだと何かあるんじゃないかな?」
 子供みたいに無邪気な声。精神(こころ)は永遠の少年。
「はあ?」
「喉、渇いたでしょ? 何か冷たいジュースでも探そうよ」
 そう言って、引き止める前に走っていく。
「ちょっと待ってよ」
 あたしも慌てて追いかける。誰もいない街の誰もいない商店街。独りきりにされるのだけは絶対にいやだ。走ると、日光に照らされて熱を持っていた髪が動く。風を通して熱が発散される。身体は余計に汗をかくだけだけど、頭だけは涼しい。
 ひっそりと静まりかえった店が何軒も何軒も軒を連ねている。閉まっているわけじゃない。店員も客もいないだけで、一軒一軒はちゃんと商売ができるように準備されている。ううん、そんな表現は適切じゃない。すべての店が、ついさっきまで営業していたかのように見える。人間だけが消えてしまった。そんな感じ。正直言って、不気味。静かなだけ、人がいないだけの空間がこんなに怖いなんて。
 氷屋さんの店先には解けかかった氷塊。私は足を止めてそっとそれに触れてみる。
 ――冷たい。
 かき氷機の下では、ガラスの器が早く氷を入れてもらいたそうにしている。でも、誰も氷を削ってくれない。機械の主はいない。
 私の手の下で氷が水になっていく。ひんやりとした液体が腕の半ばまで伝わってくるけど、途中で落下。アスファルトの地面に黒い跡をつける。そして熱で消えていく。これが一瞬のできごと。
 手を頬に当てると、顔が火照っていたことがわかる。手と頬の温度差が、心地好い。もう、どのくらい歩っただろう。もう、どのくらい遠くにきたのだろう。その間、あたしはずっと日に照らされ、ずっと終わりを求めていた。
「明日……地獄かもね」
 日に焼けて、身体中がひりひりしてたまらない思いをしているのは毎年のことだ。今の状況から逃げたくて、思わずそんな日常の言葉が出てくる。明日があるのかどうかすら、不確定だと言うのに。
 氷は冷たくて、気持ち良くて、ずっと熱でぼんやりしていた頭をはっきりさせてくれる。髪が濡れるのなんて構わない。とっくに乱れているから気にすることもない。あたしは額を氷塊に押し付ける。
 でも、頭ははっきりしても疑問は晴れない。誰もいない街に終わりはあるのかな。誰もいない街に明日はあるのかな。誰もいない街には本当にあたしたちしかいないのかな。……そんなの、どうだっていいや。ずっと、ずっとこうやって涼を味わっていたいな。現実逃避だって言われたって構わない。だって、ここが現実なのかでさえ、定かでないんだもの。
 気が済むまで氷塊を堪能してから、ふとあいつの事を思い出した。気がつけば、あたしひとり。あいつ、どこに行ったんだろう。
 ひとり、ということに不安を覚えて慌てて辺りを見回す。当然だけど、誰もいない。
「――」
 名前を呼んでみようとして、言葉に詰まる。そういえばあたし、あいつの名前なんて知らなかった。名前だけじゃない。随分昔から一緒にいるような気がしていたのに、何もしらない。誕生日も、年齢も、どこに住んでいるのかも知らない。知っているのはその姿と声だけ。
 ――孤独。
 ふいに浮かんだ二文字に恐怖を感じている自分がいた。
 誰もいない街。
 いるのはあたし。
 『これじゃ、「誰もいない」街じゃないよ』
 過去の記憶。
 そう言ったのは誰だったか。
 数時間前に聞いたのか、何年も前に聞いたのか、それすらも、わからない。


