強風につき
雲影など見えない漆黒の空に大輪の花が咲き乱れる。一瞬ごとに様々な色の光が天井を染め上げ、観客を魅了する。昇小花を四つ散らし、間を置いて大火輪。二回、青から白へ色が変化して夜空に吸い込まれていった。
田舎町の花火大会であるので打ち上げ花火と言ってもせいぜい尺玉が最大だ。余所の花火大会とは違い、二尺や三尺の大型のものを上げることはない。しかし、迫力の点から言えば負けていないだろうと思う。打ち上げ会場は私がいる河原の対岸――すぐ間近なのだ。花火と観客との距離はとても近い。花火ダマが爆発して間を置かずに音が迫ってくる。――ついでに言えば花火玉のかけらも降ってくる。びりびりと鼓膜が震えるほどの大音量だ。それに、殆ど真下から見ているんじゃないかと思える時もある。そういう時はちょっとだけ首が痛い。
この迫力であるから当然、噂は人の間を流れ、人を呼ぶ。花火大会が始まってから数年で、沢山の人がこの田舎町に集まってくるようになった。この日ばかりは人口が三倍くらいに膨れ上がる。
そうなると当然、場所取りもかなり熾烈な争いとなる。前日から青いシートをベストポジションに広げる人まで出現する。そんなシートは大抵実行委員会に撤去されたりして無駄になるだけなんだけど。
今年の私は運の良いことに、打ち上げ会場が目の前という良い場所が取れた。日頃の行いが良いから
だろう。……そんなことを言ったら笑われた。
「うう。喉に響く」
重量ある音が鳴る。隣の青山英夫はそんなことを呟いた。彼もまた、私と同様に夜空を見上げている。おりからの風で青山の額は露わになっていた。白い肌が花火の光で一瞬後ごとに赤や青に変化している。
今日の風はなかなかいい。打ち上げの時に玉が流されない程度で、かつ速やかに煙が流れていって花火にかからない。時折プログラムが飛ばされたりするけれども、絶好の花火日和だ。……夜だから日和も何もないけど。
「今年も見れて良かったね」
青山はアタリメを食べながらぐびぐびとウーロン茶を飲む。良く言えば渋い趣味。悪く言えばオヤジな奴。
考えてみれば、去年も一昨日もその前の年も青山と空を眺めていたような気がする。二人きりだったり、家族ぐるみだったりと色々だけど、確かに青山は私の隣にいた。
「彼女と来ればいいのに」
私がそう言うと、青山はふと悲しげにアタリメの袋を見つめた。しまった、失言だった。青山は一週間ほど前に、失恋したばかりだったのだ。しかし、彼はつとめて明るい口調で、
「美奈子は、僕がいなかったらたった独りで寂しく見ている羽目になったいたんだよ。感謝してよ」
いつもだったら張り飛ばしてやりたいようなことを言った。今日は美しい花火の前だから許してやるけどね。
そう、私も寂しい身なのだった。一応、この会場に家族全員がいることは確かだ。だけど、皆バラバラ。父は宴会を兼ねて会社の仲間と、母は婦人会のメンバーと、祖母は仲のいい老紳士と、弟は部活の友達と。それぞれどこかで真夏の夜の芸術を見ているのだろう。実は私は本日が花火大会であることをすっかり忘れていた。夕方、家族が出かける頃になってはじめて思い出したという間抜けな話。当然、誰とも約束していない。一人で行くのも何だからテレビでも見ているかな、と思っていたところへ「一緒にいかない?」と青山がやってきた。良すぎると言えば良すぎるくらいのタイミングだった。私もなかなかいい友人を持ったものだ。そんな次第である。
華麗で豪快なスターマインの後、カミナリと呼ばれる花火が打ち上げられた。ちょっとだけ光って大きな音がする花火で、花火大会では開始と終了の時に使われることが多い。
『これで全プログラムが終了いたしました。皆様のご協力で無事、成功いたしました。どうもありがとうございました。それでは皆様、また来年!』
女性アナウンサーが終了を告げる。盛大な拍手が響く。拍手はあまり長くは続かなかった。観客たちは早々に腰を上げ、帰宅準備に取りかかる。そしてどう見ても打ち上げ残しの花火が五発ほど花開いた。それほど形の良くない四号花火だった。しかし、その明かりで対岸の打ち上げ会場に待機していた消防隊員たちの姿が一瞬、浮かび上がった。何やら慌しい。
