5日目
幼い泣き声が木霊する。珊瑚は困り果て、抱きかかえるそれの背中を叩く。なだめるように優しく、耳元で喚かれるのも我慢して優しく。揺れる兎の白耳が首筋を触ってくすぐったい。おじちゃん、おじちゃんと泣き喚きながら珊瑚の首にしがみついているのは、まだ幼い少女だ。兎耳を頭から生やし、桃色を基調とした中華服を着ている。元々赤い目は一層赤く腫れ、涙は枯れることなく溢れてくる。珊瑚の外套の肩口はすっかり濡れ、深緑の生地は黒に変色していた。
彼らがいるのは遺跡の中、まだまだ入口近くの人が多いエリアだ。泣き喚く少女と珊瑚の姿を横目で見ては、忍び笑いを漏らしながら人々が通りすぎて行く。細い子供の腕では珊瑚の太い首に手を回すのもやっとだ。息苦しいなんてことはないが、いつまでもくっついていられるのは恥ずかしい。
「ちゃんと会えたんだからもう泣くな」
遺跡に入り、ほんの少し目を離しただけで、少女の姿はなくなっていた。もう一人、そばにいたはずの少年も消えていた。つまりはぐれてしまったのである。辺りを見回し、状況を認識し、とりあえず溜息をついた。島に入ってから何度目になるかわからない溜息だ。落ち着きなく動き回っていた二人を見てひしひしと感じていた嫌な予感は的中してしまったということだ。幸いにして二人ともさほど遠くまでは行っておらず、苦もなく合流することはできた。
ところが、珊瑚の姿を認めた途端、少女は猛ダッシュして飛びついてきたのだった。長年の経験により身体は反射的に回避行動を取ったが、少女のほうが早かった。さすがに飛び掛られて尻餅をつくなんて無様な真似はしなかった。小柄な子供に体当たりされて揺らぐような鍛え方はしていない。珊瑚の首に取りついた少女は声を上げて泣き出し、今に至る。
少女はしゃくり上げながら、おじちゃんいないとご飯がどうのと言っている。懐いてきた理由がなんとなくわかってこめかみを揉む。
これではまるで保父さんだ。珊瑚は心の中でそっとぼやく。この島にやってきたのは財宝を探すためだ。間違っても子供をあやすためではない。
「ほら、顔を上げろ。鼻をかめ」
いつまでもぐずつく顔を上げさせる。げ、と珊瑚はまたも内心でうめく。赤くなった少女の鼻から珊瑚の肩までを、細い水の糸が繋いでいる。手遅れだった。この島にクリーニング屋か、せめてコインランドリ―でもないだろうかとまったく筋違いのことを思いつつ、少女の鼻に紙を当てる。
「ぶっさいくな顔になりましたわねぇ」
鼻をかみ、幾分すっきりした表情の少女の額を、ピンク色の手が弾いた。あう、と少女がのけぞる。勢いで落としそうになった小柄な体躯を慌てて珊瑚は抱きとめる。手の主、ピンクうさぎの巨大ぬいぐるみがそれを見て嘲笑した。
「そんな顔でべすの下僕だなんて、まったく恥ずかしいお子様ですわね」
「げぼくじゃないもん。メイだもん」
鼻を鳴らしつつ、しがみついた珊瑚の肩越しに少女はぬいぐるみを睨みつけた。べすと自称したぬいぐるみはそんな視線もどこ吹く風、どこぞから取り出した扇子で口元を隠す。何がおかしいのか、小さな笑い声が扇子の内側から聞こえてきた。
「下僕ではないとどこの誰が決めましたの? べすが決めたことは貴女にとって絶対なの。社長でも取締役でもCEOでも大臣でも王様でも大統領でも国連事務総長でも誰にも取り消せませんのよ!」
糸で縫い取っただけの口から黒い笑いが漏れる。本当はべすの後ろにいる少年がそう言っているのであろうが、メイと自称した少女にはべすがそう喋っているように聞こえていた。ぬいぐるみが巨大すぎて少年はすっかり影になり、メイにはその姿が見えていない。
「しゃちょーさんでもしーなんとかさんでもないよ! メイが決めたんだもん。メイはメイであって、げぼくなんごうとかそういう名前じゃないんだもん!」
今度は肩から身を乗り出す。珊瑚はしっかり抱きかかえようとするものの、小娘は暴れるばかりだ。あがく足は珊瑚の胸を叩く。呆れながら手を緩めた彼の首に、再びメイがしがみつく。
「やりあうなら降りろ」
「やだ。おじちゃんにだっこしてもらわないとふまれる」
たしかにメイは背が小さい。耳の長さを入れてもべすの半分もあるかどうかというところだろう。普通に立って、珊瑚の視界にやっと耳の先端が入るくらいだ。そしてべすは澄ました顔で小柄な少女を踏みかねない。いじめっこ気質のべすと、いじめられても全力で反撃するメイ。出会った瞬間から二人の関係は決まっていた。
「ふふん。ここらでどちらが最強ウサギはなのか、はっきりさせておいたほうがよろしいみたいですわね」
同じ兎型のものとして思うところでもあるのだろうか。闘魂に燃えるべすはボクシングのファイティングポーズをとった。胴長兎の容姿は当然ながら、頭の頂点、耳と耳の間に貼った巨大ばんそう膏がいささか間抜けさを演出している。だが、溢れ出るオーラは戦士のそれである。
「のぞむところなのよ!」
メイは袖口から出した宝石をべすに向ける。見ているだけで吸い込まれそうな石は鮮血の色をしている。貰い物だと言っていたが、幼い少女が持つには少々不穏当な魔石だ。それを握り締めて精神を集中させながら、メイは珊瑚の背中を叩いた。
「おじちゃん、しっかり避けてね!」
後ろ向きでどうやって避けろというんだ、とか、私はお前の乗り物か何かなのか、とか、とりあえず言いたいことは盛り沢山ある。だが、肩越しにべすが手ぶらでシャドーボクシングをしているのを見て、少しなら付き合うかと考えを変えた。べすは本気じゃない。本気だったらぬいぐるみの後ろにいる少年が鉄パイプを構えて出てくるはずだ。
「まあ、元気になったならいいか」
そんなことを小さく呟いたが、べすに対して金切り声を上げるメイの耳には届いていなかった。
『○月×日
おじちゃんいなくなった
みつけた
だっこしてもらつた
めいげぼくちがう 』
(メイファの日記より抜粋)