10日目
空が青い。
潮風がほんのり混じる風に髪をなびかせ、メイファは青空を見上げた。綿菓子のようなほっこりとした雲が静かに流れていく。
木々のざわめき、鳥のさえずり、虫の声。そして人々の喧騒。
白く長い耳は様々な音を拾う。多くの音を聴けるようにと進化した耳だ。それは地を歩む人の足音すら聞き分ける。メイファは常に溢れるノイズの只中にいた。
だが、空を見上げればそれら全てが遠くに聞こえるような気がした。視界いっぱいに空を広げ、全てが吸い込まれていくような錯覚に身を委ねる。水の中から浮き上がっていくような、水の中に沈んでいくような、そして身体も心もどこかに拡散してしまうような。
思えば遠くに来たものだ。
小さな身体で山を越え、船に乗り、たった一人でこの島までやってきた。見た目以上の人生経験を積んでいるメイファだったが、海を渡るなんて初めてのことだった。
「パパさんたち心配してるかな」
ぽつりと呟く。パパさんとはメイファの後見人を引き受けてくれている知り合いの鍛冶屋のことだ。身寄りのないメイファを何故かとても気に入ってくれていて、家族同然に見てくれる人。
パパさんはメイファを養女に、と言ってくれたこともあったが、メイファはその申し出を断っていた。あまりにも一人の生活が長すぎて、家族という言葉にいまひとつ馴染めないでいたからだ。
小さな手で道具袋から葉書を取り出した。優しいパパさんを心配させないようにと、時々手紙を出しているのだ。
マジックペンを握り、何を書こうかと考える。島には珍しい物がたくさんあるし、色んなことも起きている。面白い人たちにも出会った。考えれば考えるほど書きたいことが思いつき、葉書一枚のスペースでは到底足りそうにない。
うんうん唸りながら考えながら、再び空を仰いだ。心の中身をばら撒いてしまいたくなるような空。抜けるような青空は全てを受け入れてくれそう。
口は半開き。頭の中は空っぽになる。
そうしてどれくらい経った頃だろうか。
「メイさん」
メイファの小さな身体に影が落ちた。手に握ったペンはまだ一文字も書いていない。面影にやや幼さの残る青年が覆いかぶさるように兎少女を見下ろしていた。
「こんにちは」
笑うとますます幼い顔になる。半透明の背中の羽は絶えずゆらゆらと動いているが、風にあおられているわけでもなさそうだ。
「あ」
脳味噌が足りないメイファでもさすがに顔を覚えていた。
「へんたいのおにーちゃんだ」
「変態じゃないです」
笑顔が一転、渋い表情になり、眉間にしわを寄せてこめかみを揉む。ひょっこり頭のてっぺんから飛び出した一房の髪が揺れた。
「にゃはは、レスは変態じゃないって言ったのに忘れてるみたいにゃあ」
苦笑する青年の背から、白い頭がメイファを見下ろしていた。白い身体に猫の耳、そしてボタンでできた目とチャックの口。にゃははと笑ってメイファに手を振ってみせる。
「ミルキーだぁ」
「ミルキーは覚えているのに、僕の名前は覚えてないんですね……」
「にゃにゃ! レス!」
うなだれた青年の背からミルキーがずり落ちて、メイファの頭の上に落ちてきた。
「うわわ、ねこさんがしゅーげきしてきた!」
咄嗟に持っていたマジックペンをかざす。
「にゃあああ!」
――合掌。
「ごめんなさいなの」
しゅんとうなだれてメイファは謝る。額をさする猫のぬいぐるみことミルキーは、
「気にしなくていいにゃあ。ミルキーは特別製だからこれくらいなんともないのにゃあ」
チャックの口端を吊り上げた。笑っているらしい。真っ白な額には黒い点。メイのペンが的中した場所だ。ペンは水性でもミルキーは布でできたぬいぐるみだ。そう簡単に落ちるようなものでもない。
「だからそんなに落ち込まなくてもいいにゃあ」
それでも笑って許してしまうあたり、ミルキーはとても出来た人間、もといぬいぐるみのようだ。丸い手の先で、慰めるようにメイファの背を叩く。
「今回は刺さらなかったからいいけれど、次は気をつけてくださいね」
半泣きになりながらもレスはミルキーの額を仔細に検分している。普通ならば相方にラクガキされて怒り狂うところなのだろうが、レスもまた怒らなかった。こればかりは事故としか言いようがなく、メイファを責めても黒い点は消えないからだ。
「うん、気をつけるの」
神妙な顔をしてメイファはうなずいた。
「つかわないときはキャップするの」
手にしたマジックペンを高々と掲げて胸を張る。ペンのキャップがぴかーんと光ったように見えたが幻覚だろうか。
「ところでおにーちゃんたち、どうしたの? メイにご用?」
「そうそう、忘れるところでした」
ミルキーから手を離し、レスはポンと手を叩いた。
「メイさんにお約束の物を持ってきたんですよ」
ごそごそと長いコートの中を探る。わずかに開いたコートの内側に見たこともない道具がちらりと見え、メイファは興味津々に覗き込もうとした。その時。