「何かあったのかな?」
地面に敷いていたレジャーシートを畳みながら青山が言った。彼にも対岸の様子が見えていたようだ。私はシートのもう一端を掴んで、
「さあ? 何だろね」
群集に混じって土手の上まで行くと、「火事らしい」という声が聞こえた。打ち上げ花火で土手の草でも燃えたかな、と思った。実際、以前にもそういうことはあった。あれは文字が出てくるという仕掛花火が原因だった。今ではその類の仕掛け花火は禁じられている。ともかく、私は完全に他人事と割り切って軽く見ていた。すると、「杜中地区のほうだって」とどこから聞いたのか、青山が事もなげに言った。
「杜中?」
私は訊き返す。
「うん。間違いないみたい」
血の気が引いていくのが判った。
「杜中には私の家があるの!」
叫んで私は走り出した。
その昔、杜中地区と呼ばれているところは全て一つの神社の敷地だったと聞いている。だからといって狭いわけではなかった。広いとも言えないけれど。その神社は川と森のそれぞれを支配する二柱の神様が祭られていたそうだ。今ではその神社も小さな二つの社に分かれ、別々に違うところに祭ってある、らしい。そして神社の敷地には人が住むようになり、杜中地区と呼ばれ、現在へと至る。
川の神様が待つってあったというのに、川からは少し離れている。歩いて七分強で杜中地区に入る。
私は走ったのにもかかわらず、かなり時間がかかった。花火大会終了直後の交通渋滞と赤信号二つのせいだ。交通渋滞の原因は必ずしも花火大会とは言えなかったけれど。火事のおかげで一部通行止めになっていたこともある。私の後ろからはシートを抱えた青山が追ってきた。
そんなに走ったのに、私の心配は杞憂に終わった。火事は自宅でもその近所でもなかった。炎を上げていたのは元個人医院という古い建物だった。地区の北端にある愛しの我が家とは反対側の、南端にある家だ。
道路のマンホールが開き、そこから太いホースが伸びていた。一本ばかりでなく、何本も。ホースを
辿ればいずれも銀の耐火服に身を包んだ男たちに至る。この真夏では見ているだけで実に暑そうだ。
私と青山がその家の前に着いた時には、すでに炎は柱の陰でしぶとくくすぶっているだけだった。その火事の残党も、最も背の低い消防士によって鎮火した。
家半分が、焼けていた。
元は診察室や待合室として使っていた部分のようだ。炭化した小窓やソファらしきものが遠巻きにも
見て取れる。水で半壊したそれらが何だか惨めに見えた。恐らく、もう誰もそこにを使っていなかったのだろう。室内を飾り立てるようなものの残骸は、殆どなかった。もしかすると燃え尽きてしまったのかもしれない。屋根などひどい有様だ。燃え残った雨樋がだらんと垂れ下がってる。すっかり表面を焼かれている。この雨樋がなかったらどの辺が屋根か判らなかっただろう。そのくらい、無残なものだった。骨組だけとなった家の姿は痛々しい。
それでも幸いというべきか、母屋は無傷だったし、隣家の壁は少し焦げただけだった。植木も無事に
生き残っている。早い発見だったのだろう。大した被害でもなさそうだ。何より――私の家でなくてほっとした。
私は遠巻きにしている野次馬――私もその中の一人だが――の中に見覚えのある顔を見つけた。近づいて行ってトントンと肩を叩く。
「茄子田さん」
いかにも堅気の職業でなさそうな、ごつい顔が振り向いた。本当に、人相が悪い。体型はがっしりと
していて、背も高い。近くで話す時は見上げるようにしなければならない。私は近付き過ぎてしまったと感じ、一歩後ろに退いた。そうでもしないと首が痛くなる。
「お久しぶりです」
私に続いて、青山も挨拶する。
「ああ、君達か」と呆れたように言った。「わざわざ野次馬にでも来たのか?」
私はむっとして、「家がこの地区にあるんです。ご存知のはずでしょう?」
茄子田は、そうだったな、と頭を掻く。
「茄子田さんこそ、野次馬じゃないんですか? その格好で、まさかお仕事ではありませんよね?」