「夏は、お好きですか?」
「何それ」
 かき氷を食べる手を止めて、真正面の相手を見る。溶けかかった宇治金時に手もつけていないそいつは、にこにことあたしを見返していた。
「安っぽい化粧品のキャッチコピーみたい」
 とけるよ、と匙で宇治金時を指してから、あたしは食べるのを再開する。そいつは慌てて宇治金時をかき混ぜはじめた。
 観光地になっている城跡公園の一角、見晴らしのいい茶店にあたしたちはいる。山の上にあるここからは、古い街並みと、新しい街とが一気に展望できる。ずっと向こうには海まで見えたりする。そんな景色が面白いのか、この茶店は結構人気があったりする。観光客は必ず寄るというから、ガイドブックか何かに載っているのだろう。
「私は好きですよ、夏」
 最後の一匙を口に運ぶ前に、そいつは再びあたしに向かって微笑みかけた。よくもまぁ、馬鹿みたいに笑っていられること。何がそんなに楽しいのか、理解できない。こっちは笑えるような気分じゃないっていうのに。
「で、あたしをこんなところに連れ出してきて、何したいのよ」
 自分でも、かなり口調が棘々しいとわかる。わざとらしいほどにそうしているから当然だけどね。今の状況はそれだけのことがあった。しかし、これだけ不快感を露わにしているっていうのに、そいつは、
「暑いから、何か冷たいものでも、と思いまして」
 しれっとした顔でそう言った。それが返ってあたしの神経を逆撫でする。初対面のときからこいつはいつもそうだ。わざとなのかそうでないのか、人の話をはぐらかす。話題の論点をずらしてくる。
「あたしが言いたいのはそういうことじゃないの」
「では、どういうことです?」
 目の前では、大きな二羽の鴉が砂利を突っついて遊んでいる。ばさばさという羽音がうるさい。どうしてもっといい鳥がいないのかな、ここは。
「たしかにあたしはあの場にいるのはいやだったわよ。連れ出してくれたことには感謝している。だけどね、そんなことをしたあなたの意図がわかんないの。あなたのことを理解したくても、さっぱり理解できない」
「別に構いませんよ」かき氷の器を脇によけながら、「理解してもらうつもりは全くありませんから。今回に限らず、私は結婚する気などありません」
 そんなもの、あたしにだってあるものか。適齢期を逃したらあとはチャンスはない、と言い張る母親に押し切られて見合いはしたけれど、最初から結婚なんて考えてもいない。大体、にこやかに慎ましくできる娘だと思っているのだろうか。仕事でもないのにそんな芸当していられない。そんな気持ちも知らず、母親は夏だというのに和服を着、娘以上に気合が入っていた。あたしは夏向きとはいえ、喪服にでも間違えられそうな地味なスーツをわざと着ていった。
 そう。こいつと初めて顔を合わせたのはつい二時間前、縁談の席の上だった。会場は相手方が決めた料亭。本人たちを無視した、無難ながらも腹の探りあいのような会話がだらだらと続いた後、「二人だけで……」となったところであたしは逃げ出そうとした。トイレへ行く振りでもすれば、簡単に抜け出せる。ところが、作戦実行前に、こいつが言い出したのだ。「逃げちゃいませんか?」と。
「まず第一に、私はあなたの正しい見合い相手ではありません」
「……は?」
 今、こいつ何て言った?
「私は、本日あなたと見合いをするはずだった人物ではないんです」
「冗談はやめてよね」
 あたしは、鴉からそいつに目を移した。じっとそいつの目を見るけれど、底の知れない黒い瞳があるばかり。
「冗談ではありません」
「信じろっていうほうが無理なの。そんな顔の人間が、何人もその辺に転がっていると思うの?あなたの顔はどう見たって、あの写真そのものよ」
「ですから、転がっていたんですよ。この顔が」
 と、そいつは自分の顔を指差す。あたしはその顔を凝視する。穴が空くくらい見詰める。あたしたちのこの不自然な沈黙、はたから見たらどうなんだろう。奇妙に映ることは確実だろう。
 世界に三人は同じ顔がいるって言うけれど、そうほいほいと見つかってたまるものか。 遺伝子のパターンは無数なんだし、偶然の一致で同じようなパターンがあったとしても、簡単に出会えるわけがない。
「……双子?」
「彼は一人っ子だって聞いていたでしょう」
 聞いていた。相手は大企業の社長の息子で一人っ子。マンガみたいな話だけど、事実、そうだった。更に、高学歴で容姿もそこそこ、性格も温和で、結婚相手としては世間一般の理想に叶うお方だった。こいつの話が事実ならば、その近所でも評判であろう坊ちゃまが、見合いを放り出していたということになる。
「正確に言えば、彼と私は三年前に入れ替わっているんです」
「あたし、頭悪いから最初から話してくれないとわかんないわね」
「最初からですか? ……ちょっと、理解していただけないと思うのですが……」
 煮え切らない態度が不満で、あたしはそいつのネクタイをぐいっと引っ張った。少し締まって、顔が赤くなる。 
「いいから、話しなさいよ」
「……わかりました、お話しましょう。ですが、場所を移しませんか?」
 
 
 誰もいない商店街。あたしはあいつの姿を求める。
 氷屋の前から離れ、小走りにあいつを捜す。ひんやりとした涼感を一瞬で忘れ、再び蒸し暑い夏が私の中に帰ってくる。汗を拭う。
 一件一件、店の中を覗いていく。
 肉屋の奥にはぶら下がった肉塊が見える。レコード屋の中ではクラシックが流れている。時計屋のカウンターにはドライバーが置きっぱなしになっている。豆腐屋の水槽にはまだ切り分けていない巨大な豆腐が沈んでいる。
 でも、勿論いずれにも店員はいない。客もいない。
 静けさの恐怖をじわじわと背中のあたりに感じながらもあたしはあいつを捜し続ける。お願い、出てきて。出てきてあたしを安心させて。独りはいやなの。
 すぐ近くで猫が鳴いた。ぱっと声のした方を見る。しかし、何もいない。いるなずがない。猫の声なんて幻聴だ。ここは人間もいないけれど、動物もいない。気配すらもしない。幻聴だ、幻聴。よっぽど疲れているみたい。昨日まで寝ていたベッドに帰りたい。
 ……ベッド?
 昨夜のあたしはベッドに寝ていたの? 布団じゃなかったっけ?
 ううん。その前に、あたしは寝ていたの? 一体、どこで? いつ寝ていつ起きたの? ……もう、わからない。いつから歩き始めたのかすらわからない。あたしはただ終わりまで歩くだけ。あるのかどうかわからない、この街の果てまで歩くだけ。そこにどんな障害があったとしても、行くしかないんだ。

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