七月七日
賑やかな夕暮れの街を、
「はあ……」
と大きな溜息をつきながら歩く青年が一人。
肩を落とし、頼りない足取りフラフラと歩く。ロクに前も見ない。時折、誰かにぶつかっては、「バカヤロー!」と怒鳴られ、曖昧に謝る。
(ついてないなぁ……)青年は心の中で呟く。(こんな日は家でおとなしくしているのが一番だよな)
もう一度溜息をつき、トボトボと歩いていく。
腕を組んで笑い合っているカップルとすれ違う。簡易包装の大きなおもちゃの箱を持ったサラリーマンが足早に追い越していく。
(その幸せ、分けてくれよ)うらめしそうに青年は彼らを見る。(今日はもういいことなんてないよな)
と、ふいにズボンの裾を引かれた。突然のことに、足がもつれて転びそうになる。何とか踏みとどまり、青年は何事かと足下を見た。
「おじさん、ここ、どこですか?」
幼い子供がそこにいた。見た感じでは、五歳くらいの少年だ。その手は青年のズボンをしっかりとつかみ、潤んだ瞳でこちらを見上げていた。
「おじさん、ここ、どこですか?」
もう一度、聞く。青年は答えに詰まる。何々町の何丁目、と言ったところで少年に通じるとは思えなかった。
「お前、迷子か?」
「まいご、ってなんですか?」
「自分の家がわからなくなることだよ」
「おうち? ぼくのおうち、どこですか?」
やはり迷子らしい。青年はあたりを見回すが、通行人は二人が見えていないかのように、さっさと通りすぎる。少年をここに放っておいていいものかと、青年は悩む。鼻の頭を人差し指で掻き、所在なさげに視線を漂わせる。その間も、少年は青年を見上げ、かわいい顔を悲しみで歪ませていた。瞳には涙が溜まっている。
青年はしゃがみこみ、少年の頭を撫でた。
「おもわりさんのところに連れてってやるから、泣くなよ」
少年は、こくん、とうなずく。
「それと、俺は『おじさん』じゃない。『おにいさん』だ」
少年はまた、こくん、とうなずいた。
青年はもう帰るつもりだった。帰るつもりであるということは、何も予定がない。
(交番に連れていくくらいならいいよな)
沈んでいた気分が少し晴れていることに、青年は気付いていなかった。
青年は少年と手をつないだ。小さな手が、青年の手を握り返してくる。その手はとてもやわらかく、青年の顔に思わず笑みが浮かんだ。
交番はすぐ近くにあった。
実は、青年はつい数分前にもここにいた。駅前に停めておいたはずの自転車の盗難届けを出していたのだった。その時は二人ほどの警官が詰めていたのだが、今は誰もいなかった。デスクの上の黒電話には、「何かあったら連絡してください」とメッセージが添えてあった。
青年と少年は椅子に座り、警官が戻ってくるのを待った。交番が珍しいのか、少年は落ち着きなくあたりを見ている。椅子に座っている時も、二人は手をつないだままだった。少年はどうしても青年の手を離さなかった。
十分経っても二十分経っても、警官は戻ってこない。少年は不安げな瞳で青年を見ることが多くなった。さすがに、青年もおかしいな、と思う。これ以上待っていられない、と青年は黒電話に手を伸ばした。
「ねえ」
少年が強く手を握り、それを止めた。
同時に、ぐー、と少年の腹が鳴る。
「腹減ったのか?」
少年はうなずいた。
(食べてきてからまた来てもいいよな)
時間をおけば、警官も戻ってきているだろう。青年は立ち上がった。少年も、ぴょん、と椅子から飛び降りる。
「飯食いに行こうか」
二人は適当なファミリーレストランに入った。夕食時ということもあり、満席だった。二人の前には二人のOLと親子連れが待っていた。家族連れの中に、少年と同じ年頃ほどの子供がいた。野球帽をかぶった、気の強そうな男の子だった。男の子は少年を睨みつける。家族連れが席に案内されるまで、少年は青年の後ろに隠れていた。
十分待ってやっと席に案内された。
無駄に愛想のいいウェイトレスが注文を取りに来る。少年には子供向けのハンバーグプレートを、自分にはスパゲッティ・カルボナーラを頼み、青年はメニューをウェイトレスに返した。