青山が茄子田の服装を見てそう言った。半袖のポロシャツにベージュのスラックスというラフな服装。かなり平凡だけど、今までスーツ姿しか見たことがなかっただけに、新鮮に目に写る。こうして見ると、普通のお父さんに見えなくもない。
「野次馬だよ」
あっさりと肯定する。そして青山が持っているのと同じようなシートを持ち上げて見せた。私達と同様、さっきまで花火を見ていたらしい。
「家族と来ていたんだが、気になって私だけここで野次馬をしていたんだ。だが――」
何だか複雑な顔をする。
「――君達とは毎回妙なところで会うな」
お前がトラブルのもとか? と言いたげに青山の顔を覗き込む。突然顔を近づけられ、青山は後退り
した。ははは、と無意味で乾燥した笑いを漏らして。私も同じ立場だったら退いてしまっていただろう。茄子田のいかつい顔は間近で見たくない。
「で、火事の原因って判ったんですか?」
私が訊くと青山から顔を離し、軽く頷いてズボンのポケットから黒い手帳を出した。
「これから訊いてこようと思っていたんだ」
黒い手帳の表面には金で桜の紋。
「あ、職権濫用」
青山が抗議の声を上げる。しかし、茄子田はお構いなしに消防士達のほうへ歩いて行った。
茄子田は所轄の刑事である。階級や所属といったものは知らないけれど、恐らく刑事課の殺人係では
ないかと思う。私達はすでに三回、彼と会っているのだが、その三回とも殺人事件が絡んでいた。捜査員と関係者という何とも奇妙な出会いだ。その度に青山は妙なことをしでかしていたりもする。
「ずるいなあ」と青山。
「上司に言いつけてやったらどうかな」
私達は後姿を見て文句を言うが、内心は何か緒も隘路い子とが聞けるかもしれないという期待で一杯だった。火事が他人事であった以上、それはすでに好奇の対象となっていた。
「あら、美奈子ちゃん」
突然後ろから声がかかった。聞き覚えのある声に私はびくりと背中を硬直させる。そろそろと振り向くと、あまり似合わないワンピースの姿の中年の主婦がいた。私の家から三軒隣のおばさんである。私の姿を認めるといかにも嬉しそうに寄ってくる。嫌な予感を覚えた。
「こ、こんにちわ」
私の声は震えていた。私は引きつったような笑みを浮かべていたことだろう。何も知らない青山は不思議そうに私を見る。……言ってから気付いたんだけど、夜なのにどうしてこんにちわなんだ。
「あなたも花火を見に来ていたの? びっくりしたわね。杜中で火事だって言うんですもの。自分の家かと思って飛んできちゃったわよ」
「まあ、それは普通の反応でしょう。私もそうでしたから」
あはは、といかにも作ったような笑い声が喉から出た。
「でも、あまり燃え広がらなくて良かったわ。ねえ?」
おばさんは次から次へと言葉を繋いでいく。火事の話題が中心だが、私の隣の青山が気になるのか、
「そちらは?」とか訊いてくる。とんでもない勘違いをされているような気がする。友人です、と言ってもあまり信用していないようだった。
いつ終わるともしれない話に私は閉口した。このおばさんは苦手だ。とかく話好きで、誰彼構わず捕まえては機関銃の如く喋りまくる。私の母でさえも避けるようにしているほどだ。私は内容なんて殆ど理解していない。言葉は右の耳から入ってそのまま左の耳から出て行く。そうやって聞き流していたけれど、次第に頭が痛くなってきた。もう付き合っていたくない。
「あの、おばさん。私ちょっと用事があるので」
たまらなくなってそう言い、私は小走りにそこから離れた。後方を振り返ると、タイミングを逃した
青山がおばさんに捕まってしまったのが見えた。私は心の中で謝罪する。
すまん、青山。後で何か奢るから許せ。
電信柱にもたれていると、茄子田が消防士に礼を言っているところが見えた。片手を上げ、軽く頭を
下げている。振り向いた目が、私と合った。笑み、らしきものを浮かべながらこちらに向かってくる。
だが、それは笑みでなく不気味な表情にしか見えなかった。残っていた野次馬たちはその顔に恐れをなしたのか、素直に道を開けた。