「じゃじゃーん!」
レスの声にビクっとメイファは身をすくませる。耳の集音機能が良いため、間近で大きな声を出されるのは苦手なのだ。
「モモンガー! ……って、あれ?」
耳をぺったりと伏せてメイファはしゃがみこんでいた。大きな赤い目はほんのり潤んでいたけれど、泣き虫と思われるのが嫌で必死にこらえていた。
「ほーら、モモンガですよー 可愛いでしょう」
屈みこみ、満面の笑みでレスが差し出してきたのは、小さなモモンガのぬいぐるみだった。大きさはメイファが胸に抱けるくらい。身の丈もある大きな尻尾を左右に振っている。
レス特製のぬいぐるみは自律運動するようになっていた。どうしてこんなものを作ったのかと言えば、メイファがミルキーをせがんだからだ。かけがえのないパートナーをあげるわけにはいかないと説明してもどうしても聞かない少女に、代わりに動くぬいぐるみを作ったのだ。
「どうぞ」
プラスチックガラスのつぶらな瞳がメイを見つめている。言われるままに小さな手を差し出すと、モモンガはレスの掌からメイファの手へ、そして腕をよじ登って肩に乗った。肩の上は足場が不安なのか、小さな前足をメイファの頬に添えて身体を支える。わずかに尖ったモモンガの足がくすぐったくて、片目を細めた。
「かわいー! すごいすごい、おにーちゃんすごいの!」
目を丸くして人差指を差し出すと、モモンガはそこに前足を載せた。ぬいぐるみだからかやけに人懐こい。
「魔力は消費されることもありますが――」とレスが説明するが、幼いメイファにはなんのことかさっぱりわからない。わからないけど真剣な顔で相槌を打つ。でも頭の中身はほとんどモモンガのことでいっぱいになっていた。
「――メイさんが言葉を一生懸命教えてあげれば、喋る!…かもしれません。」
「おはなしできるようになるんだ! ミルキーみたいになれるんだー」
そこだけは理解できたようだ。モモンガを手に載せたり頭に載せたりとはしゃぐメイファを見て、
「メイがぬいぐるみに言葉を教える前に、メイに言葉を教えた方が良いんじゃないのかにゃあ? にゃははっ♪」
ミルキーがそんなことを言ったけれど、当の本人の耳には届いていなかった。
ひとしきりぬいぐるみと戯れて、ふとメイファは我に返った。
「そうだ、おにーちゃんとミルキーにお礼しないとだね」
「お礼なんていりません。かわいくてふわふわのメイさんを見ているだけでボクは幸せですよ」
丸太に腰掛け、レスはまぶしそうに目の前で繰り広げられる光景を眺めていた。だが、どうにも視線は上向きである。
「ふわふわだよ、ミルキー。とってもふわふわのもこもこだよー」
「耳しか見てないのにゃあ……」
ミルキーはレスの膝の上にちょこんと座っていた。メイファはそんな二人の前に仁王立ちになる。
「ダメなの。お礼はちゃんとしなきゃいけないのよ」
どうしようかと腕組みをして考える。考えるメイファの頭をモモンガがよじ登るが、さらさらの髪に足を滑らせて落下した。レスが慌てて手を伸ばして受け止める。
それでもメイファは考えていた。
こんなに素敵な物を貰ったんだから、お礼も相応にしなくてはならない。だけどそれだけの物を持っていただろうか。それだけのことができるだろうか。
無い頭で一生懸命考えて、考えて、メイファはついに思いついた。
「とっておきがあったの!」
道具袋を探る。島に来る前から一度も出していなかったそれは、奥の方に入ってしまっていて出しにくい。食料の草やらパンやらを散らかしながらようやく目的の物を取り出した。
そしてちょいちょいとミルキーを手招く。
「えへへ。ぬいぐるみさんありがとうなの」
ミルキーの額、ペンで描いてしまった黒い点に両手を添える。やり方を教えてくれた優しい声を思い出しながら、想いを込めて優しく優しくさする。掌がほんのりと暖かみを帯びる。柔らかな魔力がミルキーの額に注入される。
「これね、メイのだいじなおともだちにおしえてもらった、しあわせのまほうなの」
パッと手を離したそこに、
「ああああーーー!!」
「にゃああーーー!!」
ひょろりと細長い緑色の物体。小振りで瑞々しい葉を精一杯伸ばし、燦々と輝く太陽の光を全身に受け止める。
カイワレが生えていた。
「これでミルキーもしあわせになれるね」
頬を赤く染めるメイに対し、絶句するレスとミルキー。顎が外れんばかりに口を開き、見開いた目でカイワレを凝視する。
「それじゃメイはもういくね。ありがとうなのよー」
ほんわかと微笑み、メイファはモモンガと遊びながら仲間たちを探して去っていく。
「ああああーーー!!」
「にゃああーーー!!」
その場では、手足をばたつかせるミルキーと、カイワレ頭を抱えるレスの絶叫大会がいつまでも続いていた。
『○がつ×にち
ぬいぐるみさんきた
おにーちゃんくれた
かわいいももんがさん
みるきーにしああせのおまじないした』
(メイファの日記より抜粋)