少年はやはりきょろきょろと店内を見回していた。どこにでもありそうなファミリーレストランなのに、そんなに物珍しいのだろうか。
(変わったやつだな)
青年はそんな少年の様子を観察する。
注文したハンバーグプレートとスパゲッティが運ばれてきた。
少年はナイフとフォークがうまく使えないらしい。ハンバーグにナイフを突き立て手前に引くが、フォークで押さえていないので、そのままハンバーグはずるずると手前に移動する。全く切れていない。
見かねて青年がハンバーグを細かく切ってやった。
「お前、どこから来たんだ? 何であんなところにいた?」
食後のコーヒーを飲みながら青年は聞いた。少年はバニラアイスを食べながら、
「わかんないです。ぼく、とてもくらいところにいました。でも、ひゅー、っとおちてきて、あそこにいました」
少年の説明は今一つわかりにくく、要領を得ない。
「で、何でまた俺なんだ?」
「おにいさん、ひとりでした。それに、なんだかかなしそうでした。なにかあったんですか?」
質問していたのは青年のはずなのに、逆に聞かれて戸惑う。青年は今日一日のことを思い出していた。
(朝、遅刻しかけて……電車で死を踏まれて……)しかも、相手はヒールの高い靴を履いていた。青年の足に全体重がかかり、痣ができてしまった。(戦力外通告を出されて……)つまり、もう会社に来るな、と上司に言われてしまった。青年は職を失い、今は無職となってしまった。(定期なくして、自転車盗まれて……)今日はまったくいいことなどなかった。しかし、何より。
「大切な人と喧嘩しちゃったんだよ」
ニ年間付き合ってきて、いつも大切に思っていた彼女と喧嘩した。それまで一度も激しい喧嘩をしたことがなかっただけに、青年のダメージは大きかった。
「泣かせちゃったんだよな」
「たいせつなひとなのにですか?」
少年が心配そうに青年を見る。
「ま、子供にする話じゃないよな」
青年は苦笑する。少年がアイスを食べ終わるのを確認すると、伝票を取り上げて、「出るぞ」と言った。
再び交番に向かって歩いた。今度は別の交番に行ってみるか、と青年は商店街に入った。はぐれないように二人は手をつないでいる。
幾つかの店が店じまいを始めていた。人通りも減っている。すっかり日も沈み、人々は家路を急ぐ。シャッターが閉まった店もちらほらとあり、夜の寂しさを増長していた。
「あれ、なんですか?」
少年が指差した。その方向にはお茶屋があり、軒先に笹が飾ってあった。紙でつくった鞠や茄子をかたどったものなど、華やかな装飾が施されている。そして、短冊が何枚も下がっていた。
(そうか、今日は七月七日か……)
ここのところ、仕事が忙しすぎて、日付など気にしていられなかった。この笹を見るまで、今日が七夕で絵あることも忘れてしまっていた。その仕事も今日で失ってしまったわけだが。
少年に手を引かれ、お茶屋の前まできた。
「七夕の飾りだよ。知らないのか?」
こくん、と少年がうなずく。
「たなばたって、なんですか?」
「年に一度、織姫と彦星が出会う日をお祝いするんだ。普段、二人の間には天の川って川があって、自由に行き来できないんだ。だけど、今日だけは白鳥が橋になってくれて、二人はその橋を渡って再開することができるんだ」
へえ、と感心したように少年は青年を見上げた。そして短冊をつかみ、
「これは?」
と聞いてきた。
「たんざく、って言うんだ。お願いごとを書いて吊るしておくと、織姫と彦星が叶えてくれるんだ」
少年がつかんだ短冊には「ゲームが欲しい」と拙い文字で書いてあった。このお茶屋の子供のものだろうか。
「おにいさんはなにかおねがいしたいこと、ないんですか?」
「ん? ……そうだなぁ。大切な人と仲直りできますように、かな」
「かなうといいですね」
少年が微笑む。
「ああ」
つられて青年も微笑んだ。
「おりひめさんとひこぼしさんはどこにいるんですか?」
「あそこだよ」青年は空を指差す。「お星様になってみんなを見守ってくれているんだ」