茄子田が来てから五分後に青山も来た。すっかり疲れてしまったようで、どことなくふらふらとしている。今まで話に付き合わされていたのだ。申し訳ない。
近づいて来るにつれ、顔がはっきりと判るようになった。何やら難しい顔をしている。
「どうしたの?」
「うん、ちょっとね」
「何か思うことがあるのか?」
と言う茄子田に対しては唸っているばかり。どうもはっきりとしない。
「茄子田さん。かき氷でも食べませんか。この近くにお店があるんですけど」
どこかに落ち着いてゆっくり聞き出してやろう。今日ばかりはこの時間でもまだ店が開いている。好都合だ。
「勿論、茄子田さんのおごりで」
私が更にそう付け加えると、苦笑いをした。否定はしていない。
「決まりですね」
青山は難しい顔から一転、小さい子のような無邪気な笑顔になった。見ているほうまで嬉しくなって
しまいそうな明るい笑み。つられて口元が緩んでしまいそうになる。……本当に同級生なのだろうか。
男のくせにこの可愛さは反則だと思う。
私が先に立って馴染みとなっている店に案内した。案の上、帰宅途中の人々がいたけれど、席が取れないというほどでもなかった。本来は和菓子屋なのだが、店の一部を茶店のようにしている。団子、大福、あんみつなどなど、メニューは豊富。お菓子は勿論のこと、お茶もうまい。毎日来ても飽きないくらいで、この辺ではちょっとした人気の店だ。口コミでも情報は広がっているようで、遠いところから来るお客も少なくはないという。知られざす名店、という奴だ。時々連れてくることもあったから青山は初めてではない。しかし、茄子田は来たことがなかったようで、しきりに感心していた。道から少し外れたところに、まさかこんな店があるとは知らなかったのだろう。
一番奥の四人掛けの席が空いていた。私と青山が並び、テーブルを挟んで向かい側に茄子田が座った。メニューを見せて二人の希望を聞くと、私は、
「百合江さーん、宇治金時二つにメロン一つお願いします」
と、声を上げて注文した。
「いい店だな」
店内をぐるりと見回して茄子田は言う。店先のほうには和菓子の入ったガラスケースが置いてあるが、多分今の時間では中身は空っぽだろうと思う。
「ええ。最中や大福がお勧めですね。一度食べてみてください」
そうは言ったものの、この茄子田が最中や大福を食べている姿はどうしても想像できなかった。甘いものが似合いそうにない。激辛カレーを食べている様子は容易に思い浮かぶのだが。
細面の和服の女性がかき氷を運んできた。この店の女主人で、物腰が優雅で上品で、ある意味私の女性としての目標のような人である。若い頃はさぞ美しい人だったのだろう。五十路が近いはずなのに、
今でも肌は白くてきめ細かい。三軒隣のおばちゃんとは大違いだ。この人に対しては「おばさん」という言葉は違和感を感じてしまうので、私は名前で呼んでいる。彼女は百合江さんといった。
私と茄子田の間に宇治金時を、青山の前にメロンを置くと百合江さんは「ごゆっくり」と微笑んだ。
「綺麗な人だな……」
どこか放心したように茄子田が言った。スプーンを持ったまま、百合江さんの後ろ姿を眺めている。
「相手は人妻ですからね」
「青山、君に人のことが言えるの?」
青山は思い出したようで、顔を赤くしてうつむいた。何を隠そう恋多き少年、青山英夫もその昔、百合江さんに一目惚れしてしまったことがあったのだった。まあ、実ることもなかったけれど。当然と言えば当然のこと。
溶けてしまう前に、とまずかき氷を食べ始めた。話は食べ終わってからでも遅くない。一口食べて、
茄子田と青山がほぼ同じに頭を押さえた。キーンときたらしい。不思議なことに、私にはかき氷を食べて頭が痛くなったという経験がない。従って、それがどんな具合なのかも知らない。私はいたって平気な顔で宇治金時を攻略中。
「おいしかった」
満面の笑みを浮かべる青山。喜んでもらえると私も嬉しい。
「それで、何かあったの?」
「へ?」何とも間抜けな顔をして青山は私を見返す。半開きになった口の中に緑色に染まった舌が見えた。「何のこと?」
「火事のことだ」
私の代わりに茄子田が答えた。氷の冷たさに舌が麻痺したようで、やや舌足らずの口調だった。後から出された熱いお茶を美味そうにすすって、
「何かに気付いたんじゃなかったのか?」
青山はためらっているようだった。私達に対してであっても話しにくいことなのだろうか。頬杖をついて、迷っている。
視線に耐え切れなくなってか、しばらくして、ようやく口を開いた。それも、辺りをはばかるかのような低い声で、実に言いにくそうに。
「あの火事は放火ではないかと思うんです」
「放火?」
私は訊き返す。勿論、青山と同様に音を絞った声。
「うん」お茶で喉を湿してから、「あのおばさんに聞いた話から想像したことなんだけれどね。そもそもあの家の焼けた部分は診療所として使われていた部分で、今では物置同然……いや、それ以下だった
そうです」
これは私ははじめから知っている事実。茄子田も消防士から聞いていて知っていただろうと思う。青山は杜中からは離れたところに住んでいるから知らなくても当然のことだ。
「最近はそこだけ建て直そうという話をしていたらしいんですが……ともかく誰もいなかったので怪我人もなかったということです。しかし、不思議だとは思いませんか? 誰もいないということは、火の気もないということです。物置同然、と言っても、現場を見た限りでは大した物も置いていないようでした」
私は炭化したソファや半焼けの戸棚を思い出していた。
「家の人もみんな花火を見に行っていたということですから、母屋のほうの火の元はしっかりと確認してあったことでしょう。それに母屋からの出火だったのなら、診療所のほうだけが燃えたということなどありえません。僕はそこから放火ではないか、と思いました。それならば素直に納得できますよね」
「……君のことだから誰が犯人かも判ったのだろうな」
茄子田が刑事の顔付きで訊いた。青山はその顔を見ておどおどしながら、
「あ……はい、一応……ですけど。火事の第一発見者はその家の次男だそうです。この人は消防士でも
ありまして、今日は花火大会だったけど、消防署で待機していたらしいです。それで、署内でも一番若いこの人は、買出しにコンビニに行ったということです。その途中、何か煙が見えて、何だろう、と行ってみたところ、火事だった、と。――美奈子も見たと思うけど、最後に火を消した人がその次男なんだって」
背の低い消防士――あの男がそうだったのか。やたらと張り切っていたようにも見えたけれど、そうではなく、あれは焦っていたのだ。まさか、自分の家が火事だとは夢にも思わなかっただろう。
「それで、僕はもしかするとその次男が放火犯ではないのかな、と」
「はあ?」
「何だと?」
私と茄子田の声が重なった。青山の突拍子もない考えを聞くのも五回目になるはずなのだが、全然慣れていない。『何言ってるんだ、こいつは』と胡散臭そうに視線を向けてしまう。
「だって、消火の時、あの人はとても張り切っていたじゃないですか。あれは火事を発見したという手柄のためと、消防士として活躍しているということを家族に見せるためなんですよ。きっと。街は花火大会でガランとしていたから、火を点けているところを見られる心配もありません。それに、燃やすのは建て直そうとしていた診療所のほうですから、大した被害でもありませんから……あ、ひょっとすると火災保険詐欺の可能性もあるかも……」
そして自分のことでもないのに真剣に悩み始める青山。その様子がおかしくて、私は笑い出してしまった。
「何でそんなに笑うんだよ。傷つくなあ」
青山は口を尖らせる。
「本当に君の想像力はすごい。我々は感服してしまうよ」
茄子田は、笑いを堪えている。
「茄子田さんまで。どこか変なところでもあrんですか?」
「いや、変ではない。筋は通っているよ。ただ、真相とは異なるんだ」
「ええ!?」
突然立ち上がり、その反動で椅子を倒してしまった。その音に、店内の視線が青山に集中する。その視線に気付き、彼はそそくさと座り直した。恥ずかしさに、顔が少し赤らんでる。