空を見上げた少年の顔が曇る。
「見えません」困ったように言った。「これじゃ、おねがいごともかないません」
「ああ、そうか」青年も見上げる。「この街の夜は明るすぎる」
揺れる笹の葉ごしに見える空は、濃い灰色に染まっていた。月は見えるが、星々の細かい光はない。星が瞬く漆黒の空はどこにもなかった。のっぺりとした大きなドームが天を覆っているように見えた。
「みたいです」眉根を寄せた、哀しげな表情のまま、少年は空を見つめた。「おほしさまがみたいです」
「じゃあ、行くか」
「え?」
「星、見せてやるよ」
青年は少年の手を引き、向かっていたのとは逆の方向に歩き出した。
バスはゆっくりと坂を登り、傾斜が緩やかになっているところで停まった。
青年と少年は運賃を払い、バスを降りる。乗客は彼らだけ。降りる客も、彼らだけ。乗ってくる客もいなかった。空っぽになったバスはゆっくりと坂を降りていった。さっきまでいた街が下に見える。バスの光はそこに吸いこまれていった。
バスはここまでした登ってこない。後は、歩きだ。二人は坂を登っていく。
この坂の上には高校がある。青年も通っていた高校だった。このあたり一帯は坂がきつい高台であり、生徒は毎日恨み言を吐きながら登校する。
そんな場所だから、最も空に近い、と青年は考えていた。特に周囲に何があるわけでもないので、街灯も少なく、とても暗い。
夜の学校は、気味が悪い。少年は怯えながらも青年の後をついてきた。つないでる手には一際力がこもる。
正門から入ると警備員に見つかる。経験上、それを知っていた青年は裏門から敷地に入り、非常階段から屋上に上がった。
「うわぁ」
少年が声をあげた。
空いっぱいに星が広がっている。どこでも星が瞬き、月は夜の王であるかのようにその中に陣取っていた。まるで、星の海だ。
空だけではない。眼下にも光の海があった。街の明かりは、空と同じような、無数の星に見えた。まるで、光の粒を詰めたボールの中にいれらているような、そんな光景だった。
その空の中に、小さな光がたくさん集まって連なっているところがある。それは川に見えた。
星の川、天の川だ。
青年は空を指差す。天の川を挟んで、強く光る二つの星を織姫と彦星だと説明する。
「どうだ、すごいだろう」
得意げに青年は少年に向かって言った。視線を下に向ける。
「あれ?」
すぐそばにいたはずの少年はそこにいなかった。あれほど片時も離れず、手を離さなかったのに。少年の姿を探し、青年は後ろを振り返った。
少年はいた。天に向けて大きく手を掲げていた。それは祈っているようでもあり、星をつかもうとしているようでもあった。
「おい……」
声をかけようとして、青年は途中で止まった。
少年の身体がゆっくりと、光を帯びてきた。
ふわり、と小さな身体が浮く。だんだんと光は強くなり、集束し、少年の姿が見えなくなってきた。
光が膨張する。何倍もの大きさに膨れたところで、弾けた。
青年の目を光が射す。青年は目の前に手をかざし、目を閉じる。まぶたを通して、光の強さを感じる。
強烈な光が収まるのを感じて、青年はゆっくりと目を開いた。
そこに少年の姿はなかった。いたのは、柔らかな光に包まれた、巨大な白鳥。
白鳥は翼を広げた。ゆっくりと、空へ舞い上がる。
『おにいさんのおねがいはきっとかなうよ』
頭の中にあの少年の声が響いてくる。白鳥がしゃべっている、と青年は直感した。
『ありがとう、おにいさん」
星の海へ、白鳥が飛びこむ。大きな翼を優雅に動かし、天の川を目指して飛んでいく。
やがて、その大きなシルエットは小さくなり、見えなくなった。屋上は再び暗闇に支配される。星と月だけが、天で輝く。
しばらく、ボーっと空を見上げていた青年は、ふと、懐から携帯電話を取り出した。メモリ番号0番を呼び出し、電話をかける。
相手が出なくても諦めなかった。何十回も呼び出し音を鳴らし、やっと相手が出る。
「あのさ、俺だけど、さっきのことで話があるんだ……」
空には天の川を挟んで織姫と彦星が。天の川の中を大きな白鳥座が輝いていた。