「どういうことですか?」
青山は実は自分の推理にかなりの自信があったに違いない。目を大きく開き、茄子田を見つめ返して
いる。私にはそんな青山の一挙一動が面白くてならなかった。
「まず、放火ではないんだ」茄子田はにやにやと笑っている。「出火したのは屋根からだったんだ」
「屋根から?」
「そう、雨樋にたまっていた葉っぱなどのゴミに引火したんだ。そういうところの掃除をさぼっていると、こんなことになるんだなあ」
しみじみと言っている。きっと、自分の家の雨樋も似たような状況なのだろう。
「……何でそんなところに火が点くんですか」
わけが判らなくて青山は少し怒っているようだった。口調がとげとげしい。
「だから――」と私は補足する。「――花火の火で引火したの。上空の風は地上よりも凄いみたいで、
爆発した時に火の点いたかけらがあそこまで運ばれちゃったのよ」
「そんなわけないよ! 河原から何メートル離れてると思ってるんだよ」
「そんなこと言っても、事実なんだからしょうがないじゃない。私だってはじめは信じられなかった
もの。……うん? 何よ」
青山が拗ねたような目付きで私を睨んでいた。背を丸めているので私を見上げるような感じである。
「……美奈子、茄子田さんから真相を全部聞いていたんだね? だから僕のことを笑ったんだね?」
「そうだよ。悪い?」
あの時、青山が来るまでの五分の間に、私は茄子田から全てを教えられていた。青山が言ったような
難しいものではなく、ごく簡単な真相だったから五分で事足りたのだ。
「美奈子も茄子田さんも人が悪すぎる」
拗ねてそっぽを向いてしまった。すぐに本当のことを言わなかったのは悪いと思うけれど、特に聞こうともしなかった青山にも原因はあると思う。
「面白い話も聞けたし、さあ、出ようか」
腰を浮かしかけた茄子田に、
「おごりですよね?」
と私は念を押す。しかし、茄子田はポケットに手をやって、言ったのだった。
「すまん。財布を忘れたらしい」
道路に溢れかえっていた自動車もなくなっていた。交差点では信号が赤ランプを点滅させている。横断歩道の用の信号は沈黙。
私達が最後の客だったようだ。「おやすみなさい」とにこやかに言い、百合江さんは店仕舞を始めた。紺色の暖簾が降ろされる。その様子を背中で見ながら私と青山は茄子田と別れた。結局代金は私と青山が少ない小遣いから立て替えた。財布が軽くなってしまって泣けてくる。
青山の自転車は私の家に停めてある。すでに帰ってきていた母が「泊まっていったら」と言った。青山はそれを冗談半分だと受け止めていたようだが、私は母が本気であることを知っていた。この人は実の娘以上に青山を可愛がっていたからだ。
「笑っちゃってごめんね」
次の角まで、という条件で青山を送っていく途中、私は言った。
「え? ああ、あのこと。別にいいよ。今は気にしていないから。だけど、どうして僕の推理って必ず外れるのかな。自信なくなってきた」
「いいじゃない。青山らしいよ」
「僕らしい? そうなのかなあ……」眉間に皺を寄せた複雑そうな表情。「僕の何が僕らしくて、何が僕らしくないのか、よくわからないよ」
「それでいいんだよ。自然なままが一番なんだから」
そうかな、と笑う。そう、その爽やかな笑顔が一番だ。思わず私も微笑む。
「また遊びに行こうよ。夏が終わる前に」
目的地の曲がり角は街灯に照らし出されていた。そこで青山は自転車にまたがる。
「いいね。どこがいい?」
言われて私は考える。
「変な事件が起こらないところ。今年に入ってからそういうことが多かったから」
「そういえば、そうだったね」
二人で顔を見合わせて笑った。今思い出すと、どれもいい思い出になっていた。どんなに嫌だったことでも、時間さえ過ぎれば過去の思い出にしか過ぎない。それが時の流れのいいところかな、と思う。
「海に行こうか。風邪が強い海に―― 僕、今年の夏はずっと一人で過ごしているような気がするから」
自分で言って自分で笑っている。
「いいわね」と私も言う。「行こうよ。風の強い海に」